80話 淫らな痕跡と先代魔王の忠告
「あ、ぁんっ……はぁっ、レジエ……だめ、そこは……っ!」
オロネスの館、自室のベッドの上。
俺は火竜の少女レジエに完全に組み敷かれ、抵抗するどころか、彼女に求められているという背徳的な喜びに全身が震えていた。
お姉さんの手によって、何もかも快楽に変換されるよう改造された喉の神経は、レジエの牙と舌によって容赦なく刺激され、脳味噌が溶け出していくような感覚に陥っている。
「……んちゅ。ミア、可愛い。もっと、いっぱい頂戴……」
レジエが俺の首筋に顔を埋め、獲物の血肉を貪るように、しかし愛おしそうに何度も噛みつき、吸いつく。
「はぁ、ぁぁ……っ、レジエぇ……♡」
俺の口から漏れるのは、もはや言葉ではなく、甘い喘ぎ声だけ。理性はやめろと叫んでいても、本能がもっとレジエに食べられたいと笑みを浮かべてしまっていた。
その時だった。
「……おい」
ガチャリと扉が開き、とても冷ややかな声が部屋に響き渡った。
「発情してる二人。片方に話がある。竜の小娘は出ていけ」
俺とレジエは同時に動きを止め、入り口を振り返った。
そこに立っていたのは、腕を組んでジト目を向ける、金髪美少女の姿をした先代魔王ルカだった。
「……ちぇっ」
レジエは邪魔者が入ったことにあからさまに舌打ちをし、不満げに立ち上がった。
「ミア、またあとでね」
レジエは最後に、俺の首筋の最も目立つ場所を思いっきり強く吸い上げて真っ赤なキスマークを刻み込み、チュッと唇に口づけをしてから部屋を出ていった。
バタン、と扉が閉まる。
部屋に取り残されたのは、衣服は乱れ、全身を汗と淫靡な匂いで濡らし、ベッドの上で腰が抜けて起き上がれない俺と、呆れ果てた様子のルカだけだ。
「……なんだ、その有り様は。路地裏の娼婦よりひどいぞ」
ルカが蔑むような視線を投げかけてくる。
「う、うるさいっ……!」
俺は真っ赤な顔でシーツをかき集め、胸元を隠した。
「本当に、お前は以前は男だったのか?」
「男だ! 立派な成人男性だったんだよ!」
俺が涙目で反論するも、ベッドの上でだらしなく崩れている銀髪サキュバスの姿には、一欠片の説得力もなかった。
ルカは深呼吸を一つして、もうこれ以上俺にツッコミを入れるのは面倒だと判断したのか、話題を切り替えた。
「……とりあえず、おふざけはここまでだ。本題に入るが」
ルカはベッドの脇まで歩み寄り、俺を見下ろした。
「東の竜族を、戦うことなく従属させた手腕は見事だ。血を流さずにあの厄介な連中を配下に加えたことは、南部の勢力拡大において大きな意味を持つ」
「だろ? 俺もよくやったと思ってる」
俺が少し得意げになると、ルカは冷酷に首を横に振った。
「しかし、あれはあくまで高度な自治を認めた形だけの従属。それはいただけない」
「どうしてだ? 戦争を避けて被害を出さないのが一番いいじゃないか」
俺が反論すると、ルカはかつて世界を恐怖で支配した魔王としての、冷徹な戦略眼を光らせた。
「今後数十年、数百年という長いスパンで国家の安定を考えるなら……どれほどの犠牲を出してでも、一度は力によって彼らを完全に叩き潰し、明確な敗北を認めさせておくべきだった。そうしなければ、俺たちの方が本当は強い、という考えが残り反乱の芽が育つ」
冷徹すぎる思考。何千何万という兵士が焼け死のうとも、未来の憂いを絶つために現在を切り捨てる。
それが、かつて大陸を一つ支配した者の思考回路だった。
しかし、ルカはそこで言葉を区切り、自嘲するように苦笑して肩をすくめた。
「……まあ、本来の力の半分も出せないこの弱体化している身では、そのような力業は実行できんがな。“ミア様”の現在の軍事力も、東部を単独で完全に制圧できるほど強くはない。……ゆえに、今打てる手の中では、お前の選択が最善だったのだろう」
ルカは俺の判断を一定の評価で締めくくると、部屋の扉の鍵を閉め、さらに窓の外に誰も聞き耳を立てていないことを入念に確認した。
そして、ベッドのすぐ近くまで身を乗り出し、俺にだけ聞こえるような小声で話し始めた。
「……それで。お前はこれから、どうするつもりだ?」
「どうするって……次は大陸西部の方と話をつけて、北部ともなるべく戦闘を避ける形で不可侵の交渉を……」
「違う」
ルカは俺の言葉をピシャリと遮った。
「魔界の勢力図の話ではない。……私が聞いているのは、イリスに対してどうするつもりなのか、ということだ」
ビクッ。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
副魔王イリス。途方もない長い時間を生きるサキュバスで、俺を妹と呼びながら重すぎる愛情を注いでくる自称姉。
実際には、俺の体を一から作り上げたんだから母だろ、と言いたくなる時は多々あるが……。
(そんなことを口走ったら、絶対にただでは済まないお仕置きが待っているから言えるわけない)
俺はごくりと唾を飲み込み、震える声で、それでもハッキリと答えた。
「……イリスは。俺がもっと強くなって、いつかあいつを倒して、絶対に上に立つ。俺は、愛玩動物のままで終わるつもりはない」
そんな俺の決意を聞いて、ルカは一瞬だけ鼻で笑った。
だが、すぐに真面目な、そしてかつての宿敵を深く警戒するような視線を俺に向けてきた。
「……あいつは強いぞ。ミア。単なる戦闘力や魔法の技術の強さだけではない。……戦いに至るまでの盤面を整え、相手を自分の手のひらの上で踊らせるという意味でもな」
ルカは、自らの金髪と、男の頃から変質してしまった緑の瞳を指差した。
「奴の周到な裏切りのせいで、かつて一つの大陸を支配し、一度は勇者すらも退けたこの私が……完全に敗北し、こうして非力な少女の姿で、今ここに存在するはめになっているのだからな」
それは、身をもってイリスの恐ろしさを知る者からの重い忠告だった。
「骨の髄までしゃぶり尽くされる前に足掻くことだな。……せいぜい励めよ、若き魔王」
ルカはそれだけ言い残すと、俺に背を向けて部屋を出ていった。
◇◇◇
一人残された俺は、ベッドの上で大きく深呼吸をした。
「……ふぅ。とりあえず、汗を流すか」
自分の体から漂う、レジエの体臭と混ざり合ったひどく淫靡な匂いを嗅ぎ、俺は浴室へと移動した。
温かいお湯を張り、小さいながらも快適な湯船にゆっくりと体を沈める。
「はぁ〜、生き返る……」
急にお風呂に入りたいと言って、こうしていつでも清潔なお湯が使えるのは、内政担当であるカーミラの手でこのオロネスの街が発展しているからだ。
(本当に、早いうちにカーミラを配下にできたのは運がよかったな……)
お湯に浸かりながら、俺はふと、魔王として歩み始めた頃を思い出した。
「そういえば……俺が最初に落とした村で出会った、あのお山の大将だった三下魔王。あいつ、今頃どうしてるんだろうな?」
俺に恐れをなして、というかお姉さんの気配にビビって一目散に逃げ出した、あの情けない魔族。
だが、あいつは副魔王だったお姉さんの顔と名前をそこそこ正確に知っていた。
ということは、かつての旧魔王軍の中でも、それなりの立場にいた幹部クラスだったのではないだろうか。
「まあ、あの逃げ足の早さなら、どこかでしぶとく生きてるか」
俺は他愛もないことを考えながら、お湯で体を綺麗に洗い流した。
◇◇◇
風呂から上がり、さっぱりとした気分で執務室に向かうと、カーミラから「ミア様、南部の領主たちからお手紙が届いております」と呼ばれた。
届いていたのは二通。魔王ディフと、元男の魔王ルーサーからだった。
まずディフの手紙を開く。
『よくもまあ、あの頑固な竜族と話をつけることができたのう。無用な血を流さず、争いを避ける魔王様でよかったわい。大軍の遠征準備は中止し、引き続き領地の防衛に努める』
素直な称賛と安堵の言葉だ。歴戦の将であるディフにここまで認められたのは素直に嬉しい。
次に、ルーサーからの手紙を開く。
『ミア様。あなたのその深謀遠慮と、他者を魅了し支配する圧倒的な器に、心からの敬意を表します。私は、あなたに永遠の忠誠を誓います』
「…………」
俺はそっと手紙を閉じた。
あまりにも丁寧で美しい文面。だが、あの常に発情している元男の変態っぷりを知っている身としては、この極端に真面目な文章は逆にめちゃくちゃ怖い。
何か裏でとんでもないことを企んでいそうだ。
とはいえ、竜族と争うことなく、事実上の支配下に置いたという事実は、大陸南部の諸侯からの俺への評価を決定的に押し上げていた。
(俺も、捨てたもんじゃないな)
魔王としての自尊心が、少しずつだが確実に膨らんでいくのを感じる。
お姉さんという夜の脅威に備えて、もっと魔法の鍛練と精神修行を頑張れば、俺はいつか、お姉さんに依存しない本当の意味での強大な魔王になれるのではないか。
そんな前向きな決意を固めかけた、その時だった。
「報告!!」
バンッと執務室の扉が開き、オロネスの伝令兵が血相を変えてカーミラの元へ駆け込んできた。
「大陸北部……旧魔王軍からの使者が到着いたしました! 魔王ミア様との、緊急の面会を求めております!」
「北部から!?」
俺とカーミラは顔を見合わせた。
用件は不明だ。だが、俺が大陸最強の武力を持つ東の竜族を、戦うことなく配下にしたという情報が、さっそく北部にまで届いたことは確実だろう。
旧魔王軍の残党たちが、俺という急成長する南部の脅威を前に、ついに具体的なアクションを起こしてきたのだ。
俺は魔王として表情を引き締め、北の脅威と対峙するため、会いに向かうのだった。




