59話 世界の広さと抗うための決意
お姉さんの過剰なスキンシップと監視の目から逃れるようにして、俺とレジエはオロネスを出発した。
行きに一日、帰りに一日、合計二日間の旅だ。
空を飛ぶレジエの背に乗ることも考えたが、まずは領内の状況をこの目で確かめるため、最初は自前の翼で低空を飛びながら移動することにした。
まず最初に立ち寄ったのは、俺が魔王として初めて手に入れた草原の村だ。
「おお、ミア様。よくぞお越しくださいました」
出迎えには村長が来てくれた。
辺境ということで寂れていた村だが、今は活気に満ちている。
オロネスや荒野を結ぶ交易拠点として機能し始めたことで、物資の行き来が盛んになり、短い間ながら人口も多少増えているようだった。
「宿場としての機能も拡充しております。ミア様のおかげで、村はかつてないほど豊かになりつつあります」
村長の報告に、俺は満足げに頷いた。
自分の統治が正しく機能し、人々の生活が向上しているのを見るのは、純粋に嬉しいものだ。
次に向かったのは、さらに奥にある荒野の開拓村だ。
こちらも見違えるほど状況が良くなっていた。何より驚いたのは、人間とネズミの魔物たちが完全に共存し、協力して生活基盤を整え始めていることだ。
「魔王様、ご覧ください。鉱脈までの簡易的な道も整備が終わりまして、こうしている間にも鉱石が運び込まれています」
まとめ役であるガンスが、誇らしげに案内してくれた。
確かに、荷車が通りやすいように地面がならされている。そして、水場にも工夫が見られた。
「水源が汚れないように、居住区は少し離したんだな」
「はい。その代わり、地下水路を掘って水を引いています。地表に水路を作らないのは、この荒野の日差しで水が蒸発する分を抑えるためです」
なるほど、よく考えられている。
過酷な環境だからこそ、生きるための知恵が研ぎ澄まされているのだ。
「チューッ」
ふと、足元で声がした。
見下ろすと、人間の子どもほどの大きさがあるネズミの魔物が、布きれを服のように纏って立っていた。そして俺と目が合うと、器用にペコリと頭を下げたのだ。
「……服を着てるのか。前から思ってたけど、頭がいいよな」
俺が感心して撫でてやると、ネズミの魔物は嬉しそうに喉を鳴らした。領地は、確実に良い方向へと育っている。
◇◇◇
開拓村の視察を終えた俺たちは、そこから未踏の地へと足を踏み入れた。
ここからは竜の姿になったレジエの背に乗り、太陽の動きから大雑把に南を予想して、まっすぐに空を飛ぶ。
荒涼とした大地が眼下を流れていく。
数時間ほど飛行した頃、殺風景な景色の中に、突如として豊かな緑と水面が現れた。
大きめのオアシスだ。
「よし、レジエ。あそこで降りよう。昼飯にするぞ」
「うん」
オアシスの水辺に降り立つと、レジエは人の姿に戻った。
周囲に危険な魔物がいないことを確認し、木陰に腰を下ろして食料を広げる。
「ほら、食うか?」
俺が干し肉を差し出すと、レジエは受け取ろうとせず、俺の体にぴったりと密着してきた。
「どうせなら、あーんして」
「いや、自分で食えよ……」
「やだ。ミアにくっついてないと落ち着かない。……ミアは、依存性のある薬物みたい」
くんくんと首筋の匂いを嗅ぎながら、とんでもないことを言ってくる。
お姉さんに快楽漬けにされている俺が言うのもなんだが、こいつも大概俺に調教されきっている。
俺は呆れ混じりにため息をつき、干し肉をレジエの口に運んでやった。
「あむっ。……美味しい」
もぐもぐと咀嚼するレジエの赤い髪を、俺はなんとなく手持ち無沙汰で撫でた。
静かな水音と、風が葉を揺らす音だけが響く。
そんな穏やかな時間の中、レジエが不意に真剣な声色で尋ねてきた。
「……ミア。イリスに勝つ見込み、あるの?」
「っ……」
お姉さんの名前が出た瞬間、俺の手はピタリと止まった。
「どうして、急にそれを聞くんだ?」
「だって、いつか……ミアは決着をつけるしかないから」
レジエは俺の胸に顔を押し当てたまま、淡々と言葉を紡いだ。
「このまま、イリスの都合のいいおもちゃとして完全に調教されきって終わるか。それとも、魔王として自分を保ち続けるか。……結末は、そのどちらかしかないでしょ?」
痛いところを突かれた。
レジエは普段犬の真似をして媚びているが、元は誇り高い竜族だ。
主君である俺と、強大な力を持つお姉さんとの歪な力関係を、冷静に観察していたのだろう。
周囲に誰もいない、二人きりのオアシスだからこそ聞けた本音。
俺は少し考え、そしてゆっくりと口を開いた。
「……勝ちたいとは、思ってる」
お姉さんに作られたこの体の、異常なまでの腕力を思い返す。
「勝てるかどうかはわからない。でも、俺は強くなりたいし、実際、少しずつ強くなってる実感はある」
「……うん」
「ただ……まだ、力が足りないという不安がある。あの人の底が見えないからな」
魔法の腕、長きにわたる経験、そして冷徹な戦略眼。
すべてにおいて俺はお姉さんに劣っている。
「それでも、俺は俺のままでいたいんだ。……愛玩動物になるつもりはない」
本音を打ち明けると、レジエは嬉しそうに目を細め、俺の腰に回した腕の力を強めた。
「……わたしは、ミアの味方。ミアがイリスに牙を剥くなら、わたしも一緒に噛みついてあげる」
「そりゃ、心強いな」
俺はレジエの背中を優しく叩いた。
狂気に満ちたこの魔界で、本音を語り合える相手がいることは、多少なりとも心を救ってくれる。
◇◇◇
オアシスで休息を取ったあと、俺たちは再び南へと飛び立った。
それから数十分ほど飛んだ時のことだ。
「この匂いは……」
視界の先に、キラキラと太陽の光を反射する、巨大な青の平原が現れた。
海だ。果てしなく続く海岸線と、青い海原。
「オロネスから、徒歩なら何日……いや、何週間かかる距離なんだ、ここは」
竜の飛行速度に改めて感心しながら海岸に降り立つと、レジエがいつものように俺の体を嗅ぎ回ってきた。
「……臭くない」
「は?」
「ミア、これだけ飛んだのに全然汗かいてない。臭くない。ちぇっ」
不満そうに唇を尖らせるレジエ。
「臭かったら舐める口実になったのに……」
「お前なぁ……」
こいつ、真面目に叱るべきか?
俺が説教モードに入ろうとした時、ザバーンと海面から巨大な水柱が上がった。
見ると、クジラほどの大きさがある巨大な魚の魔物が海面から飛び出し、それを空を飛ぶ怪鳥のような魔物が群れで襲撃しているところだった。
「おおっ……すげぇ」
俺は説教を後回しにして、その異世界のダイナミックな光景に見入ってしまった。
海辺には、カニとサソリを混ぜたような巨大な魔物も蠢いている。
幸い、俺たちから発せられる魔力と竜の気配を警戒しているのか、陸に上がってまで襲ってくる様子はなかった。
「……海を有効活用できれば、食料事情や交易でかなり大きな利益になるけど」
俺は顎に手を当てて考えた。
船を使った輸送は、いつの時代でも圧倒的だ。
「ここまで道を繋いで、港町をゼロから作るとなると……利益を得るまでに何年もかかりそうだな」
ただし、今はまだ手を出すべき事業ではない。
「レジエ、まだ日は少し傾いているだけだ。もう少し先へ行ってみよう」
「わかった」
再び空へ上がり、俺たちは海の上を進んだ。
ポツポツと点在する岩場や小島を目印にして、迷わないように南下を続ける。
やがて、遠くの水平線の彼方に、かすかに陸地らしき影が見え始めた。
「……あれは?」
俺は一度振り返り、戻るべき方角と目印となる島々の並びをしっかりと確認した。
「よし、あの陸地らしきところへ向かってくれ」
数十分ほど海の上を飛ぶと、巨大な地表がはっきりと見えてきた。
豊かな緑、整備された農地、そして遠くに見える城壁に囲まれた都市。
明らかに、魔界とは異なる空気が流れている。
「ここが……別の大陸か」
先代魔王が全軍を挙げて侵略しようとしていた、人間たちの住む大陸。
遥か遠くの沿岸には、見たこともないような大きな帆船が何隻も行き交っているのが見えた。
(まあそもそも、前世でも船は図鑑くらいでしか見たことないけど。乗ったこともないんだよな)
とにかく魔王である俺がここにいるとバレれば、まさかの戦争になりかねない。
「世界の広さは十分わかった。……戻ろう、レジエ。騒ぎになる前に」
俺たちは気づかれる前に反転し、海を渡って魔界へと引き返した。
◇◇◇
すっかり日が落ちた頃、俺たちは昼間に立ち寄ったオアシスへと戻ってきた。
今日はここで一晩を明かすことにする。
持参した小さなテントを張り、二人で中に入る。大人が二人寝転がれば身動きが取れないほどの狭さだ。
必然的に、俺とレジエは密着して抱き合うような体勢で横になった。
「……ふぅ」
俺は深く息を吐き、目の前にあるレジエの顔を見た。
「レジエ、ありがとうな」
「ん? 何が?」
「お前が空を飛んでくれたおかげで、世界の広さを再確認することができたよ。……俺はまだ、ちっぽけな存在なんだなって」
大陸南部の覇者になったとはいえ、世界は俺の想像以上に広く、巨大な力や未知が溢れている。それを肌で感じられたのは、大きな収穫だった。
俺が素直な感謝を伝えると、レジエはにんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……感謝の気持ちがあるなら、わかるよね?」
「お前ってやつは……」
ご褒美をよこせ、という堂々たる要求だ。
俺は苦笑しつつ、レジエの体をぎゅっと抱きしめ返し、その赤い髪や背中を優しく、丁寧に撫でてやった。
「んぅ……っ、ぁ……」
少しだけ魔力を込めて撫でると、レジエはすぐに目をトロンとさせ、俺の胸に顔を擦り付けてきた。
「あー、なんだか……堕ちそう」
蕩けた声で、軽い冗談のようにそんなことを言う。
「さっさと寝ろ」
俺は呆れながらも、撫でる手は止めなかった。
お姉さんのような圧倒的な支配ではなく、こういう穏やかな触れ合いなら悪くない。
テントの外からはオアシスで暮らす虫の音が聞こえる。俺たちは温もりを分かち合いながら、静かな眠りについた。




