44.ユリアーナのために
すぐに離れたそれが、どんな感触だったかなんてあまりの衝撃で記憶に残らなかった。
いきなりの事に驚き、鋭く射抜くように見つめてくるカールハインツの瞳の熱に灼かれてしまいそうな錯覚をおこす。
「……どんなやつだった?」
「……え?」
「その男は、きみに触れられたのか?」
再びにじり寄られ後退るが、とうとうソファの端にぶつかって退路が絶たれてしまった。
「し、死んでいる時の話だから無効でしょう?」
「時が戻った今、その男も生き返っているかもしれない」
予想もしなかった言葉に目が見開く。
そうか。私が生きているのだから、そういう可能性もあるのか、と目から鱗が落ちるようだった。
「そうか。そういう事も、あるのかもしれないわね」
「……会いたいと思うのか?」
見上げると、カールハインツはどこか不満げな顔をしている。
私がその人に会いたいと思う事が、何の不都合があるのだろう。
「別に。死んでいた時の話だし、名前すら知らないわ。ただ東国出身で、小説や劇画が好きって言っていただけよ」
私の境遇の物語は山程読んできたらしいから共感してくれていた。
彼女の話によれば、物語の主人公の母親とはそういうものだ、という事。
『ヒロインの父親には愛人と隠し子がいるのはデフォだし、隠し子が異母妹で婚約者を奪うのもよくある話なのよ。ヒロインの母親が早死するのもあるある』
親の顔以上に見てきた物語で、両親が生きている方が稀なのだと言っていた。
「そもそも、私がその人と仲良くしていたからって、ティアナを後妻に娶ったあなたに責められるいわれはないわ」
「っ……」
「死んでいる間の事はノーカンと言うらしいわ。あなたに秘密があるように、私にもある。それでいいでしょう?」
納得していないような表情だが、ティアナ母娘を優遇しユリアーナを蔑ろにした時点で私以上に有罪だ。
「……もう、女性とは話さない」
拗ねたような表情のカールハインツだが、宰相候補でもあるし、貴族は社交もあるから無理じゃないかしら。
本当にこの人は私の知るカールハインツなのだろうか。
「……好きにしたら」
死に戻ってから、私もカールハインツの知らなかった一面を見ている気がする。
確かにユリアーナを授かりはしたもの、それまでに至るための過程は全てふっ飛ばされてきたのだ。
触れ合うことはおろか、日常の会話も、共有すべき話題でさえなかった。
皮肉にも、ユリアーナを放置していた事だけが、唯一の共通点か。
親としては私も人の事はあまり言えない。
「マリー」
優しく柔らかで低い声が私を呼ぶ。
押し込めたはずの恋心が小さく疼き、容易に溢れ出ようとしてくる。
前回の私が喜んで縋り付きたくなるのを、顔を背けて知らないふりをする。
「もう一度、戻ってきてくれて、ありがとう」
「……あなたのためじゃないわ」
「それでも。……生きようとしてくれて、ありがとう」
私が生きるのは、ユリアーナのため。
けれど、今だけは、カールハインツがもう一度抱き締めてくるのを拒絶する事はできなかった。
「お母さま、今度のお茶会はちょっと人数が増えそうなの」
数日後、ユリアーナにそう可愛くおねだりされた私は、先日開催された王宮のお茶会でのユリアーナの姿を思い出していた。
ユリアーナに渡された招待客のリストには、声をかけていた令嬢令息の名前がズラッと並ぶ。
アルビーナ様の息子デニス様の名前はもちろん、派閥外の名前もある。
……ドナート男爵令息の名前も、もちろんあった。
「……だめかしら? 慣れるまではみんなのお父様やお母様を呼ぶから、お母さまにはご負担かしら……?」
ユリアーナの希望を叶えてやりたい。それはもう、絶対的に、だ。
だが、こういう派閥関係無い令嬢令息を呼んでのお茶会となると、ユリアーナの将来が定まってしまうのではないだろうか。
「……やっぱり、だめ……ですよね。ごめんなさい……」
「ああ、違うのよ。いいわよ。少し考えごとをしていたの」
「本当に? ありがとうお母さま。大好き!」
ユリアーナは大変なものを私から奪っていきました。そう、ユリアーナのしたい事に対して反対するという気持ちです。我ながら簡単すぎるわね……
「それでね、お母さま。お茶会がちょっと大きくなるでしょう? その……お母さまのご友人もご招待してはどうかな、って」
「お母さまの友人を?」
と言われても、私の友人と言える人は少ない。
イルゼ様とアルビーナ様、あとはエルナ様の母であるベルンシュタイン伯爵夫人のレナータ様くらいか。
とはいえイルゼ様は現在身重だし、そもそも王太子妃殿下でご多忙だろう。ユリアーナの友人たちとの内輪の気楽なお茶会だし、身分の高い方がいらっしゃると緊張して打ち解けにくくなるかもしれない。
さらに何かあった時の責任を考えると、今回のご招待はやめたほうがいいだろう。
レナータ様は人数が増えたから改めてエルナ様の同伴者として呼ぶだろうし。
という事は、アルビーナ様を……
ユリアーナの期待するような眼差しを見て、ある予感がした。
「……分かったわ。アルビーナ様を招待すればいいのね?」
「……っ! ええ、ええ! お母さまのご友人のアルビーナ様とかいいと思います!」
嬉しそうにはにかむユリアーナを見て、頭を撫でる。
おそらく今のデニス様が自分の境遇に一番よく似ているからだろう。
ボルク伯爵の思惑には反するかもしれないが、たまたま母娘が別々に招待した相手に、たまたま離婚した母子がいただけだ。
「ちゃんと、招待状を書くのよ」
「はい! 書けたらまた見てくださいね!」
ユリアーナの嬉しそうな顔を見て、ホッと息を吐く。
あの子は自分が寂しい思いをしてきたからこそ、寂しい思いをしているだろう子に手を差し伸べる優しい子。
自分を殺そうとしても、許してしまうのではないだろうかという不安もある。
実際に誰も恨む事なくさっさと楽園に行こうとしていた。
それは悪い事ではない、むしろいい事なのだろうけれど、危うさを含む事でもある。
いつかあの子自身が潰れてしまうのではないだろうか。
優しさに付け入られて、責められて傷付くのではないだろうか。
ユリアーナへの心配ごとは尽きない。
だからこそ、守らなければという思いが強くなる。
私にできる事は少ない。
けれど、親として、子どもの成長を手助けしていきたい。
ユリアーナさえ幸せならば、私も自然と笑えるもの。
「お母さま、こんな便せんはどうかしら?」
「いいわね。素敵なデザインだわ」
ユリアーナと接しているだけで、私の中の闇が小さくなっていく気がした。




