石垣の美、その重さ
屋敷に戻った俺の話を聞いた凪の驚きようといったらなかった。
「えっ! それで、スクールに誰もいなかったの!?」
それは凪にとっても晴天の霹靂だったようだ。
「洋くんごめん……。私、てっきり例年通り始まってるものだとばかり思ってて。確認もしないで送り出しちゃうなんて」
申し訳なさそうに眉を八の字にして、凪は俺の顔色を伺う。その純粋な善意が、今はかえって痛かった。
凪のせいなんかじゃない。それは分かっている。
分かっているが、期待に胸を膨らませて空っぽの教室に座っていた自分のマヌケさを思い知らされるようで、俺は曖昧に頷くことしかできなかった。
「……いいよ。別に凪が謝ることじゃない。ただ、これからどうすればいいんだろ」
俺は凪とふたり、縁側に腰かけてしばらく途方に暮れていた。
先に口を開いたのは凪だ。
「それなら、あぐりさんに相談してみようよ。そろそろお昼ご飯食べに戻ってくるはずだよ」
小野寺さんか。もともとスクールの後に手伝いをしようかと考えてたんだよな。
昼ごはんはあらかた作り終えているようだった。俺は凪と一緒に準備をすることにする。
「ありがとう、助かる。じゃあこれとこれ、縁側に出しておいてくれる?」
そう言って凪から手渡されたのは、お茶が入ったヤカンと、大きなおにぎりが乗った皿だった。
「でっか。これ小野寺さんが全部食うの?」
「うん、そうだよ。今回は洋くんのぶんもあるから、先に食べてていいよ」
麦飯をアオサ海苔で包んだ、広げた手の平より大きなおにぎり。炊きたてのような熱さはないけれど、粒のひとつひとつがツヤツヤしていて食欲をそそる。
縁側に腰かけ、おにぎりのひとつを頬張る。アオサの潮の風味と、ほんのり塩味が利いた麦飯が美味い。中の具はゴマをまぶし、甘辛く味付けされたおかかだ。
気疲れしたのか、沁み入る美味さにバクバクと食が進んでしまう。そんな俺の隣に無言のまま腰を下ろした人物がいた。小野寺さんだ。
「あ、ど、ども、小野寺さん。お疲れさま……です」
「ん」
相変わらず言葉が少ない小野寺さんは、おにぎりを鷲掴みにすると、大きくかぶりつく。
この人、食べ方がいつもダイナミックなんだよな。
あんなに大きなおにぎりを3口くらいで食べてしまい、お茶で流し込むように飲む。そんな食べ方してて消化不良にならないんだろうか。
小野寺さんは食事のときほとんど喋らない。共通の話題がない俺も、何を喋ればいいのか分からず固まってしまう。沈黙の重さに耐えられなくなってきたその時だった。
「学校、やってなかったって?」
小野寺さんの問いは短かった。そこに同情の響きなど微塵もない。
誰から聞いたんだろう? 教室に顔を出した、あのじいさんだろうか。
「……ああ。生徒が俺一人しかいなくて、休止だって」
「そうか。なら、遊ばせとく手はねえな」
小野寺さんはお茶をごくんと音を立てて飲み干した。気がつけばおにぎりは皿の上からすっかりなくなっていた。
「手伝え。あと、おれのことはあぐりでいい」
小野寺さん……あぐりさんは、俺を見もせずに言った。
俺たちは屋敷の裏手へと向かった。
初夏の陽光に照らされた段々畑は、河内晩柑の葉までキラキラ輝いている。
ただし俺に示されたのは、その黄色い実でも、木を支える土でもなかった。
あぐりさんは顎で、崩れかけた石垣の一角を指した。
「前の雨で少し緩んじまってる。そこを積み直せ。石垣が崩れっと土砂が流れちまって下の段の作物も死ぬ。ここでは土を守るのが何よりも大事だ」
無口だとばかり思っていたあぐりさんだが、ここではハキハキと喋るのが意外だった。
とは言っても、あぐりさんの指導は素っ気ないものだ。「大きい石を積み、隙間を小さい石で埋める」「重心は内側にかける」――それだけだ。
俺はあぐりさんから受け取った軍手をはめ、指示された通りに石を持ち上げた。
重い。
白く軽やかな見た目以上にずっしりとくる石の重みは、ひ弱な俺の腕をすぐに震えさせた。
目の前であぐりさんがやるのを見様見真似で不格好に石を置いてみる。
同じようにやっているつもりでも、あぐりさんが積んだような美しさは微塵もない。
押さえている手を少し離せば、石は無情な音を立てて転げ落ちた。
「違う。もっと根を詰めろ。適当に置いたらまた雨が降った時に全部崩れるぞ」
あぐりさんの声が、背後から突き刺さる。
「わかってる……やってるよ」
返事をする余裕すらなかった。軍手があっという間に泥に染まり、汗が目に入ってしみる。
1時間、2時間。
何度やっても、俺が置いた石は安定しなかった。隣であぐりさんが、まるで呼吸をするかのように自然な動作で石を積み上げていくのと対照的に、俺の足元には崩れた石の山ができるだけだ。
学校に拒絶され、今度は石にさえ拒絶されているような気がした。
焦りと疲労が、俺の中の何かを消耗させていく。
そんな時、俺が必死に支えていた土台の石が、あぐりさんが先に置いた石に弾かれるようにして崩れた。
「――あっ」
ガラガラと音を立てて、今日積み上げたわずかな成果が崩壊する。
「……無理に石をねじ込む奴があるか。積み木やってんじゃねえぞ。やり直せ」
あぐりさんの淡々とした指摘が、ついに俺の沸点を超えた。
「やり直し、やり直しって……さっきから聞いてれば! だいたい、教え方が不親切すぎるだろ!」
俺は手に持っていた石を地面に叩きつけた。
「俺は、農家になりに来たわけじゃない! 学校で学びに来たんだ。それが、いきなりこんな泥仕事……。あんたがもっと丁寧に、コツとかを論理的に説明してくれれば、こんなことにはならないんだ。あんたの教え方が悪いから、上手くいかないんだよ!」
言い終えてから、自分の声が情けなく震えていることに気づいた。
あぐりさんは、叩きつけられた石をじっと見つめていた。怒るわけでもなく、ただ、底冷えのするような冷ややかな目で俺を見上げた。
「教え方?」
「そうだ。俺は初心者なんだ。もっと段階を踏んで……」
「洋」
あぐりさんは俺の言葉を遮り、立ち上がった。彼女の影が、大きな山のようになって俺を覆う。
目の前に立つ彼女の、労働によって鍛え上げられたしなやかな肉体。陽に焼けた肌から漂う土の匂い。その存在感が、言いかけの俺の言葉を全て封じ込めた。
「仕事は嘘をつかねえ。おめが掴んだ石を『ただのモノ』だと思って適当にすっから、石もその通りの仕事をした。そんだけのこった」
あぐりさんは俺から視線を外すと、俺が崩した石垣を当たり前のように美しく整然とした形へと積み直した。その鮮やかな手仕事が、俺のプライドを粉々に砕く。
「人のせいにする余裕はねえぞ。まずその手の震えを止めることから始めろ、情けねえ」
ひ弱な俺の腕だけでなく、手が震えていることまで見抜かれていたなんて。自分が惨めで仕方なかった。
「今のおめに、畑を触らせるわけにはいかねえ。……帰れ、時間の無駄だ」
「……っ! 勝手にしろよ!」
俺は叫び、あぐりさんに背を向けた。
屋敷へと戻る道すがら、泥だらけになった自分がひどく汚らしく見えた。
変わりたいと願ったはずなのに。その決意はどこへ行ってしまったんだろう。
夕方が迫る段々畑に、俺の荒い呼吸だけが空虚に響いていた。




