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無音の一夜  作者: 松山 さくら


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エピソード3

「ちょっと、あなた、大丈夫?」

 誰かに身体を揺すられたように思った。

「えっ、ここは……」

 雅之は、寝ぼけ眼に言った。かすかに頭が痛かった。

「あなた、昨夜、これを飲んだでしょ」

 そう言って、恵美子が見せてきたのは、ビールの空き缶だった。雅之は、自分がここで眠ってしまっていたことに、ようやく気がついた。恵美子に見られてしまった以上は、これ以上言い訳ができないと思い、雅之は正直に打ち明けた。それを聞いていた恵美子の顔が、みるみるうちに曇っていった。眠れないからと言って、酒に逃げてしまったことを責められるだろうと、雅之は覚悟した。

「あなた、最近、ずっと働きづめだったでしょ。知らないうちにストレスを溜め込んでいるのかも知れないわ。一日くらい、会社を休んでみたら……」

 意外にも、恵美子の態度は優しかった。「休んでみたら」なんて言われたのは、初めてのことかも知れなかった。まるで、子供を心配する母のような言葉。とは言え、その日は大事な会議を控えていて、簡単に休む訳にはいかなかった。

「俺のことは心配いらない。きっと今日の会議が終われば、ゆっくり休めるようになるさ」

 雅之は、ニッコリ笑って見せた。そうやって、恵美子に笑って見せたのも、久しぶりのような気がした。珍しく恵美子と話が弾んだのをいいことに、気になっていたことを切り出してみる。

「俺のことよりも、航大の方はどうなんだ。最近、ずっと遅くまで起きているみたいだけど……」

「あの子は、あれでいろいろ悩んでいるのよ。難しい年ごろとか言うじゃない」

 恵美子が、航大の肩を持つような言い方をしたので、雅之は拍子抜けした。航大が毎晩夜更かししていることは、恵美子も知っているはずだ。考えてみれば、雅之は航大が生まれて以来、航大のことはすべて恵美子に任せてきた。恵美子はどちらかと言うと教育熱が高い方で、夜、仕事から帰ってきた雅之に、航大の学校での様子がどうだとか、テストの点数がどうだったとか、口うるさいほど話していた。だけど、最近は、そんな声はぴたりと聞かなくなったような気がする。思春期に入った航大が、恵美子の思い通りに育たなくて、子育てから関心を失くしてしまったということだろうか。

「俺から、航大に、がつんと言ってやろうか」

 雅之は、勢いついでにそう言った。それまで、子育ては恵美子に任せっきりで、父親らしいことは何一つしてこなかった。その恵美子が子育てに行き詰まっているのならば、せめて父親として声を張り上げることくらいはやっても、罰は当たらないのではないだろうか。

「あなたが言わなくても大丈夫。あの子はね、ああ見えても、ちゃんと自分のことを考えているのよ」

 恵美子は、雅之をなだめるように答える。その意味が、雅之にはわからなかった。毎晩遅くまで、好き放題過ごしていることが、自分のことを考えていることと、どう関係があるというのだろうか。雅之には、恵美子が航大を甘やかしているようにしか見えていなかった。

 雅之は、腕時計に目を遣る。そろそろ、家を出ないといけない時間だった。

「航大の奴、いつも何時に起きて来るんだ。普通の中学生なら、もうとっくに起きて、学校の準備とかをしている時間じゃないのか」

 吐き捨てるように雅之が言うと、恵美子は「やれやれ」と言わんばかりに、顔をしかめて答えた。

「航大ね、あなたと顔を合わせると、また何か言われるんじゃないかって、ビクビクしているのよ。でもね、ちゃんとあなたが仕事に出かけたあとに起きて来るわ。それから急いで朝の支度をして、毎朝遅刻せずに学校に行ってるわよ」

それを聞いた雅之は、胸に手を当てて考えた。自分は航大に、それほどまで強く接しているだろうか。「勉強しろ」くらいは、顔を合わせたときに口にしていたかも知れないが、他の父親だって同じように言っているのではないのか。

 雅之は、なんとなく釈然としない思いで、家を出た。家を出たところで、うしろを振り返って、二階の部屋を見た。雅之が角の部屋に視線を送ったとき、部屋の白いカーテンが揺れたような気がした。


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