【第二章 別れと面影】
しかし、宮廷の時は苛烈に流れる。
折悪しく国境の検分と朝廷の政務が重なり、男は帝の命により、遠方へ長期の使節として赴くこととなった。
「無事でいておくれ……必ず、戻るゆえ」
胸を痛めつつも後宮を後にした男は、怒涛の執務に追われ、気づけば半年あまりの歳月が過ぎ去っていた。
ようやくすべての任を終え、半ば駆け足で宮廷へ戻った男は、旅装も解かぬまま碧蓮池へと向かった。
「戻ったぞ……! 無事であったか!」
必死に水面へ目を凝らす。
朱、金、斑……入り乱れる輝かしい魚影の中に、あの愛おしい小ささを探した。
けれど――いない。
どれほど探しても、水面をいくら見つめ直しても。
あの小さく、不器用で、健気に揺れていた影は、どこにも見当たらなかった。
「……そんな」
半年という過酷な歳月が、ずしりと男の肩にのしかかる。
視界を失い、水ばかりを呑んでいたあの小さき者が、この弱肉強食の池でどうなったか。考えるまでもないことであった。
(なぜ、もっと早く戻れなかったのだ……!)
込み上げる後悔と罪悪感に耐えかね、男は冷たい石畳の上に膝をつき、声もなく涙をこぼした。ぽろぽろと零れ落ちる涙が水面を揺らし、波紋を描いて消えてゆく。
「すまぬ……すまぬ……」
その夜のことであった。
月明かりだけが差し込む静かな執務室で、男が深い悲しみに暮れていると――トントン、と静まり返った扉が控えめに叩かれた。
扉を開けると、そこには一人の可憐な少女がぽつりと立っていた。
身丈に合わぬ華麗な錦の羽衣を纏い、どこか遠くを見つめるような澄んだ瞳で、じっと男を見上げている。
「貴方様に……お会いしたかった……っ。ずっと、ずっと……お慕いしておりました。……けれど、私はもう、この世にはおらぬのです」
少女は色鮮やかな袖をぎゅっと握りしめ、溢れる涙も拭わず告げた。
「目の見えぬ私に、いつも優しく餌を投げ入れてくださったこと……。上手く食せず、水ばかり呑んでいた私を、温かく見守ってくださったこと……。嬉しゅうございました……真に、嬉しかったのです……」
ハッと息を呑む。
その言葉、その儚げな佇まい――間違いない。あの池の、小さな鯉。
「今まで……心より、ありがとうございました」
少女は静かに微笑むと深々と頭を下げ、水面に落ちた一滴の墨が滲むように、ゆっくりと輪郭を失って消えていった。
後に残されたのは、ほのかに漂う甘い蓮の香りと、冷たい床の上に残された一筋の水滴のみであった。




