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私小説:作者が経験した事柄を素材にして描かれた文章。
あくまで改変ありのフィクションが前提とされる。
橈骨神経麻痺によって、腕の感覚が無い中に訪れる目覚め。
ハネムーン症候群なんてよく言ったものだと思いながら、利き腕にそんな無体を強いる犯人を起こさぬよう、身体を捻って床に倒れるようにベッドから転がり降りながら、首の下からそっと枕となっていた腕を取り戻す。
長時間潰された神経が、微睡んでいる思考と共に目覚め、痛みと倦怠感を脳に伝えて来る。
そんな最悪な目覚めを迎えるのが、私の日常だ。
しかし今朝は、いつもと違った目覚めだった。
……目を覚ました先に、見慣れた寝顔が無い。
背中を向けられているのではなく、そもそも、私の枕と隣り合わせに並べられた枕の主、そのものがいない。
嫌な予感と共に、一気に脳が覚醒し飛び起きた。
私の動きに合わせて、けたたましくジャラジャラ鳴る鎖の音を気に止める事もなく、慌てて部屋の扉を開けた。
勢い良く開けてしまったために、黒く塗りつぶされた障子が「スパンッ!」と派手な音を立てた。
「うわ、びっくりした〜
おはよ〜」
コチラの焦燥なんぞ、微塵も感じ取っていないのだろう。
私の心情とは真逆の、なんとも間延びした声で目覚めの挨拶をされた。
寝起きから、腹が立って仕方がない。
まさかまた、救急車を呼ぶような状況になっているのではないかと、肝を冷やしたと言うのに……
「……おはようございます。
今日は、早く目が覚めたのですね」
引っ掻き傷程度ですら、先生には致命傷になる。
傷付ける可能性のある言葉を全て飲み込み、挨拶をした。
ただ言った後で「もしかして今の言葉もヤバいかも?」と思った。
今日は、という事はつまり、いつもは違う。
「それ嫌味?」
そんな短い疑問文から始まり、
「どうせいつも寝過ぎてるよ」
「薬のせいなんだから仕方ないでしょ」
「好きでこんな身体になったんじゃない」
「どうせこんな面倒臭い人間、誰も好きになってくれない」
ラジカセの電源でも入れたかのように、いつも同じセリフを罵詈雑言の合間に繰り返し、挙句の果てには
「キミだってボクの事を捨てるんでしょう!?」
とのたまうのだ。
朝っぱらから、ホント勘弁して欲しい。
イヤ、そのきっかけになるセリフを言ったのは、他でもない私なのだが。
憂鬱な気持ちでその時を待てば、今日は更にいつもと違う事が起きた。
「そう!
今日は用事があるからね!」
とても可愛らしい笑顔で肯定をされた。
拗ねる事もなく、顔を歪める事もなく。
……こんな表情、久しぶりに見た。
今日は調子が良いのだろうか。
それはとても喜ばしい事だけど……
引っ掛かる言葉があったな。
「用事、ですか?」
「うん!
引越し業者さんが来るんだ!」
いかにもウキウキとした弾んだ声で、なんだか聞きなれない言葉が飛び出してきた。
「……誰かがまた、ココに越してくるのですか?」
「違うよ〜
ボクたちが、引っ越すの」
達。
自分が行く所には、当然のように私もついて行くのだと、何も疑っていない、ごく自然に出た言葉だ。
先生から私への、信頼の証と言える。
それ自体は喜ばしい。
目の前にある小さな身体を抱きしめて、頭を撫で回したくなるくらいには嬉しい。
だが……
「……私は、何も聞いていませんよ?」
「最近キミが残業ばっかだったからでしょ」
「それは……すみません。
え、でも……
……あの、業者さんって、何時に来るのですか?」
‘’でも、話をする時間はあったでしょう?‘’
‘’でも、荷造も何もしていないですよね?‘’
そんな否定形から入る言葉を言ったら、今度こそスイッチが入ってしまうかもしれない。
今日、本当に引越し業者が来るのなら、そんな押し問答をしているヒマも、ヒステリーを起こした先生の機嫌を取っている余裕もないのだ。
まずは現状の把握をしなければ。
「九時に来るよ」
「……あと、三〇分も無いのですが」
「荷造りもして貰うやつ頼んであるから、ゆっくりしてればいいよ」
「良くないです。
暑い中仕事をさせるのですから、せめて冷たい飲み物は用意しておかなければいけません。
何よりも、私のこの、首輪と鎖!
取ってください!
それと服も着なくては……鍵!
クローゼットの鍵をください!」
「お休みの日は、その格好でいるお約束でしょう?」
フルチンのまま、全く見ず知らずの第三者を部屋に招き入れろと!?
冗談だろ!?
女性がいたら、通報されるだろうが!
そんな事も判らないのか、その脳ミソは!?
そう、心のままに叫んでやりたい。
だが、我慢をせねば、話が進まない。
「出掛ける時は、その限りではないのですよね?
業者さんへの差し入れを買いに行かねばなりません。
服を、出して下さい」
「ボクがコーディネートしたのでもいい?」
先生が私に着せたがる服は、鋲がゴテゴテしていて十字架やドクロが描かれているような、初対面の人間を威圧させるものばかりなので嫌です。
「引っ越しをするなら、荷解きも必要でしょう?
その時に……引っ掛けて破ったり、汚してしまってはいけません。
動きやすい格好でお願いします」
「ちぇ〜」
‘’その時に邪魔にならない格好で‘’と口から出そうになった言葉を飲み込み、理解・納得してくれそうな言葉に言い換えた。
先生は口をとがらせながらも、私の中学時代のジャージをクローゼットから引っ張り出してきた。
……なぜ、オシャレなブランドもののジャージもあるのに、そんなダサいものをわざわざ選ぶのだろうか。
ある種の嫌がらせにしか思えない。
セットで出された下着類も、ゲーセンのUFOキャッチャーで取った、ユニークアイテムだし。
いつ、誰が着るんだよ!?
言って指をさして爆笑しながら、ネタにと一度だけチャレンジして、何故か取れてしまったフリフリの、光沢を放つピンク色でサテンっぽい生地のものだ。
しかも、男女兼用と書いてあるだけあって、ブリーフ型である。
こんなものを履いた上からジャージを着たら、フリルの部分が変に持ち上がるだろうに。
だがココでゴネて、ノーパンになるのは避けたい。
ジャージのように柔らかい生地でパンツを履けないとマズイ事になる。
真正面から見た時ならば、まだ暗い色だから問題は少ない。
だが横から見た時に、大きさから形状までモロバレになってしまう。
そんな尊厳を踏み躙られる上、周囲を不本意にセクハラしまくる状況は、避けねばなるまい。
お礼の言葉を述べて、着替えを受け取る。
先生は空いた両手で、私の首元から伸びる鎖についている、南京錠の鍵を開いた。
ガチャンと存外、大きな音が響く。
あ、引っ越すなら、床……へこんでないと、良いのだけれど。
……本当に、引越しをするのだろうか。
日常がまだ、こんなにも溢れているのに。
中身がまだいっぱいじゃないからと、一昨日捨てなかった燃えるゴミ。
読んでる途中だからと、何度痛むから辞めて欲しいと注意しても開かれたまま伏せられた漫画。
昨日の夜洗って水切りラックに伏せられたままの食器。
……本当に、引越しをするのだろうか。
混乱したまま立ち尽くしていたら、カチャリと小さな音が下から聞こえた。
見れば首輪が外せないように、南京錠が再び掛けられていた。
「……あの、先生?」
「違うでしょ」
「……ユキ……」
「父親が付けた名前で呼ばないで」
なら何でペンネームをその名前にしたんだよ。
言ってやりたいがら刻一刻と、タイムリミットが近付いている。
我を出してはいけない。
「セツさん、首輪は取ってくれないのですか?」
「服着るのにも、外出るのにも、ソレはつけたままでも問題ないじゃない。
キミは、ボクの所有物でしょう?」
物になった覚えは無い無いのだが……
この珍しくご機嫌な状態を、自分の手で損なうような、愚かなマネはしたくない。
ただでさえ、いつどんな言葉や態度でキレるのか、未だに掴めないのだから。
だがこういう時は、ヘタに誤魔化すような言葉や曖昧な態度を取ったらいけない。
ソレは分かる。
白か黒。
その二択しか無い人なのだから。
肯定して、安心させてやらなきゃいけない。
「そうですね。
じゃあ、引越し業者さんが来る前に、飲み物買ってきますね」
「……は?
何で一人で行くこと決定してるの?」
「え……でも、この暑い中出掛けたら、セツさん溶けちゃいますよ?」
ヤバい。
地雷を踏んだらしい。
「でもって何?!
せっかくの休みの日なのに、ボクに一人で家で待ってろって言うの!?」
「違います。
家の中はエアコン効いてるから気付いてないだろうけど、もう外、結構暑いんですよ。
セツさん汗かけないんだから、倒れちゃいますよ。
心配しているだけです」
「……」
ムスッと口を閉ざしてしまってはいるが、この態度なら、まだキレてない。
ちゃんと、私の言葉は届いている。
「車を出そうとしたら……冷房効くの待ってたら時間なくなっちゃうから無理ですけど、すぐそこの自販機なら、日傘させば一緒に行けます。
少し、お散歩しますか?」
「……うん」
あぁ、面倒臭い。
本当に、面倒臭い。
面倒臭いと思いながらも、この人と一〇年以上付き合いを続けているのは、何故なのか。
我が事ながら、自分の気持ちが分からん。
スーパーまで行けば、種類だって豊富だし、自販機で三本買う値段で五本、場合によっては二本の値段で三本買えるのに!
そんなさもしい事を考えながら、先生に「どれを買ったら業者さん喜びますかね?」なんて穏やかな声色で尋ねるのだ。
巻き付いた合皮によって蒸れる、首元に嫌悪感を覚えながら。
自分の二面性に、反吐が出る。
でもこの関係を終わらせられないのは、一言で言うなら‘’情‘’と‘’いつか‘’を夢見てしまうせいなのだろう。
恐れや嫌悪のような、ネガティブな感情も向けている。
軽蔑してしまうような部分もある。
後悔のような、後ろめたさも感じている。
間違った選択をしなければ、今、もっと良い状態だったのではないかと思うと、責任を感じてしまう。
哀れみや庇護欲もある。
なぜこの人に、こんな酷い事ばかりが襲いかかるのか。
それを考え出したら、これ以上の不幸が訪れないよう、守らなければと自然と思う。
ことごとく、性癖を歪められてしまったから、肉体的に離れられない。
そういう、人様には言えない部分も結構な割合を占めている。
だが何よりも、何ものにも変え難い程に、‘’先生‘’に惚れていて、愛してしまっているから、結局はこの見た目に免じて許してしまうのだろう。
惚れた者の負けなのだ。
仕方ない。
「二本ずつ欲しかったのに!
売り切れちゃったよ!
なんで!?
……補充ぐらいしろやっ!」
振り上げた拳を止めて、怒鳴り散らそうとする先生の顔を胸元にうずめ言葉を遮る。
片手で暴れるのを抑えながら、飲み物を適当に買ってお釣りを取り出し、引きずるようにアパートの部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せて来た。
仕方ない。
そう頭では分かっているけれど、やはり、‘’解離性同一性障害を主とする躁鬱病‘’というものは厄介過ぎると、げんなりしてしまうのだ。




