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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第六章・見えざりしひと
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第六章・見えざりしひと(3)

 腕時計は午後一時を指していた。約束の時間まであと二時間はある。

 シロはツタで覆われた笠原邸の塀を見上げた。屋敷の外観と同じ石で作られたその塀は、二メートルほどある門扉より幾らか低く、シロの身長より三十センチほど高い。表面には多くの凹凸が見られ、足をかけて登ることは可能であると思われた。

 昨日さんざん彼の身体に纏わりついていた湿気は、一晩降り続いた雨のお陰で大分低減している。春にのびのびと枝葉を広げた木々の間から、すっきり晴れた夏らしい空が見えた。なれどその枝葉たちによって、相変わらず笠原邸周辺の陽の入りは少ない。その環境は今のシロには却って好都合であった。


――空き巣を疑われたら、弁明のしようが無いな。


 金品を盗みたいわけではない。ただ笠原邸の”中”を確認しておきたかった。

 広いこの屋敷で、彼女が本当に一人きりなのかどうか。他の人間が出入りしている痕跡があるのかどうか。

 昨日笠原アンジュから唐突に掛かってきた電話。彼女が話したいと言った話題など皆目見当がつかない。しかし場合によっては屋敷に足を踏み入れることはおろか、二度と彼女と会うことができなくなるかもしれない。それは笠原邸についてもアンジュ本人についても、何一つ知ることができないままに幕となってしまうということである。


――笠原アンジュについてだけは、知らなければならない。


 幸太郎の死からこの方、その思いだけは今日(こんにち)までシロの頭から消えることがなかった。


「気を付けろよ」


 真剣な面持ちの幸太郎が、昨夜から何度も念を押してくる。シロが見て聞いた、親友の最後の姿である。

 へまをするわけにはいかない。しかし受け取ってしまった親友の行動と憂慮を、無碍にするわけにもいかなかった。

 滑り止め付きの軍手に山歩き用の靴。リュックの中に入っているべき教科書類は、大学のロッカーに放り込んだ。

 大学生活二年目にして、シロは初めてサボタージュを決行している。その理由がよもや家宅侵入だとは、過去の自分は微塵も思うまい。それも大変に用意周到な家宅侵入である。未成年飲酒でつくキズなどとは比べ物にならない。

 樹木の影で薄い明るさしかない周囲を、シロはもう一度見回した。やはりここは山で、人の気配は無い。笠原邸も同様である。人の住んでいる気配など無く、人家に宿る生気は此の頃になっても感じられない。


 塀に絡むツタは細く柔らかい。試しに軽い力で引っ張ってみれば、あっさりと千切れてしまった。漫画のように、これをロープ代わりにして塀を登ることは不可能だ。であるならば、自力でよじ登るより他に方法はなかった。

 ちょうど良く膝の高さに大きな出っ張りを見つけ、右足を掛ける。踏み込んだ勢いで、何とか両肘が塀のてっぺんに届いた。同時にシロの頭もその高さを超える。しかし、垂直に建つ塀を腕力だけで越えることは難しい。彼にロッククライミングの経験など無いのだ。

 ツタに残った昨夜の雨粒が洋服をじんわりと濡らす。水と土と草木。そして微かな柔軟剤のにおいが、それぞれに彼の肺に混ざり込んだ。

 宙に浮いたままの左足を、今度は小さな窪みに掛ける。同じ足の動きを何度か繰り返しようやく塀を乗り越えた頃には、水と泥と草の汁とでシロの洋服はすっかり汚れきっていた。


 * * *


 予想していた通り、笠原邸の玄関は施錠されていなかった。観音開きの片側を音が立たないよう慎重に引く。笠原アンジュやその他に居るかもしれない人間に気付かれてはならないことは、論を()たないのである。

 この屋敷にはもう幾度も訪れている。吹き抜けの先に吊るされたシーリングライトは玄関ホールを照らしきれていないが、暗順応を待たずともシロは室内を認識できた。


――どこから回るべきか。


 普段は左手前のドアへ一直線に向かわざるを得ない。だが今日は違う。今日のシロの目的は、地下室ではない。

 ふと、階段横の花瓶に目が留まった。これまで生けられていた花々は常に生き生きとしていた。シロの訪問日に合わせるかのように違う種類で、基調となる色も変わっていた。黄、ピンク、青、白。昨日は紫が主であった。今日はその色と種類が変わっていないうえに、心持ち萎れているようにも見える。

 花瓶に吸い寄せられるようにして、シロは玄関ホール正面にある古い木製の階段を上った。

 昔は中央に絨毯でも敷かれていたのだろうか。大人三人が並んで歩ける幅のそれは、両端と中央部分とで変色の度合いが違っている。しかし今も丁寧に手入れされていると見え、天井からのオレンジ色を淡く上品に反射していた。

 手の掛けられた階段は、吹き抜けに面した側に据えられた手すりとともに右上方へと続いている。


 * * *


 踊り場を二ヶ所挟みながら半円を描くように上り切ったそこは、優に玄関ホール三分の二程の広さがある。

 吹き抜けの向かい側には個室らしきドアが三枚。右へのびる廊下の奥にも一枚。計四枚のドアは全て品の良い装飾がなされ、地下室に使われているものとは明らかに趣が違っていた。

 正面に見える三枚のドアは等間隔に並んでいる。個室の広さがそれぞれ殆ど同じであるということだ。対して廊下奥のドアだけは、白い壁の中にぽつりと佇んでいた。その向こう側には、玄関ホールの面積を半分以上超えた空間があることになる。

 石造りの外観に、木材を惜しみなく使用した内装。壁伝いに半円を描く広い階段や吹き抜け、各個室の配置。それらは全て、現代から見れば時代錯誤も甚だしいほどに豪奢であった。


 シロは真正面にある個室のドアノブに手を伸ばした。

 立派な家宅侵入であり、見つかってしまえば言い逃れなどできない状況である。にも関わらず、彼の心は不思議と落ち着いていた。遂行すべき事柄であるという感覚だけが強くあった。


――ノックは要らないか。


 ここに来て今さら気遣いなど無用であろう。逡巡を吐き出すように深く息をつき、シロは手の中の丸いドアノブを捻った。


かちゃり。


 ラッチボルトのごく軽い音が響く。その装飾とは裏腹に、引いたドアは軽い。


――これは。


 ドアの向こう側にあったのは彼が想像だにしない光景だった。

 薄紫の壁紙に、可愛らしいピンクのカーテン。白く塗られた木製のベッドには天蓋(てんがい)がかかり、その根元の天井には蓄光壁紙による星空が広がっている。白いラグマットの敷かれた床には絵本や人形が散らばり、クマやウサギなど大小様々なぬいぐるみも見られた。

 窓際に幼児向けの木馬が置かれたその空間は、まさに外国の子供部屋そのものであった。

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