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無音の一夜  作者: 松山 さくら


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エピソード5

 窓の外から、車が行き交う音が聞こえた。明るい光に包まれて、鳥たちが賑やかにさえずっている。朝だ、朝がやって来た。一体どれほどの時間、眠ったのだろうか。そう思っていると、雅之の枕元から電子音が鳴った。目覚まし時計のアラーム。雅之は、夕べ布団に入る前に目覚ましをセットした記憶がないことを思い出した。恵美子が気を利かせて、セットしてくれたのだろうか。

 雅之は、はっとなって、隣のベッドに目を遣った。やはり、昨日見た通り、布団がきれいに折りたたまれたままだった。とうとう、恵美子はここで寝なかったのだ。「スマホは?」と思って、メッセージが届いているかどうかを確認した。新着メッセージはなかった。

 起き上がってみると、たちまち激しい頭痛に襲われた。夕べのアルコールが、まだ残っていたのだ。とにかく水だ、水を飲もうと思った。寝室を出て階段に足をもつれさせながら下りる。その前に気になって、航大の部屋のドアに耳をつけてみた。何も聞こえてこなかった。

 階段を降りたところが、玄関に続く廊下になっていて、そこからダイニングルームに入ることができた。雅之は、目をこすりながらダイニングルームの扉を開けた。

「あっ、あなた、おはよう。夕べは遅かったのね」

 聞き覚えのある声がした。恵美子だった。

「えっ、恵美子?」

「あなた、一体どうしたの。そんな怖い顔をして……」

 恵美子は、いつものように、朝食の準備をしていた。

「えっ、あっ、いや……昨日、恵美子たち、どこかに出かけているみたいだったから……」

 雅之はそう言って、頭をさすった。恵美子がすかさず、「はい、これ」と言って、水の入ったコップを差し出してきた。雅之は、それを一気に飲み干す。それと同時に、頭に血がまわり始めて、昨日の自分の慌てぶりを思い浮かべて、気恥ずかしく思った。

 恵美子は、そんな雅之の気持ちも知らずに、淡々と朝の準備を続けている。そして、焼けたトーストとコーヒーを、雅之の席に置きながら打ち明けた。

「あなた、最近眠れないって言ってたでしょ。そのことでだいぶ悩んでいるみたいだったから、航大と相談して、あなたの眠りの邪魔をしないようにしたのよ。だから私は、一階の和室で寝たわ。航大は、やりたいことを切り上げて、いつもよりも早く寝ることにしたの」

 恵美子はそう言って、リビングのソファーに座る航大と目を合わせた。雅之は、そこに航大がいたことにようやく気づいて、目を丸くした。朝の時間に、航大と顔を合わせるには、航大が中学二年生になってから、初めてのことかも知れなかった。

「お父さん、最近無理し過ぎだよ。ちょっとは自分の身体を労わらなきゃ」

 航大が久しぶりに口を開いた。普段の雅之なら、航大のこの言葉を聞いて、「何を呑気なことを言ってるんだ」と、怒りを露にするところだろう。雅之の不眠の原因の一つが、あの夜中に聞こえるシャカシャカの音だったのだから。

 雅之は、

「えっ、あぁ……そうだな」

 とだけ、答えた。

「あなたは、航大が毎晩遅くまで起きて遊んでいると思っていたかも知れないけど、違うのよ。航大は、自分の将来の夢に向かって頑張っているの」

 恵美子は穏やかな表情で、雅之に言った。その意味がわからずに、雅之はとっさに首を傾げる。

「将来の夢?」

 雅之は、そう訊いて、視線を天井に這わせた。何か考え事をするときの、雅之の癖だった。

 その様子を見て、航大が弁解するように口を開いた。

「お父さん、今まで僕が立てていた音のことで、悩ませてしまってごめんなさい。僕、作曲家になりたいんだ。学校で、音楽の先生の話を聞いていて、音楽の世界って楽しいと思った。僕が音楽を聴いていて笑顔になれるように、僕も自分が作った曲で、まわりの人たちに元気を届けたいんだ。だから、毎晩遅くまで、何度も音楽を聴いては、楽譜とにらめっこして、その曲がどうなっているのかを調べていたんだ」

 雅之は、航大が真剣な表情で話す姿を見ていて、ぽかんと口を開けたまま動けなくなった。

「あなたは知らないと思うけど、航大が初めて作曲した曲、音楽の先生が『素晴らしい』と言って褒めてくれてね。今度、先生がみんなの前で演奏してくれるのよ」

 そう言って、恵美子は目を輝かせた。

 それからほんの少し間を置いて、航大が訴えかけるような目で呟いた。

「本当は、そのことをお父さんにも話したかった。話して、『すごいなぁ』って、言ってもらいたかった。でも、最近のお父さんは、難しい顔ばかりしていたでしょ。僕の話を聞いて、余計にイライラを募らせるかも知れないと思った。だから、本当は伝えたかったけど、言えなかったんだ……」

 雅之は、持ちかけていたトーストを、皿の上に置いた。航大にかける言葉を必死に探したが、すぐには見つからなかった。

「でもね、これからはお父さんには迷惑をかけないよ。お母さんが、これを買ってくれたから」

 そう言って、航大が見せたのは、ヘッドホンだった。

「そっ、そういうことだったのか……」

 雅之はふと腕時計を見ると、いつしか仕事に向かう時間を過ぎていた。雅之は、居心地の悪さを二人に悟られまいと、その場を逃げるように家を出た。

 駅まで向かう途中、雅之はさっき航大が見せた真剣な顔を思い浮かべた。自分が知らなかっただけで、航大はしっかりと自分の将来を見据えて、今できることを一生懸命頑張っている。それに比べて、自分はどうだっただろうか。そんなことを少しも顧みることなく、航大のことを怠けてばかりいる奴だと決めつけていた。まったく、自分が恥ずかしかった。

 電車の中は、いつもと変わりなく混雑していた。幸いだったのは、窓の外に広がる見慣れた景色が、秋の乾いた空気に包まれて、どこまでも澄み切っていたことだった。雅之は、ドアの窓から、流れゆく景色をぼんやり見つめた。ふと、昨日恵美子に送ったメッセージを思い出した。


 恵美子へ

 僕が悪かった。これからは、航大とも、しっかり向き合う。だからお願いだ。帰ってきてくれないか。

                                      雅之


 とっさに書いたメッセージだったが、雅之の本心からだった。あんな辛い思いは、二度としたくはなかった。雅之は、心の中で決心した。今日から、しっかり家族と向き合っていこうと。

 電車の扉が開いた。雅之は、今日と言う日に向かって、力強く踏み出していった。


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