第六章・見えざりしひと(2)
「やぁシロくん」
「優太さん。どうしたんです」
早乙女一家へ線香をあげに訪問してから二週間ほどが経った、六月の下旬。
H大学の広いキャンパス内に数ヶ所ある渡り廊下で、シロと優太はばったり出くわした。
優太は幸太郎の四つ上である。彼の母校もここH大学であるが、今さらになって訪れる理由など数えられる程度しかない。
「ようやく少し落ち着いてきたから、コウがお世話になった先生方や職員さんにお礼をと思ってね」
見れば優太の手にはいくつもの紙袋が下がっている。それぞれ大きさが違うのは、恐らく人数に合わせて中身を変えているからだ。
早乙女家の葬儀には大学からも多くの人間が参列していた。学友たちは元より、教授数名に学生課長、校長や理事長の姿も見られた。その全員が香典を包み、もちろん香典返しを受け取っているはずだ。それでもこうして手土産を持って改めて訪問するあたりに、優太らしさがうかがえる。
優太は優しい人間である。優しく穏やかで、気配りに長けている。だからこそ、生前幸太郎は家業を継ぐ話になると
「兄貴だけじゃ心配だし」
と照れ臭そうに笑っていたのだ。
「シロくんは元気?」
「ええ、おかげさまで」
「キャンパスも随分物々しくなっちゃってるね」
「……仕方ないです」
大人の密度が増した学内は、大学らしい”自由意志”や”自主と自律”の雰囲気からはかけ離れていた。青春を謳歌しているべき若者らは、声も表情もどこか硬い。
「なんだか申し訳ないね。せっかくの大学生活なのに」
「優太さんが謝るようなことではないですよ」
本来ならば自由比率の高いモラトリアム。人生最後と言っても良い猶予期間。そこに水を差しているのは学内を闊歩する警察官たちでも、外部から集められた心理カウンセラーたちでもない。渦戸教授や早乙女一家を殺めた犯人その人である。
二つの事件が同一犯によるものであるとはまだ決まっていない。犯行の手口も違えば、渦戸教授と早乙女家の間にH大学関係者であるということ以外、接点らしい接点は無かった。
「優太さんは、お変わりありませんか」
その質問が優太にとってみればひどく酷なものだということを、シロは口に出してから気が付いた。
変わりが無いわけがないのだ。優太を取り巻く環境はたった一夜にして急変し、現在彼にのしかかっている責任の重さは計り知れない。
決して大きくない心身に、突如降りかかった大きすぎる不幸と期せずして訪れた早すぎる家業継承。そこに何の負担もストレスも感じぬ人間など、そう滅多にいるものではない。現に二週間前よりも彼の頬はこけ、目の下の隈も濃度を増している。
それでも優太は気分を害した様子などおくびにも出さず、持って生まれた優しさと穏やかさで柔らかく微笑んだ。その笑みはどこか痛々しく、迂闊に口を滑らせたシロの後悔と罪悪感を殊更に増幅させた。
さらに言えば優太はその優しさと気配りに長けた性格から、割合に物事を自分一人で抱え込もうとする傾向にあった。その傾向も、優太が一人で家業を継ぐことについて幸太郎が顧慮していた一因である。
優太は優しく穏やかで気配りに長けている。同時にとても脆く、朧気でもあったのだ。
「そういえばね」
「はい」
立ち話も何だからと腰かけた中庭のベンチで、優太が変わらず穏やかに口を開いた。
六月下旬の日差しはもう殆ど夏のそれだ。空は抜けるような薄青で、ところどころに綿菓子のような向こう側の透けた雲が浮かんでいた。
花壇のアジサイはいつの間にかその彩度を低くし、代わりに夏に咲くらしい花々が開いている。
毬状に細く小さな花のついた種類、無数の小さな花がラベンダーに似た形状を作っている種類。初めて笠原邸を訪れた際玄関ホールに生けられていた、バラとカーネーションを掛け合わせたような花もあった。
シロには未だその花の名前はわからない。ただ、花たちが織りなす爽やかで豊かな色彩は空の薄青色によく映えた。
「うちの家族が刺された時の凶器がわかったんだ」
それはこの悠揚とした風景にも、安穏とした彼の口調にも似つかわしくない文言であった。
豆鉄砲を食らった鳩の如く拍子抜けしているシロを意にも介さず、優太は言葉を続ける。
「特殊な刃物だったらしいってことは言ったよね。でもどうしてもそれだけじゃ納得できなくて。刃物についていろいろ調べてね。問い詰めたんだ、刑事さんに」
刃物を積極的に調べたり刑事に詰め寄ったりする優太の姿など、シロには想像ができなかった。それらの行動は、彼とはあまりにも結び付かないものである。
唯一無二の家族を失った痛みとは、遺された人間の性質をも変えてしまうのだろうか。それとも本来無縁であるはずの言動を取ることで気を紛らわせ、悲しみから逃れようとしたのだろうか。
「刑事さんがあんまりにも言えないの一点張りだったから、色んな刃物の写真を順番に見てもらったんだ。心当たりのあるものがあったら、それだけ裏返して返してくれって言ってね。それならほら、刑事さんはただ写真を見て、裏返して俺に返したってだけでしょう」
滔滔と語る優太の横顔はこけた頬が紅潮し、その表情は心なしか欣然として見えた。
「ツイストダガーっていうんだって」
そう微笑んで優太は一枚の写真を差し出した。
ダガーとは、急所めがけて刺したり投げたりすることに適した、両刃の短剣である。中世ヨーロッパを題材にした映画などでよく登場するものだ。しかし写真にあるその短剣は、見覚えのあるダガーの形状とは大きく異なっていた。
先端が鋭く尖った刃は螺子釘よろしく全体が大きく捻じれ、その名前に相応しい。なれど三角錐を削り出したかのようなその形状は、両刃と称するには違和感を覚える。
観賞用としてデザイン性を追求したと説明される方が納得がいくほど、その短剣は物珍しく美しい形をしていた。
「これはナイフなんですか。その、実際に人を傷つけられるような……?」
「そうだよ。人を傷つけられる、立派な凶器だ。刃が捻じれているでしょう。一度人体に刺されば、刺した時だけじゃなく抜くときにも肉や内臓や血管を抉るんだ。とんでもないよね。この残酷な凶器でコウは、うちの家族は殺されたんだ。肉と内臓と血管を抉られて」
優太は果たせる哉微笑みを浮かべたまま、恐ろしいほどに穏やかだった。
その目はしっかりとシロの双眼を捉えているが、シロを見てはいない。彼の視線と意識はシロやこの空間を超え、遥か遠方へと向けられていた。




