エピソード1
雅之は、天井の常夜灯を見つめていた。昼間の仕事で、身体は疲れているはずなのに、眠りに落ちるタイミングを失ってしまって、まるで眠れなかった。
隣人だろうか。車に乗り降りする音が、重苦しい真夜中の空気を振動させる。定年を迎えて、妻と二人だけで生活しているはずのあの夫婦、夜は雅之が遅めに帰宅するときには部屋の電気は消えていて、日が昇ると同時に起き出して、夫婦連れ添って飼い犬の散歩に出かける。雅之も、定年後は時間に縛られることなく、あんな悠々自適な生活がしたいと、密かに憧れていた。
隣のベッドでは、妻の恵美子が、軽く寝息を立てながら眠っている。苦痛ひとつ浮かべない穏やかな寝顔だった。恵美子は、一人息子の航大が中学校に入るのと同時に、近所のスーパーでパートを始めた。雅之の稼ぎだけでは生活が苦しいと言うのが理由だったが、家に一人でいるのが退屈になってきたというのが本当のところだった。
枕もとの時計を見ると、午前一時を少しまわったところだった。雅之は、無理にでも寝ようと目を閉じて、早く眠りに落ちるように自分に言い聞かせた。次の日は、午前中から得意先を何軒もまわらなければならなかった。いくら勝手がわかっているからと言っても、寝不足の顔を相手に見せる訳にはいかなかったから。
ほんの少し、うとうとしてきたところで、またもや邪魔が入る。壁一枚隔てた部屋にいる一人息子の航大が、一階のトイレに行くために、扉をバタンと音を立てて開けたのだ。その音で、雅之は完全に目が覚めてしまった。そうなってしまえば、眠れないことがもはや、苦痛でしかなくなった。
わざと寝返りを打って、眠れる態勢を探してみた。子供の頃、頭の中で羊を数えれば眠れると聞いたことを思い出して、試しに数えてみた。羊の数が百五十を超えたところで、頭の中は羊で一杯になってしまった。あまりごそごそ動いて、恵美子を目覚めさせてしまうのも気が引けた。
仕方なく、雅之は布団の中から起き上がると、音を立てずに寝室を出た。重い頭を抱えながら、階段に向かう。途中、航大の部屋の扉の隙間から、明かりが漏れていることに気づいた。これで、勉強でもしていればよいのだが、シャカシャカとやたら耳につく音楽が聞こえた。夜更かししていることを叱ろうかと思い、ドアのノブに手をかけそうになったが、思い留まった。そのまま、中に入ったところで、喧嘩になることは目に見えている。
思い返してみれば、ここ数日、航大と口を聞いた記憶がなかった。数日前、航大が、友達の家に行くと言ったきり、夜遅くに帰宅したことがあって、雅之は「中学生がこんな時間まで……」と、お決まりの文句できつく叱ったのだった。航大には航大なりに、友人宅に遅くまで留まった理由があったことを、恵美子から聞かされた。我ながら、他にかける台詞はなかったものかと、あとになって後悔した。
真夜中のダイニングに足を踏み入れるのは、久しぶりだった。雅之は、従来、寝つきはよい方で、一旦布団に入ってしまえば、そのまま朝までぐっすり眠れた。朝起きてみて、寝不足気味で朝食の準備をする恵美子から、いびきがうるさいと嫌味を言われたことは数知れず。だが、当の雅之には、まったく自覚がないのだから、話がかみ合わなかった。
雅之は、冷蔵庫を開けてみた。夕食の肉じゃがの残りが、食べたときの状態で入っていた。奥の方に、ビールの缶が見えた。雅之は、まるで子供が母親の目を盗んでおやつを取り出すときのように、あたりを気にしながらそれらを取り出した。そして、肉じゃがをあてに、缶ビールを開けた。こんな時間に飲んでしまうと、翌日まで酔いが残ってしまうことはわかっていたが、眠れずにぼうっとしていることに耐えられなかった。
適度に空腹が満たされて、案の定、酔いがまわってきた。それにつられて、眠気が襲ってきた。それは急激とも言えるもので、雅之は危うくその場に突っ伏して眠ってしまいそうになったが、夜中にビールを飲んだことが恵美子に知れてしまうと、あとで何を言われるかわからない。足をふらつかせながら、食べ終わった皿と空き缶を片づけると、何事もなかったように寝室に上がって、布団に入った。




