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無音の一夜  作者: 松山 さくら


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エピソード2

 次の日の夜、雅之は普段よりも少し早めに布団に入った。訝しそうな視線を向けてくる恵美子には、仕事で疲れているからとだけ、言った。普段なら眠る前にスマホをチェックするのだが、眠る前にスマホの画面を見るのは良くないと、さっき見たテレビ番組で言っていた。だから、スマホはリビングのテーブルの上に置いてきた。早々と寝室の電気を消して、布団に入る。

 今日は忙しかった。得意先をまわっていると、業務用の携帯が鳴った。電話の相手は上司で、雅之の担当先の会社でトラブルがあったので、すぐに駆けつけて欲しいとのことだった。トラブルは、雅之が思っている以上に深刻だった。対応が悪いなどと、クレームを付けられたのかと思って謝罪に出向いてみると、トラブルというのは技術的なもので、営業畑の雅之が駆けつけたところで、どうすることもできなかった。

 結局、そのトラブルのために、取引先会社の経理システムが丸一日ダウンした。本来は、技術部門に向けられるべき相手先の怒りの矛先を、雅之は一手に引き受けることになってしまった。取引先から叱られることには慣れているとは言え、やはり気持ちのいいものではなかった。はけ口のない濁った感情は、雅之の心の中で渦巻き続けていた。

「はぁ~っ」とため息をついて、やるせない思いで目を閉じていると、一階から恵美子と航大の甲高い笑い声が聞こえてきた。さっきリビングで見ていた、人気芸人が司会を務めるバラエティ番組だろう。後輩芸人たちの家に勝手に忍び込んで、ドッキリを仕掛けて、後輩たちの反応を楽しむという趣旨の番組。若者たちの間で人気急上昇中らしいが、あれの一体どこが面白いと言うのだろうか。

 それに、この家を新築で買ったとき、営業担当者は、防音には凝っているのがウリだとか言っていた。建売住宅にしては、特別の材質を使っているとかで、前に住んでいたマンションでは、上の階の騒音に悩まされていただけに、特に気に入ってこの家を購入したのだった。

 なおも一階からは、二人の笑い声が聞こえてくる。番組が進むにつれて、その声はますます大きくなっていくようだった。雅之は耐えきれずに布団を頭からかぶって、小さくうずくまった。

 ようやく静かになったかと思うと、恵美子が寝室に上がってきた。すぐにベッドに入るのかと思ったが、恵美子は部屋の片づけを始めた。クローゼットを開け閉めする音や、鏡台の抽斗の中から何かを取り出す音が寝室に響いた。

 雅之はすかさず、

「頼むから、静かにしてくれよ。疲れてるんだからさぁ」

 と、目を半開きにして言った。

「あら、あなた、まだ起きてたの。もう、眠ってしまったかと思って……」

 恵美子は、特に悪びれることなく答える。

「昨日も、眠れなかったんだからさぁ」

 雅之が不満あり気に言うと、

「私なんて毎晩よ。あなたのいびきで毎晩眠れないんだから……」

 と、恵美子が言い返した。

もはや、それ以上雅之が言ってしまうと、喧嘩になってしまいそうだった。ただでさえ、仕事で嫌な思いをしているのに、その上夫婦仲まで悪くなってしまったら、雅之の居場所がなくなってしまう。だから、いつもの夫婦喧嘩のときのように、雅之がひと言詫びることで、とりあえず恵美子との言い争いを収めた。

 それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。さっき眠れないと愚痴を言っていた恵美子は、壁の方に身体を向けて寝息を立てていた。

 雅之は、それを腹立たしく思いながらも、必死に目をつむった。眠るようにと、自分に言い聞かせた。だが、不思議なもので、どれほど身体が疲れていたとしても、眠れないときはとことん眠れない。むしろ、眠らねばと思えば思うほど、眠りから遠ざかっていく。寝室は、本来もっともリラックスできる場であるはずなのに、僕にとってはイライラが募る場所と化していた。

 こうなれば、あらゆることが気になり出すもので、音がまさにその一つだった。枕もとの目覚まし時計が、カチカチと音を立てながら針をすすめた。昼間との寒暖差が原因だろうか、天井裏がミシミシと音を立てる。真夜中の住宅街の道路を、車が排気音を轟かせながら走り去っていった。こんな夜遅くに、一体何の時報だろうか、学校で聞くようなチャイムの音が風に乗って聞こえてきた。今や、それらのすべてが、自分の眠りを邪魔するものでしかなかった。

 雅之は、布団を蹴るようにベッドから立ち上がると、鎧を身に着けているような重たい身体を引きずりながら、寝室を出た。相変わらず、航大の部屋からは、シャカシャカという音が聞こえてきた。そもそも、こんな夜遅くに、音楽を聴かなければならないものだろうか。その音が、まるで眠れない自分をあざ笑うためのものであるような気がして、腹立たしかった。よほど、目の前の扉を勢いよく開けて、軽い笑みを浮かべているであろう航大を、怒鳴りつけてやりたかった。だが、このときの雅之には、そのような気力もなかった。

 ダイニングテーブルの上は、きれいに片づけられていた。考えてみれば、夕食を食べ終わったあと、いつも恵美子が一人で片づけをしていた。昼間、パートに出かけているので、家のことはどうしても後まわしになってしまう。だから、夜に洗濯を干したり部屋の片づけをしたりするのは、わかっていた。当たり前のことだと思って、今まで気にもならなかった。

 だけど、自分が眠れないとなると、別だった。そんな恵美子が立てるちょっとした音もそうだし、思春期を迎えた航大がなりふり構わずに立てる音に、腹を立てているのだ。それに、普段は気にも留めない家の周囲から聞こえてくる音に、いちいち難癖をつけている自分がいる。僕の心の中は、虚しさでいっぱいだった。

 雅之は昨日の夜と同じく、冷蔵庫の中を探った。やはり缶ビールが入っていた。本来は、夕飯のときに雅之が飲めるように、恵美子が冷やしてくれているものだった。それを、眠れないからと言って、恵美子に黙って飲むことに、雅之は罪悪感を抱かずにはいられなかった。だけど、酒の力を借りなければ、眠れないことも事実だった。このまま飲まずに布団に戻って、いつ終わるとも知れない虚しいときを過ごすのは、絶対に避けたかった。

 もともと、雅之は、それほど酒には強くはなかった。仕事の付き合いのときこそ、深酒をすることはあったが、そのときは必ずと言ってよいほど、周囲に迷惑をかけてきた。だから、普段はたしなみ程度にしか飲まなかった。

 その日は、酒のあてなしにビールを飲んだので、思いのほか、酔いが早くまわってきた。疲れた身体が、それに一層拍車をかけた。気がつけば、雅之はダイニングテーブルに突っ伏したまま、眠ってしまっていた。静まり返った室内を、蛍光灯の寒々しい光が煌々と照らしていた。


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