第二章⑥
水園は一人、錦景女子の東門の前で、少し緊張していた。東門は隣接する錦景女子大学の西門。東門を潜ると大学の敷地内に入ることになる。大学への出入りは禁止されていない。すぐ西門を潜ってすぐ先にある和洋折衷という単語がピタリと当てはまる図書館へも、錦景女子の生徒の出入りは許可されている。大学の敷地を通り抜けて帰る女子もいる。けれど、水園はあまり馴染みがない。まして、理学部の実験塔なんて、女子は知らない。
「シイカ」
歯切れのいい高く甘い声。門の黒い鉄格子の先に、シンディがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。彼女は白衣を着ている。少しサイズが大きいみたいだ。ポケットに手を突っ込んでいて、その佇まいは、アニメのキャラクタみたいに現実離れしている。シンディはポケットから手を出して顔の横で左右に動かす。
本当に、本当だったんだ。
水園は不思議な目で、同い年の大学に通う留学生の彼女を見つめた。
土曜日の夜のことを思い出す。喫茶マチウソワレに水園はシンディを案内した。それは理科準備室に二人きりでいるのに耐えられなかったからだ。コーヒーと若干煩わしい女子たちの奏でるBGMが必要だと本能的に感じたのだ。無理矢理脳みそを回転させなければ、流されてしまいそうだった。
マチソワでシンディは水園に話した事実。
シンディは理学部に留学してきた大学生。
「この留学は人生の余暇なんです、」と小さな円卓の対面に座るシンディはわざと物憂げな表情を作って語ったのだった。「オクスフォードで教官だったミネコ助手は私の才能の豊穣を企みました、腐ると思ったらしいのです、ずっとここにいたら腐るからって訳の分からないことを言われました、私の日本への留学準備は速やかに行われました、学生時代、ミネコ助手と内田先生は同じ研究室の同窓生、だから留学先はここに決まりました、私は別にどこでもよかったのです、別に何を専門にしても構いませんでした、だから私は今、内田先生と一緒に白い花の研究をしているんです、白い花は実は私の花じゃありません、私と内田先生が育てて管理している花ではありません、シイカの推測は間違いです、自然なものなんです、アレは、私が白い花の中で眠っていた理由、それはシイカが関係しているからだと思っていたからです、咲き続ける花の謎、それをシイカが握っているんじゃないかって私と内田先生は考えました、でも、違うんですね、シイカと一緒にいたらそれがハッキリしました、シイカは香水売りでした、錦女の素敵な香水売り、だから今日も研究の成果はありませんでした、白い花の真相への距離は変わらないままでした、妖精さんの存在もそろそろ信じたくなる気分ですね、でも、シイカが白い花で作る香水はとても、いい匂いだったから、それを確かめられたことが、土曜日の成果」
シンディは水園を見つめ続けていた。
そして水園は大学生のシンディに誘われたのだ。
BGMに使われたのは激しいピアノサウンド。
そのせいか、シンディから熱っぽいものを感じた。
グループに入らないかって。
白い花の研究グループに。
入らないかって。
誘われた。
水園はよく分からなくて、ずっと曖昧な輪郭の一日だったけれど、さらに不鮮明な気持ちになった。
夢のような出来事だとは思わない。
素敵な出来事だとも思わない。
ただただそれは唐突だった。
緻密な計算のもと仕掛けられた罠のような質問だった。
変な質問だった。
凄く変わっている。
凄く変わっているなって思った。
知らない世界の話をされているなって思った。
遠い世界の話。
ファンタジックな気持ちになった。
私には無縁の話。
しかしでも、体はそっちへ動いていた。コンパスが方角を示すときのようにゆらゆらと揺れていたものが、一瞬目を離した隙に、確かな方角を知らせ、それに船が連動する。
そんな風に。
水園の足は方向を決めて動く。
水園は門をぐっと引いて、小さな隙間を作って、大学の敷地に入る。靴底が強くコンクリートを叩いた。
何も変わらない、何の変哲もない、特別じゃないのが、月曜日のいいところ。
それなのに。
どうしてなんで、こんなに特別な気持ちになっているんだろう。
「えっと、どうも、」水園は澄ました顔でシンディの横に立つ。「説明だけは、聞こうと思って」
「その気があるなら電話してって言ったのに、」シンディは歩き出す。「でも、来てくれてありがとう」
「迷ってたの、」水園は無理に笑う。「寮に戻ってミステリィを読む方が、ずっと有益なのではないのだろうかって」
「確かにそれは迷いますね、迷う、迷いますよね、」シンディは愉快そうに言う。「でも、シイカは正しい判断をしたと思いますよ」
「その根拠ってなんだろう?」
「繋がりました、」シンディはシイカの手を触った。とてもわざとらしかった。「私、たちと」
もしかしたらシンディは水園のことを気に入ってくれているのでは、と、このとき、なんとなく、それとなく、はっきりと、気付く。意識する。水園は恥ずかしいというか、照れる。「……どういう意味?」
図書館の前を通り過ぎて、短い階段を登り、左右に分かれた通路を左に行く。シンディはシルバの前髪を触りながら、上目で水園を見る。回答が来るまでに随分とラグが発生していた。「……シイカって、そうですよね?」
水園はシンディが何を聞きたいのか、なんとなく分かった。「……そうだったら何なの?」
「聞くんですか?」
「野暮?」
「野暮ですよ、」シンディの頬はピンク色だった。水園は見ないようにした。精神衛生上よくないと思った。乱れる。近頃の自動車メーカの株価みたいになりそう。「ねぇ、シイカは誰かと付き合ってたりするの?」
急に口調がフランクになって、水園の心臓はドキリと揺れた。
「……誰かと付き合っているように見える?」
シンディは首を横に振る。「好きなコがいるように見える、それで、苦悩している、好きなコのせいで苦しんで、夢を見たりしている、バカなことを考えたりしてすぐに反省したりしている」
「恐ろしい洞察ですね」水園は声を高くして言う。
「シイカが分かりやすいんだよ、」シンディは小さく笑う。すぐに口を閉じて、真面目な顔をした。声が震えていた。「わ、私、フリィだけど」
「へぇ、」気のない返事をするのに、とてもエネルギアを消費した。素晴らしい誘いだと思うけれど、古町のことを考えると、やっぱり、躊躇われたのだ。それからなんとなく、シンディは一晩中泣き続ける女子だと思った。浮気はきっと、許されない。
「もちろん、責任も伴うけど、でも、ベリィ・イージ」
「でも、リスクが大きい、深みにはまったらきっと、抜け出せないんでしょう」
シンディは声を出して笑う。それは肯定のサインに違いない。サインをしたらきっと、この手をずっと離さないに違いない。
「なぁに、笑ってんの?」水園も笑っていた。「可愛い顔して」
理学部の実験塔につくまで、ずっと二人はわざとらしかった。
そんな月曜日の放課後。




