窓からの景色
103教室の引き戸は、乾いた音を立てて開いた。
かつては低学年の教室だったのだろうか。並べられた机や椅子はどれも小ぶりで、背を丸めて座らなければならない自分の体躯が、場違いのように感じられた。
俺は入り口に近い一番端の席に腰を下ろした。
窓からは、初夏の陽光が容赦なく降り注いでいる。その光の中を、無数の埃が舞っていた。
視線を外に向ければ、グラウンドの柵の向こうに青くどこまでも深い海が広がっている。
かつてここはもっと賑やかな集落があった。アスファルトで舗装された道があり、騒がしい日常があった。それが今は、鏡のように穏やかな水面の下で静かに眠っている。
……遅いな。
教室の時計を見る。そろそろ昼が近い。
凪の案内を断った手前、ここで大人しく待っているのが「自立した個人」の振る舞いだよな。
そう自分に言い聞かせ、ポケットから凪に渡されたルミティアを取り出した。
手のひらに伝わるプラスチックの冷たさが、今の俺にとっては唯一の碇のようだった。
「……よし。俺は今日から生まれ変わるんだ」
声に出してみる。その音は、誰もいない教室の壁に吸い込まれ、虚しく消えた。
10分が過ぎ、1時間が過ぎようとしていた。
窓からは波の音が遠く近く、揺らめいて聞こえる。それ以外の音はない。
次第に、俺の胸の中にじわりと黒い不安が広がり始めた。東京にいた頃、自室のベッドで天井を見つめていた時の、あの「世界から取り残されている」という感覚。
まさか場所を間違えたのか? いや、立札には確かに103の教室とあった。
凪が嘘をついたとか? そんなはずないよな。
焦燥感に駆られ、俺が立ち上がろうとしたその時。廊下から重い足音が近づいてきた。
「おや、誰かと思えば。あんたが凪ちゃんのところに来た、東京の坊主か」
扉が開く。立っていたのは、日焼けした顔に深い皺を刻んだ、初老の男だった。首にかけたタオルで汗を拭いながら、男は不思議そうに俺を見つめた。
「あの、今日からフリースクールが始まると聞いたんですが。誰も来なくて」
俺の問いに、男は一瞬きょとんとした顔をした。それからひどく申し訳なさそうに眉を下げる。
「ああ……。あんた、聞いてなかったんか。いや、伝えるのを忘れとったんかねえ」
「何をですか?」
「今年のスクールは、休止だよ。生徒募集はしとったんだが、申し込みがあったのはあんた一人だけだったんよ。さすがに一人じゃ授業も成り立たんし、大人もみんな畑や設備の補修で手一杯でな」
男の言葉が、すぐには理解できなかった。
「お、俺一人……? でも、俺はここに参加するために来たんです。ここで学んで、自分を変えようと思って……」
「そう言われてもなあ。ここは普段、避難所や倉庫代わりにはなってるが、学校としては今は動いとらんよ。凪ちゃんも、あんたを元気付けようと思って、あえて言わんかったんかもしれん」
男は「悪いなあ」と短く言い残すと、己の用事を済ませるために廊下へ戻っていった。
103教室に、再び沈黙が訪れる。
先ほどまで「静謐」だと感じていた光景は、一瞬にして俺への「拒絶」の色に変わった。
歓迎されていると思っていた。ここに来れば少なくとも誰かがレールを敷いてくれて、何もできない自分を導いてくれるのだと。
しかし、現実は違った。
世界が大きく変わっても、人は生きていくために忙しい。自分一人を導くために足を止めてくれるほど、この場所は甘くないのだ。
俺はポケットの上からルミティアを握りしめた。指先が白くなるほど強く。
なんだよ、それ。せっかくやる気になったのに。
込み上げてきたのは悲しみよりも、以前より強く感じる自分自身への情けなさと、状況への苛立ちだった。
「……勝手すぎるだろ」
俺は誰にともなく吐き捨てると、椅子を乱暴に引き、逃げるように教室を後にした。
外に出ると、来たときと同じ潮風が頬を撫でる。
校舎の外に広がる海は、残酷なほど美しかった。水没した集落の跡を隠し、ただまぶしく光を反射している。
凪に何て言えばいいんだろう。
男が言った「今はみんな手一杯」という言葉が、自分を否定する呪文のように頭の中を何度も行き来していた。




