第16話 深淵の蜘蛛たち
「で、試験は合格でいいのか?」
俺がそう尋ねると、アンリは少しだけ言葉を詰まらせた。
「それは……」
言いかけたところで、俺は闘技場の隅にいる黒乃の呼吸が乱れていることに気づいた。
「大丈夫か、助手!?」
俺が駆け寄ると、黒乃は胸元を押さえながら膝をついた。
「はぁ、はぁ……真央くん……私……」
「黒乃!」
俺は黒乃の体を支えるために触れると、危険なほど熱を帯びているのがわかった。
魔力が暴走している。魔王ヴェルヴェットの過剰な力が、体に強い負荷をかけているんだ。
容体を『勇者の真眼』で確認すると、その魂は体以上に強い負荷がかかっており、悲鳴を上げるように軋んでいた。
対症療法だが、まずは勇者の魔力を注ぐことで暴走した魔王の魔力を中和し、安定させなくてはならない。
俺が処置に移ろうとしたとき、背後で「パリィィンッ……!」とガラスが割れるような音が響いた。
「なんだ?」
俺とアンリが振り返ると、闘技場の中央、その天井付近に巨大な空間の裂け目が生じていた。
まるで黒乃の魔力に反応したかのように。
その裂け目の奥、暗い紫色の闇の中から、八本の脚を持ち、全高だけでも人の背丈ほどもある、巨大な蜘蛛のような魔物が出現した。
その体色は、わずかに青みがかった黒。
深淵の、魔物だ。
「あれは、ヴォイド・モンスター……!?」アンリが緊張の声を発する。
> 深淵!?
> Sランクの魔物、ヴォイド・スパイダーだ。それも複数!
> どんどん出てくるぞ
> さすがにこれは無理だ、逃げろ!
> こいつらは速いから逃げ切るのも厳しいぞ
> とりあえずギルドに救援を要請したが、間に合うか……
深淵の蜘蛛は空間の裂け目から次々と溢れるように飛び出してくる。
その数はざっと十五以上。
「い、一体だけでもSランク探索者の出動要請が出るというのに、この数……」
アンリの表情が絶望に染まる。
だが、それは一瞬のことだった。すぐに決意を持った瞳で目の前の魔物たちを見据えた。
「天馬さん」
マイクが拾わないくらいの小声で、俺の名を呼ぶ。
「ここは、わたしが食い止めます。あなたは、彼女を連れて逃げてください」
アンリが俺たちの前に、深淵の蜘蛛たちの正面に立つ。
戦闘時ゆえに兜のバイザーを下げて顔を覆ってしまったため、表情は見えないが、彼女の膝は震えていた。
「アンリ……」
その……清廉な姿に、俺はしばし言葉を失う。
それが、明らかに無茶な決断であることは、俺にもわかった。
絶望的な戦力差の中で、アンリは自らを囮とすることで、俺たちを逃がそうとしている。
それが、有事の際における試験官としての役目なのだろう。
「さあ、早く!」
全身に鎧をまとってはいるものの、華奢な少女が、自分よりも大きな蜘蛛の群れの中に飛び込んでいく。
壮絶な光景だった。
彼女の恐怖は計り知れない。
俺は、どうすればいい……黒乃を安全なところまで連れて行くのが先か?
一瞬の迷いが生じたとき、腕の中でぐったりとしたままの黒乃が、弱々しく呼吸しながら口を開いた。
「真央……くん……」
黒乃の宝石のような瞳が俺を見据える。それだけで、俺も覚悟を決めた。
アンリを置いて離れることはしない。ここで一刻も早く、黒乃の魂を安定させ、加勢に行く。
アンリと黒乃。二人とも助けるためには、それしかない。
そうしている間に、アンリは深淵の蜘蛛の群れの真っ只中へと躍り出る。
「……わたくしが相手です!」
名乗りを上げた直後のことだった。
側面。深淵の蜘蛛が振り下ろした脚部の一撃を、アンリはとっさに飛び退いて躱す。
硬い石畳が、爆ぜて抉れる。
いくら鎧を着込んでいるとはいえ、まともに受けたら無事では済まないだろう。
渾身の一撃を躱された深淵の蜘蛛たちは、今度は粘性の糸を吐き出してアンリの身動きを封じようとする。
雨のように襲いかかる無数の蜘蛛糸を、アンリは跳躍して回避する。
一瞬のミスが命取りになる、ギリギリの綱渡りのような攻防だったが、それゆえに少女の動きは美しかった。
張り巡らされた蜘蛛糸で視界が塞がれる中、深淵の蜘蛛が脚部を振り回してくる。それを蜘蛛の巣の間をくぐり抜けるように避け、飛び交う破片を盾で防ぎながら、手にした長槍を突き出して反撃。
深淵の蜘蛛に傷をつける。
だが、浅い。
アンリが後方へと飛んだ先で、もう一体の蜘蛛が襲いかかる。
鋭い鋏角が迫る。それをアンリが左腕の盾で防いだ。
おそらくマジックアイテムだろうカイトシールドが、火花を散らし、重い衝撃音を響かせる。
体重差で吹き飛ばされそうになるのをアンリは全力で石畳を踏み締めて堪えた。
そして――。
「はぁぁッ!」
右手に構えた長槍を、深淵の蜘蛛の頭部に深く突き刺した。
黒霧とノイズを撒き散らしながら深淵の蜘蛛が消滅していく。
なんとあの状況で、アンリは深淵の蜘蛛の一体を貫き倒した。
肩で息をしながらも決して集中を切らさず、アンリが次の相手に向き直ろうとした、そのとき。
「あっ」
アンリの足に蜘蛛糸が粘着し、絡みつく。
次の瞬間、その蜘蛛糸が強く引っ張られ、彼女は転倒させられてしまう。
まずい。一度動きを止めてしまえば、この大群の中で逃げ延びるのは困難だ。
雨のように降り注ぐ蜘蛛糸が、少女の両腕に、太ももに命中し、完全に身動きが取れなくなる。
「アンリッ!」
俺が叫んだ直後。群れの中でも特に巨大な個体が、おそらく深淵の蜘蛛たちのボスが、体躯に似合わぬ異様に素早い動きでアンリに接近する。
そして、大蜘蛛の脚部が、丸太のように巨大なその踏みつけの一撃が、アンリの腹部をしたたかに打ち据え、押し潰した。
「かはっ……ぁ……!」
マジックアイテムの守りは瞬時に貫かれ、腹部を守っていたコルセットドレスが砕け散る。
地面が陥没し、ひび割れるほどの一撃。石畳と少女の鎧の破片が宙を舞った。
その衝撃の後。
クレーターの中にぐったりと倒れるアンリの、顔を覆っていた兜が外れて。
濡れた白銀の髪がふわりと舞い、汗にまみれ、息を詰まらせて苦痛に歪む素顔が露わになる。
腹部を抱えて丸くなりながらも、最後の力で槍へと手を伸ばす。
その悲壮な表情を見たとき。
絶望的な状況で戦い、その中で力尽きた少女に、なおも追い討ちをかけようと群がる深淵の蜘蛛たちを、認識した瞬間――。
俺の中で、何かが冷たく弾ける。
治療を終えた黒乃を、瓦礫の陰にそっと寝かせて、すぐに。
ふざけた着ぐるみの中で、俺は静かに立ち上がった。




