60話 始まりの屋敷と前世の記憶に揺れる心
レジエとの二人旅からオロネスに帰還した俺を待ち受けていたのは、案の定、お姉さんからのねっとりとしたお出迎えだった。
「おかえりなさい、ミア。……ずいぶんと遠くまで飛んできたみたいね」
執務室に入るなり、俺は背後からお姉さんに抱きすくめられた。
「レジエが一緒だったとはいえ、荒野の先、海の上まで飛んで……別の大陸を見たはずよ。どうだった?」
まるですべてお見通しだと言わんばかりの口調。服に染みついた潮の匂いでも嗅ぎ取ったのだろうか。
俺はため息をつきつつ、正直に答えた。
「どうもこうも……ただ、この世界の広さを実感しただけだよ。それ以外はない。まさか、あのまま別の大陸へ行くわけにもいかないしな」
すると、お姉さんは俺の耳元でくすりと笑った。
「あら、行けるわよ?」
「……は?」
「この大陸の南東……ちょうど、ルーサーの領地になっている海沿いの端っこに、港町があるはずよ。今も残ってるなら、だけど。そこから南の大陸へ、小規模だけど船が行き来しているの。大々的な交易まではいかないけれど、裏の取引なんかはね」
まさかの事実に、俺は反応が遅れた。
二つの大陸は断絶していると思っていたが、裏ルートのような航路が存在していたのか。
「それでね、当時……私が副魔王だった頃に、その港町に大規模な船団を用意しててね。南の大陸へ攻め込む準備を進めていたのよ」
お姉さんはまるで「昔、あそこのカフェによく行ってたのよ」くらいの軽い世間話のトーンで語り続ける。
「でも、準備を進めている途中で勇者一行が乗り込んできて。なんやかんやで先代魔王を滅ぼしたから、船団の計画も有耶無耶になっちゃったのよねぇ。懐かしいわ」
「……なんやかんやで済ませていい内容じゃないだろ、それ」
その先代を裏切って勇者に味方したのどこの誰だよと。
俺のツッコミを華麗にスルーし、お姉さんは「さあ、お仕事よ」と言って俺を机に向かわせた。
◇◇◇
溜まっていた書類仕事を片付け、昼になった時のことだ。
「ミア、今日は少しお出かけしましょうか」
「え? どこに……」
お姉さんは俺を正面からぎゅっと抱きしめると、有無を言わさず転移魔法を発動させた。
視界がぐにゃりと歪み、次の瞬間には、見覚えのある景色が広がっていた。
「ここは……」
俺が異世界に転生し、銀髪のサキュバスとして最初に目を覚ました、荒野の中にぽつんと建つ屋敷だった。
「……なんで、ここに?」
俺が首をかしげると、お姉さんはふわりと微笑んだ。
「今日はね、ミアが南部を統一した、そのお祝いがしたかったの。……それに、あの駄犬からあなたを引き離して、二人きりになりたかったしね」
屋敷の中を見回すと、誰も住んでいないはずなのに、埃一つ落ちておらず綺麗に保たれていた。
「お姉さんが、掃除してたのか?」
「ええ。時折、転移で戻ってきてはお手入れしていたわ。……私たちの大事な、始まりの場所だもの」
そう言って、お姉さんは俺の手を引いて厨房へと向かった。
「さあ、一緒にお料理しましょう。並行してお菓子の下準備もするから手伝ってね」
エプロンを手渡され、俺たちは並んで立った。
お姉さんが野菜を切り、俺が鍋をかき混ぜる。コトコトと煮込まれるシチューのいい匂いが、静かに屋敷の中を広がっていく。
「ミア、そっちのお鍋、焦げないように火加減を見ててね」
「わかってるよ。……お菓子の方は、生地を寝かせておけばいいか?」
「ええ、助かるわ」
他愛のない会話。トントンという小気味良い包丁の音。隣から伝わってくる、お姉さんの柔らかな体温。
その温かく、あまりにも日常すぎる空間に身を置いていると……なぜだか急に、胸が締めつけられるように苦しくなった。
(郷愁、ってやつなのか……?)
前世で男だった時の記憶が、ふと脳裏をよぎった。
仕事から疲れ果てて帰り、薄暗いワンルームの冷たい明かりをつける。
コンビニで買った味気ない弁当を電子レンジで温め、テレビのバラエティ番組の乾いた笑い声をBGMに、一人で黙々と箸を動かす。
たまに一人で自炊しても、洗い物を減らすためフライパンや鍋からそのまま食べたり。
誰かと一緒にキッチンに立ち、こんな風に料理を作る日々なんて、前世の自分には一度もなかった。
(くそったれ……なんで今になって思い出すんだ……)
美味しいねと笑い合う相手も、帰りを待ってくれている存在もいなかった。ただ、一人で息をして、一人で生きていた。
でも、今は違う。
俺はミアという銀髪の少女として、隣にイリスというお姉さんがいて、こうして日常の一部を共に過ごしている。
心のどこかで、元の男の体に戻りたい、元の世界に帰りたい、と願う部分はある。
(やめろ……これ以上考えるな)
けれど……もし本当に戻れたとして、俺はどうなる?
また、あの孤独で無彩色のワンルームに戻るのか?
また、誰の温度も感じられない、一人の時間ばかりの日々を送るのか?
(……嫌だ)
無意識のうちに、本音がこぼれ落ちていた。
この温もりを知ってしまった今、あの孤独な日々にはもう耐えられない。
俺は……お姉さんと離れたくない。
「……俺は」
答えの出ない感情の渦に意識を向けていたせいで、いつの間にか作業の手を止めてしまっていたらしい。
「どうしたの、ミア?」
不意に、体がふわりと宙に浮いた。
「わっ……!」
お姉さんに、脇の下に手を入れてあっさりと持ち上げられたのだ。
足が床から離れ、自分の体が少女としていかに小柄で軽いかを、嫌でも認識させられる。
そのまま、優しく、けれど逃がさないように、お姉さんの豊かな胸の中へとすっぽりと埋もれさせられた。
トクトクという、お姉さんの穏やかな心音と、甘い香りが俺を包み込む。
「ん……」
顔を上げようとした瞬間、お姉さんの唇が俺の唇に重なった。
口移しで、甘い何かが流し込まれる。
お姉さんの唾液でしっとりと湿った、焼き菓子の欠片だった。
「んぐっ……ぁ……」
甘さと、お姉さんの味が口いっぱいに広がる。
いつもなら反発するところだが、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、その圧倒的な母性のような優しさに俺の腕は自然とお姉さんの背中に回り、ぎゅっとしがみついていた。
「……つらいことは、あるでしょう」
お姉さんは、俺の銀髪を優しく撫でながら、耳元で静かにささやいた。
「悲しいことも、不安なことも、これからたくさんあるでしょう。……でもね、ミア」
背中を撫でる手が、たまらなく温かい。
「あなたの新しい人生には、私がいるわ。……ずっと、そばにいるから」
その言葉には、いつものような狂気や、俺を支配しようとする淫靡な思惑は一切感じられなかった。
ただ純粋な、底なしの愛情。
(……あぁ、ダメだ)
俺の心は、その純然たる優しさに完全に堕ちかけていた。
張り詰めていた男としての意地が、音を立てて崩れ去っていくのを感じる。
一緒に作ったシチューは、涙が出そうなくらい温かくて、美味しかった。
お互いに隣同士に座り、肩を寄せ合いながら食べる。言葉は少なかったが、それだけで心が満たされていく。
その後の時間も、驚くほど穏やかだった。
一緒に入ったお風呂では、いつものようにどこかを弄られたり、洗うという名目で開発されることもなく、ただ背中を流し合い、温かい湯船に浸かっただけだった。
そして、夜。
ベッドに入ると、お姉さんは俺を腕枕で抱き寄せ、古い魔界の童話の本を読み聞かせてくれた。
心地よい声のトーンが、子守唄のように鼓膜を震わせる。
(……今日くらいは、いいよな)
一切のいやらしさを封印し、ただ優しいお姉さんとして振る舞ってくれる彼女に、俺の心はもう、ギリギリのところで完全に白旗を揚げかけていた。
(今日くらいは……お姉さんに身を任せて、楽になろう)
男としての過去は、もはや遠い昔の幻のようだった。
自分がもう、元の孤独な男には戻れないことを、頭の芯で深く自覚しながら。
俺はお姉さんの甘い匂いに全身を包まれ、本を読んでくれるその声を聞きながら、圧倒的な幸福感の中で目を閉じる。
(もう、逃れられない。もう、離れたくない。ああ、これはもう……)
少しずつ自分は終わりかけている。
こうして、俺こと魔王ミアの激動に満ちた南部の戦いは、最も甘く、最も恐ろしい安らぎの夜と共に幕を閉じた。




