【第一章 碧蓮池(へきれんち)の影】
冷たい石畳の続く後宮の一角に、帝が愛でる「碧蓮池」と呼ばれる美しき蓮池があった。
色鮮やかな朱や金、漆黒の斑紋を纏った見事な錦鯉たちが、まるで絹の帯を織りなすように水面を泳ぎ回っている。朝夕の執務に追われる若き官吏の男は、心を休めるため、しばしばこの池のほとりを訪れていた。
だが、華やかな群れの中に、どうしても視線を惹きつけてやまない一匹がいた。
他の大きな鯉たちが威勢よく跳ね回る中、その子だけは池の隅の影で、か弱く揺れているばかり。小さく痩せた体躯は、あまりに頼りなかった。
「……あの小さき者は、満足に餌を食しておるのだろうか」
ひとたび気にかかると、愛おしさは日ごとに増していく。男は暇を見つけては足を運び、池の縁からその姿を見守るようになった。
観察を続けるうち、男はある事に気づく。宮女たちが撒く餌の争奪戦に遅れるばかりか、男が大きな鯉たちを遠ざけ、その子の口元へそっと餌を落としてやっても――。
「さあ、お召し上がりなさい」
目と鼻の先に落ちた餌に、その子はまったく気づく様子を見せない。ぼんやりと漂うばかりで、餌は目ざとい他の鯉に奪われてしまう。
何度試しても同じであった。餌の落ちた波紋の気配を察すると、必死に口を開けるのだが――「ガボッ……ゴボッ」と、大量の水ごと周囲を呑み込んでいる様子だった。
(……もしや、この子は目が……見えておらぬのか)
視界を閉ざされているからこそ、水流の揺らぎだけを頼りに、命がけで口を開く。けれど、不器用なやり方では冷たい池の水ばかりが腹に溜まり、痩せた体は満たされぬまま。
呑み込んだ水でお腹を重そうに膨らませ、それでも健気に尾ひれを振るう小さな影。
男の胸は強く締めつけられ、もう一瞬たりとも、その小さな命から目を離すことができなくなっていた。




