闇を照らす火の粉
凪の家の風呂は、長屋の中にある。つまり今はあぐりさんと瑠奈さんが使っている生活スペースの建物の中にあるということで。
どうにも勝手が分からなくて、俺は長屋の入口の前で立ち往生してしまう。
そのとき、長屋の裏手から低いがよく通る声がした。
「どした?」
「あ……遅れてごめんなさい。洋です」
あぐりさんだ。瑠奈さんの話では風呂の焚き付けの番をしてくれている。
体格の良い彼女が土の地面を踏む足音が近づいてくる。建物の影から、にゅっと顔を出したあぐりさんの表情からは相変わらず感情が読み取れない。
「どした?」
「あ、えっと。ここの風呂って初めてで。どこにあるのかな〜とか、あぐりさん達が寝泊まりしてる所に入っていいのかな〜とか」
あぐりさんはじっと俺を見つめている。その視線の中に、どことなく呆れたような色が混じった。
「建物に入らずにどうやって風呂に入んだ。遠慮してねえで入れ」
「ご、ごめん。ありがとう」
あぐりさんがわざわざ入口の引き戸を開けてくれた。模様入りのすりガラスが入った引き戸は母屋と似たような造りだ。
入口から見て左右に障子で閉ざされた部屋が一部屋ずつ。おそらくここがあぐりさん達が使っている部屋だろう。その中央に二階へ上がる階段と、奥へ続く通路がある。
「風呂は廊下の先の左。右は物置になってる」
「ありがとう。それじゃ行ってくる」
「ん」
あぐりさんは短く返すと、再び長屋の裏手へと戻ってゆく。俺は言われた通り、廊下の奥へと歩いていった。
長屋の風呂は、さすがに簡易的な造りの共同浴場とは比べ物にならなかった。
板張りの床を軋ませて浴室の引き戸を開けると、立ち込める湯気の向こうに深い緑色のタイルに囲まれた浴槽が見える。
タイルはところどころひび割れ、目地が茶色く変色したりしているが、それがかえって仕事終わりの誰かの身体を温めてきた歴史を感じさせた。
浴槽がある側の壁には小さな窓がついていて、半分ほど開いている。風が気になって閉めようとすると、外からあぐりさんの声がした。
「閉めんな。熱ちいとか冷てえとか、湯加減を言え」
「あ、そういうことか。分かった」
お湯の温度はあくまで焚き付けの火で調整するのだ。
納得した俺は簡単に体を流そうと、木の桶でお湯をすくい頭からかぶる。その熱さが、山の空気と汗で冷えた体の感覚を叩き起こした。
そろりと足の爪先から風呂に入る。
「おお……染みる……」
「熱ちいか」
「うん、ちょっと」
俺が答えると、外から何かを叩きつけるような音がした。
「何してるんだ?」
「薪を取り出して、燃えてるのは砕いて火を弱めんだ」
「へええ」
「まだ熱いなら水足せ」
見ると、浴槽の隣に長い管の蛇口があった。そこから水を足すと、快適な温度になる。
「ありがとう。今がちょうどいいよ」
「ん」
窓から薪が燃えるパチパチという音がかすかに漏れてくる。一日の疲れがお湯に溶けていくようだった。俺は頭を空っぽにして、一人きりの風呂を堪能した。
「……瑠奈から、話聞いた」
「うん?」
リラックスしきっていた俺は、あぐりさんの声で閉じていた目を開ける。
「危ねえとこだったみたいだな」
「ああ……でも、ケガがなくて良かったよ」
「おめえも」
「え?」
「えがった」
それって、妹分の瑠奈さんだけじゃなく俺のことも心配してくれたってことか。
段々畑で厳しく俺を否定した、あのあぐりさんが。
「……瑠奈は、何でも一人でやる癖がある。それでも問題ねえぶんには構わねえんだが。今日みたいなことにならねえかと、気にはかけてた」
「そうなんだ」
半分開いた小窓の向こうからは薪が爆ぜる穏やかな音と、焚き付け口から舞い上がった火の粉の匂いが流れ込んでくる。
「今日、おめが瑠奈にくっついてってくれて、えがった」
あぐりさんの言葉には淀みやためらいがない。だからストレートに心に響く。
『えがった』。そうはっきりと言い切る声がくすぐったくて、俺は照れ隠しに何度も顔を洗った。
「どした? 熱ちいか?」
「ううん、全然。ねえあぐりさん」
「なんだ?」
「俺もさ、瑠奈さんと話したんだ。そこで、褒めてもらって嬉しくないのかって話になって。正直俺はピンと来ないというか、よく分からないって言った」
あぐりさんは黙って聞いてくれている。
「でも今なら分かる気がする。俺、今すげー嬉しいよ。瑠奈さんにありがとうって言ってもらったこと。あぐりさんにケガなくて良かったって言ってもらったこと。どっちも嬉しい」
「そっか」
あぐりさんの声が少しだけ柔らかい調子になった。それはきっと気のせいじゃない。
「畑で生意気なこと言ってごめん」
「ん」
「引きこもって、あぐりさんに心配かけてごめん」
「ん」
「俺、自分ができること探すよ。誰かに言われるんじゃなくて、できそうなことを探す」
「ん」
何を言っても聞き流さず、「ん」と短く返事してくれる。そこに否定の意味はない。だから俺はどんどん話しかける。
凪があぐりさんを信頼しているのも、きっとこういうところなのだろう。
それでもちょっと話しすぎた。
心地よい熱に浮かされ、耳元で自分の鼓動がドクドクと鳴り響く。
あぐりさんが「火、落とすぞ」と告げるころには俺はすっかりのぼせて、視界の端で揺れるタイルの模様をぼんやりと眺めていた。




