最終話 青 (1/3)
「青さん、視えているんですね」
怯えながら頷く私に、稜華さんは視線を父の方に向けたまま続けた。
「先ほども伝えました通り、金縛りをかけています。どうかご安心ください」
そうだ……。
思い出すと、お線香のにおいをまた感じるようになった。それに背中を押されるように、けれどおそるおそる、私は父の方を眺めてみる。
稜華さんが言うように、母は唸りながらも動けないでいるようだった。
でも――これがお母さん……?
骨と皮だ。肉付きが全くなく筋張っていて、肌の色も土色にくすみ、干からびているみたいだった。腹部もえぐり取られたように凹んでいる。
そして顔は身体に比べて面影がはっきりとあるけれど、稜華さんを睨む表情は私でも見た事のないほど邪悪に満ちていて、脳裏へと簡単に焼き付いてしまう。
本当の母の姿は、私の前に現れる時の感じでも、父に会いに行く時の新婚当初の感じでもないって事?
稜華さんに訊こうと思ったけれど、止めた。
母は父に、醜い姿である事を知られたくないだろうから。
「霊が自由に動いたり姿を変える為には、それ相応のエネルギーが必要なんです。人の生命エネルギーを吸う悪しき霊も居ますが、奥様の場合は餓鬼道に落ちていますので、それが出来ません。でも……あの野月さん、夢の中で奥様から食事に誘われると仰っていましたよね?」
「は、はい」
「それ、他の霊を食べているんですよ」
「え?」
「信じられないかもしれませんが、奥様の食せる物は限られています」
「で、でもだからって」
思わず会話に割って入った私に、稜華さんは悲しそうに目を伏せた。
「そうですね青さん……。成仏せずにこの世へと残る霊の中には、私たちが軽々しく踏み込めないような事情のある方も居るでしょう……。しかしお母様は、自らの欲望の為に、人として在るべき魂を捨ててしまったのです」
「あ……」
「人として生きていたいが故に、人ならざる者へと落ちてしまう。それほど、戻る事のない生に執着するというのは……」
そっか……お母さんは、苦しいんだ……。
「理解っていただけたようですね……。しかしながら罪は罪。課題として来世に影響するのは避けられないでしょう。ですが、これからもっと業を深くし邪悪な存在になる前に、お母様を、奥様をしっかり供養してあげたいのですが」
稜華さんの温かい問いに、私と父の心は決まった。互いに頷き合う。その瞬間、何だか急に空気が軽くなった気がした。
「はい……どうか妻を、あの世へ送らせてあげてくださいっ」
「お、お母さんを、よろしくお願いします……!」
頭を下げる私たちに、今度は稜華さんが頷く。
「それでは、特別な御祈祷を始めます。野月黒葉さんを昇華いたします」
「青ちゃんたちも手を合わせて」
「はい……」
先輩が隣に来てくれた。先輩は私に笑顔を見せた後、手を合わせて目を閉じた。
何でだろう。先輩が近くに居るだけで、すごく安心する……。これってもしかして、先輩の持つ特別な力なのかな?
私たちも手を合わせ、目を閉じると早速、住職の声で般若心経が聞こえてきた。するとその奥、稜華さんの方からはあの鐘の音が。
この間は怖くて堪らなかったけれど、先輩が鳴らしてくれたこの音のお陰で助かったんだ。気持ちを強くしよう!
『うう 苦し い、苦 しい』
相変わらず、母の呻き声が聞こえてくる。喉が焼かれた声で泣くみたいにして、私の罪悪感を刺激してくる。
でも私は、これ以上母に我を忘れて欲しくない。人を捨てて欲しくない。
人生を、母のもので終えて欲しい。
次第に母の声は、断末魔のように過激になってきた。その声は、どんな名演技でも耳にした事の無いくらい追い詰められていて、命の危険を感じさせるものだった。
きっと人が襲われたら、こんな風に叫んでしまうのだろう。
まともに聞いていたら、トラウマになる。その前には、気がおかしくなってしまうだろう。
でも、住職の流れるような声と稜華さんの奏でる音を集中して聴いていると、言葉に表せない漠然とした焦りや不安が遠くなっていく。
そうして何とか時を過ごしていると。
え――?
目を閉じているのに、視野が広がった。
部屋全体が視える。まるで俯瞰しているかのように。でも私は、幽体離脱したように身体が抜けているわけではない。ちゃんと自分の場所から視える。不思議だった。
そして彩度は低い。色はあるけれど薄い。乏しい。もしかしたら、犬や猫が見るような景色って、こんな感じなのかもしれない。
住職の声が、波紋のように響いていく。目でも音でも振動を感じた。
そんな住職の肩に手を置く稜華さんからは、青い炎が燃え盛っていた。鐘を鳴らすタイミングで爆ぜて、大きくうねった。
けれどなぜだか私には、その炎が怖くない。もちろん熱くもない。
部屋の空調も、お線香のにおいも、前に座る稜華さんたちの距離も、隣に居てくれる先輩の温度も、住職の言葉の響きも感じるのに、激しさを増す炎がまるで優しい。
でも母にはきつい炎のようだった。何度も助けを求めて、苦しそうに声を荒げていた。
早く母を楽にさせてあげたい。そんな感情が芽生えるのも早かった。これでは隙を作ってしまう。住職と鐘の音に集中しなければ、集中……集中……。
その作業を繰り返していくと、気が安定してきた。私は気持ちを浅くして、再び母を見てみた。
炎に焼かれる母の光景は辛かったが、この時間の終わりを、目途を知りたい気持ちもあったのだ。
今になって気付いたけれど、何やら母の身体から数本、頼りない煙のような長いものが垂れ下がっていたのがわかった。ゆらゆらと風に煽られるかのように、たなびいている。
父と繋がる為の、コードのような役割なのだろうか。一つだけ、父の背中に刺さっていたのが目視出来た。
自分も憑かれていた時、そんなものが繋がっていたのかと思うと気持ち悪い。
でも最後のそのコードが、ついに炎で切れた。すると邪悪だった母の姿が、私の知っている生前の姿に戻った。
ああ良かった。そう思ったけれど、母の視線が突然、私へと向いた。
まるで目が合っているみたいだった。相変わらず稜華さんの金縛りで自由が奪われていたが、母はニタっと笑うと、媚びるような声で私の頭の中へと話しかけてきた。
『青~。ねぇ青~? 聞こえてるんでしょ~? こんな小娘にたぶらかされてないで、お母さんを助けてぇ?』
お母さん、どうかもう……!
『お母さん、こんな短い人生なんて満足出来ないわ……だって、何も出来なかったもの。毎日毎日、家の事ばかりでつまんなかったわ。お母さんが何もない人生なんて、青も可哀想だって思うでしょ? ねぇ青、助けてよ。お母さんが可哀想でしょ?』
短い人生……でっ、でもっ、私の事は自信ないけど、お父さんとの思い出はっ? お父さんとの出会いも無し?
自分の人生を否定しちゃったら、悪い存在になっちゃったら、すごくもったいないよ……。お母さんが今必死に護ってるこれまでの頑張りが、幸せが全部っ、全部無くなっちゃうんだよ?
『だまれ! 無能のお前が、わかったような口を利くな!』
あとね、お母さん……私、お母さんの作ったご飯すごく好きだった……お母さんが作ったお弁当、すごく自慢だった……。
今お母さんの代わりに炊事洗濯してるけど、本当大変で……だから私、お母さんの事すごく尊敬してるんだ。
それにお母さんは、そんな中で私たちを産んでくれたんだよ? 毎日毎日、休まず私たちに美味しいご飯と綺麗なお洋服を用意してくれたんだよ? すごいよっ。
『だ まれ、だま れ』
ねぇお母さん……私、本当に本当に感謝してる。
お母さん、私を産んでくれて、育ててくれてありがとう……!
「野月黒葉さん……あなたを想う優しさを信じてください」
『…………ふん』
「……お疲れ様でした。もう目を開けても大丈夫ですよ」
「奥様は昇華されました。どうぞ、ご安心ください」
稜華さんの後に、住職が穏やかな声でそう言った。
目を開けると、先ほどまで厳しい顔付きだった住職がにこにこしていて、私は力がふっと抜けた。何だか家の雰囲気まで違って見える。よそ行きだった服を脱いで、部屋着に変えた時みたいなくつろぎを感じた。
父を見ると、緊張の糸が切れたのだろう。正座をしながらも首がカクンと傾き、姿勢もふにゃんとしていて、ちょっと場に相応しくない表現だけれど、温泉の後にマッサージの施術も終えたみたいな、リラックスした顔で脱力していた。
これが正真正銘の、憑き物が落ちたっていうやつだろう。
「青さん、お母様の良心を引き出してくださり、ありがとうございます。青さんの優しさに救われました」
頬に一筋の汗を流しながらかけてくれる稜華さんの言葉に、私は胸がいっぱいになった。
母には色々と思う所はあったけれど、私の伝えるべきもの、弔いの言葉はあれで良かったと思った。
お母さん、ようやく苦しみから解放されたんだ……。
「い、いいえ……! 皆さんが身を挺して私たちを護ってくださったお陰で、私は母に……生前出来なかった気持ちを伝える事が出来たんです。ご住職、稜華さん、それから先輩。母を救ってくださり、本当にありがとうございました」
「ありがとうございました!」
私たちが感謝を口にすると、先輩たちは謙遜しながらも安堵したように笑った。
やっぱり耳にする声は、こういう優しいのがいい。
「あっ、そうです。さっき、目をつぶっていたのに視えたんですよ、御祈祷の様子が」
「え! 青ちゃん、それがち?」
「は、はい」
「じゃあ青ちゃん、めっちゃ怖かったでしょ?」
「はい、すごく……。って、先輩。すぐに信じてくれるんですね?」
「もち!」
「ふふ。でも耐えられました。ご住職も稜華さんも、すごい気迫でしたから」
「ぷ! すっげー気迫だってさ、稜姉?」
先輩が笑いながら、そう稜華さんをからかった。稜華さんは目を眇めると、そんな先輩の肩を弾くように押した。
うう。そんなつもりじゃなかったのに。
「こっ、心強かったという意味です! そっ、それに、あのベルが護ってくれているのがわかって」
「あぁ、あれか。そっか……良かった良かった」
先輩は、はにかんだように笑った。
「そういえば霊視の結果、青のがまだでしたよね? 今ので祓われたんですか?」
父の言葉を聞いて、そういえばと思った。
「いいえ。青さんのお話は真実ですが、お姉様の念……生霊は居ません。それから少女の霊も」
「え?」
「お姉様は、この後のお出かけが楽しみなんだと思います。お姉様の残留思念から聞こえました」
「あー……」
映画とショッピング。
そのつもりで前から週末の予定は立てていたけれど、急遽こうして皆さんに来てもらう事になっちゃったから行けるだろうか。それに、この後に仲良くお出かけなんて気まずくて、姉は来てくれないかもしれない。
どうなっちゃうかな。取りあえずお姉ちゃん、帰ってきたら怒るだろうな。騙す形だもん。
「少女の霊の方は、おそらくお姉様に憑いていらっしゃいます」
「お姉ちゃんに……?」
「ええ。それから一昨日の夜にあった呪いのような霊障ですが、少女の霊……邪霊に幻覚を見せられたのだと思います。あの、お電話でお伝えした通り、この後の御祈祷に向けて真白くんも加えた皆さん、そしてお家にも結界を張りたいと思います。なので申し訳ないのですが、詳しくはお姉様が家へ戻られた時にお話いたします。あ、お姉様の残留思念もささっと祓っておきますね?」
「わ、わかりました」
そして、全て施し終わった時。
「ただいまー」
姉が仕事から帰って来た。




