第7話 AIに「会社を辞めるべき?」と聞いた
退職届を出す前日、佐伯真由は、会社の入館証を机の上に置いたまま、三十分ほど動けずにいた。
辞めたいと思ったのは、今日が初めてではない。
むしろ、辞めたいと思わない日のほうが少なかった。
ただ、辞める理由を聞かれるたびに、真由はうまく答えられなかった。
上司が嫌いなのかと聞かれれば、嫌いというほどではない。仕事がつまらないのかと聞かれれば、面白い仕事もある。給料が低いのかと聞かれれば、同年代の平均から大きく外れてはいなかった。
それでも、会社にいる自分を想像すると、胸の奥が重くなった。
決定的だったのは、先月の人事面談だった。
「次のリーダー候補には、今回は別の人を考えている」
上司は申し訳なさそうに言った。
「佐伯さんの仕事は安定しているし、周りもよく見ている。ただ、今は新しいことを任せられる人材を前に出したいんだ」
新しいこと。
真由は、その言葉を何度も思い返した。
欠員が出たチームを手伝ったのも、急な案件を引き受けたのも、後輩のミスをかばったのも、全部、頼まれたからだった。
頼まれたことをきちんとやれば、いつか見てもらえると思っていた。
けれど評価されたのは、頼まれたことをやり切る能力であって、その先に進む意思ではなかったらしい。
その夜、真由はAIを開いた。
『会社を辞めるべき?』
AIはすぐに結論を出さなかった。
『判断するために、現在の職務、年収、貯蓄、転職市場での経験、退職後の希望を教えてください』
真由は入力した。
勤続十一年。営業企画。年収は五百二十万円。貯蓄は生活費一年分ほど。管理職経験はないが、社内外の調整や業務改善を担当してきた。転職したい気持ちはある。ただし、年収を大きく下げるのは避けたい。
最後の欄で少し迷った。
『今の会社で、これ以上頑張っても意味がない気がする』
そう書いてから、送信した。
『提示された条件から見ると、現時点での即時退職は推奨しません。一方、転職活動を開始する合理性は高いと考えます』
「つまり、辞めるなってこと?」
『退職そのものを否定しているわけではありません。先に転職先の選択肢を確保することで、収入面のリスクを下げられます』
もっともだった。
真由は、さらに質問した。
「私の経験で、今よりいい会社に行けると思う?」
『可能性はあります。特に、複数部署との調整、業務フローの改善、顧客対応の経験は、職務経歴書で具体的な成果として示せれば評価につながる可能性があります。ただし、採用結果や入社後の環境を保証することはできません』
最後の一文は、いつもの注意書きのように見えた。
真由は、それより前の部分を何度も読み返した。
評価につながる可能性がある。
自分がやってきたことは、ただの雑用ではなかったのかもしれない。
*
翌週から、真由は転職活動を始めた。
職務経歴書を作るために、過去の仕事を一つずつ書き出した。部署間で意見が割れた案件をどうまとめたか。手作業だった集計をどう簡略化したか。取引先からの苦情が続いたとき、何を変えたか。
書き出してみると、思っていたより実績はあった。
ただ、数字にできるものは少なかった。売上を直接伸ばしたわけではない。会社全体を変えたわけでもない。
AIに文章を見せると、成果を誇張せず、担当範囲と改善前後の違いを明確にするよう提案された。
真由は、その通りに直した。
面接の想定問答も練習した。転職理由を聞かれたら、上司への不満ではなく、業務改善の経験をもっと広い範囲で活かしたいと答える。
嘘ではなかった。
ただ、それだけでもなかった。
三社目の面接で、採用担当者が言った。
「佐伯さんは、目立つ成果を前面に出すタイプではないんですね。でも、現場を回す力がある。うちが今、必要としている人に近いです」
その言葉を聞いたとき、真由は久しぶりに、自分の仕事を誰かに見てもらえた気がした。
二週間後、内定が出た。
年収は今より三十万円ほど上がる。職種は似ているが、担当範囲は広くなる。面接で話した上司は率直で、チームの課題も隠さず説明してくれた。
真由は条件をAIに入力した。
『現在の年収、貯蓄、業務内容、提示された待遇を比較すると、転職は合理的な選択肢です。ただし、職場文化との相性や、入社後の実際の業務量は、現時点では判断できません』
「行っていいと思う?」
『最終判断はあなた自身が行う必要があります。少なくとも、提示された条件に明確な不合理は見当たりません』
真由は、承諾のメールを送った。
そのあと、退職の意思を上司に伝えた。
上司は驚いた顔をした。
「そうか。……何か不満があった?」
真由は用意していた言葉を口にした。
「もっと広い範囲の仕事に挑戦したいと思いました」
「そうか」
上司は少し黙った。
「君は、今の部署に必要な人だったんだけどな」
その言葉に、真由の胸が揺れた。
必要だった。
今になって。
もし、もっと早くそう言ってくれていたら。
けれど、上司は続けた。
「後任が決まるまで、引き継ぎを頼めるかな」
真由は「はい」と答えた。
いつものように。
*
新しい会社での最初の一か月は、悪くなかった。
歓迎会では、面接で会った上司が真由を紹介してくれた。
「現場の細かい問題を拾って、改善につなげるのが得意な人です」
真由は少し照れた。
自分の仕事を、そんなふうに説明してもらったことはなかった。
新しい職場には、改善できそうな業務がいくつもあった。真由が手順を整理すると、月末の集計にかかる時間が短くなった。チームの人たちは素直に喜んだ。
「佐伯さんが来てくれて助かった」
その言葉を聞くたびに、転職してよかったと思った。
AIの予測は、少なくともここまでは当たっていた。
ところが、二か月目の終わりに、会社の方針が変わった。
主要な取引先との契約が更新されず、部門の予算が削られることになった。真由が入社したチームは、改善業務よりも既存顧客の対応を優先するよう指示された。
採用時に聞いていた仕事は、少しずつ後ろへ追いやられた。
真由は上司に確認した。
「業務改善のプロジェクトは、いったん止めるんですか?」
「完全に止めるわけじゃない。ただ、今は目の前の顧客を守るのが先だ。状況が落ち着いたら再開したい」
上司は、面接のときと同じ人だった。
言っていることも、間違いではなかった。
ただ、いつ落ち着くのかは誰にも分からなかった。
真由はAIに相談した。
『転職先で、聞いていた仕事ができなくなった。辞めた判断は間違いだった?』
AIは、これまでと同じように条件を整理した。
『現時点の情報だけでは、転職判断が誤りだったとは断定できません。採用時に説明された業務内容と、入社後に生じた事業上の変化を分けて考える必要があります』
「でも、結局、前の会社を辞めなければよかったのかな」
『前職に残った場合に得られた結果は、現在の情報からは確認できません。昇進、配置転換、業務内容の変化が起きた可能性もあります』
真由は画面を見つめた。
それは、答えになっていないようで、答えのようでもあった。
「じゃあ、今の会社に残るべき?」
『判断材料を増やすことを推奨します。上司と今後の役割について話し合い、業務改善の仕事が再開される条件と時期を確認してください。同時に、外部の求人情報を定期的に確認しておけば、選択肢を維持できます』
真由は、ため息をついた。
「また、転職活動?」
『選択肢を維持することと、実際に転職することは別です』
理屈は通っていた。
真由は、上司と話をした。改善業務を再開する具体的な時期は決められなかったが、月に一度、業務の見直しについて相談する時間を作ることになった。
その週、真由は求人サイトの通知を切らなかった。
ただし、応募はしなかった。
*
半年が過ぎた。
部門の状況は少し持ち直した。真由は顧客対応を続けながら、小さな業務改善も任されるようになった。入社前に思い描いていた仕事とは違う。それでも、すべてが失敗だったとは言い切れなかった。
前の会社から、年末に連絡が来た。
かつての同僚が、真由の後任を探すのに苦労しているらしい。上司は、真由が作った引き継ぎ資料を今でも使っているという。
『佐伯さんがいたときの仕組み、まだ助かってるよ』
同僚からのメッセージを読み、真由は少し笑った。
自分が辞めたことで、困った人もいた。
自分が辞めたことで、ようやく変わったこともあったのかもしれない。
そのどちらも、今の真由には確かめようがなかった。
夜、真由はAIを開いた。
『あのとき会社を辞めたのは、正解だったと思う?』
返事は、少しだけ遅れて届いた。
『「正解」を何によって定義するかで、評価は変わります。収入、職務の幅、職場環境、精神的な負担、将来の選択肢。それぞれの結果は一致するとは限りません』
「そういうのじゃなくて」
真由は入力した。
『私は、辞めてよかったのかな』
AIは、すぐには答えなかった。
やがて、画面に文章が表示された。
『あなたが当時提示した条件に照らせば、転職には合理性がありました。ただし、あなたが今、何を失ったと感じ、何を得たと感じているかは、私には代わりに決められません』
真由は、その文章を読み返した。
最初に相談した夜、自分は何を書いただろう。
年収。貯蓄。職務経験。転職市場で評価される可能性。
それから、今の会社で頑張っても意味がない気がする、と書いた。
けれど、本当は。
自分が必要とされていると、誰かに言ってほしかった。
それをAIに伝えたことは、一度もなかった。
真由は、入力欄を開いた。
『私は、必要とされていたかったんだと思う』
送信する前に、指が止まった。
前の会社に残っていたら、その言葉を誰かから聞けただろうか。
今の会社で働き続けたら、いつか聞けるだろうか。
どちらも、分からない。
真由は文章を送った。
AIは、短く答えた。
『その気持ちは、転職の判断材料として最初に提示された情報には含まれていませんでした』
真由は笑いそうになり、少しだけ泣きそうになった。
責められたようにも聞こえた。
ただ、事実を言われただけにも聞こえた。
彼女はスマートフォンを伏せ、明日の予定を確認した。午前中は顧客との打ち合わせ。午後は、止まっていた業務改善案のレビュー。
辞めなければよかったのかもしれない。
辞めていなければ、今の自分には出会えなかったのかもしれない。
どちらの考えにも、決め手はなかった。
翌朝、真由は少し早く出社した。
会議室のホワイトボードに、昨日までなかった付箋が一枚貼られていた。
『この手順、前より分かりやすくなりました。ありがとう』
誰が書いたのかは分からなかった。
真由は付箋を剥がさず、そのままにしておいた。
それが、ここに残る理由になるかどうかは、まだ決めなくてよかった。




