エピソード4
その日、雅之は急きょ、帰りが遅くなった。かねてから懸案だった大型プロジェクトが、先方との合意に達して、本格的に動き出すことになったから。そのプロジェクトを主だってすすめていたのが雅之だった。雅之は、先方への接待に明け暮れた。そうして、長い一日が終わり、雅之が家にたどり着いたのは、日付をまたいでからだった。
家の中は、照明が消され、静まり返っていた。新婚の頃の恵美子といえば、どんなに遅くなろうとも、自分の帰りを寝ずに待ってくれていたものだが、それもいつの頃から置手紙に変わり、それもなくなった。
ここ数日、ろくに睡眠が取れておらず、疲れが波のように押し寄せてきた。そのままリビングの椅子に座ろうものなら、二度と立ち上がれないような気がした。さっさとお風呂に入って、布団にもぐり込もうと思った。
恵美子は、辛うじて湯船の水を張ったままにしてくれていたが、ぬるくなったお湯を追い炊きしてまで湯船に浸かるのは気が引けた。だから雅之は、さっとシャワーを浴びて、汗を流すだけにした。
足音を忍ばせて、二階へと上がった。眠っている恵美子を起こさないようにとの、せめてもの配慮のつもりだった。階段を上がってすぐのところに、航大の部屋があった。当然、いつものようにドアの隙間から光が漏れて、部屋の中からシャカシャカと、あの耳障りな音が聞こえてくるものだと思っていた。だが、雅之のそんな予想に反して、部屋の中からは物音一つ、聞こえてこなかった。寝ているのだろうか。部屋の中を覗いてやろうと思ったが、すぐに止めた。もしも覗いてみて、眠っている航大を起こしてしまおうものならば、ただでさえ険悪なムードがさらに悪化してしまう。
寝室に入ってみると、そこに眠っているはずの恵美子の姿がなかった。目が暗さに慣れてきているとは言え、雅之は手さぐりで恵美子のベッドの布団を触った。きれいに折りたたまれたままの布団があるだけだった。雅之は、狐につままれたような気持ちになった。
雅之は、急に不安に襲われて、部屋の明かりをつけてみた。いつもの見慣れた寝室だった。ただちに、今朝の恵美子とのやりとりを振り返ってみる。特に不自然な点はなかったはずだった。強いて言えば、航大のことで少し、言い合いになってしまったことぐらいだろうか。それなんかも、父親として当然のことを言っただけのことで、特におかしなこともなかったはず。
「スマホは?」と思い立ち、ポケットの中のスマホを取り出した。焦りから、スマホを落としかけてしまった。もし何かあれば、恵美子から連絡が来ているはずだ。メッセージをチェックしてみる。オークションサイトに、新しい出品があったことを知らせるメッセージが届いているだけだった。
雅之は、途端に心臓が高鳴るのを感じた。「もしや」と、思った。そう思いながら、その考えを、必死に打ち消す。それだけでは気が収まらず、スマホのメッセージ画面を開くと、恵美子宛てにメッセージを送った。無我夢中だった。こんな時間にメッセージを送られて、相手が受ける迷惑など考えていられなかった。メッセージは、いつまで経っても既読にならなかった。
スマホの画面は、まもなく時刻が午前二時をまわることを告げていた。雅之は、恵美子に送ったメッセージの画面を直視しながら、それが既読になることを願い続けた。だが、その夜、それが叶うことはなかった。
途方に暮れて、雅之は布団に入った。何かあったときにすぐに起き上がれるように、寝室の灯りをつけたままにしていたが、煌々と照らす灯りが眩しくて仕方がなかった。だから、ついに観念して、明かりを消した。
このような状況で、やることがないというのはいささかおかしなことかも知れないが、雅之は数分おきにスマホのボタンを押して、画面を表示させた。そして、恵美子からのメッセージが来ていないことに、落胆することの繰り返し。
静かだった。いつもなら、左側のベッドから軽い寝息が聞こえるはずだった。締め切った扉の向こうからは、耳障りなあの音が漏れてきて、イライラを募らせるはずだった。それらが、一瞬にして消えてしまった。雅之は、耳をそば立てた。ありとあらゆる音を聞こうと、耳に意識を集中させた。それはまるで、自分が生きていることを、確認するかのよう。意識して音を聞こうとすればするほど、何も聞こえなかった。音のしない世界に迷い込んでしまった雅之は、たちまち不安に圧し潰されそうになった。それに抵抗するかのように、布団を頭からかぶって、ひたすら目を閉じた。




