第5話 AIに「一人暮らしの母が心配」と相談した
母が転んだのは、火曜日の夕方だった。
幸い、骨折はなかった。
買い物から帰る途中、玄関の段差につまずいたらしい。膝を擦りむき、手首を少し痛めただけで済んだ。
病院から電話を受けた由衣は、仕事を早退して実家へ向かった。
「大げさにしなくていいのに」
母は、湿布を貼った手首を隠すようにして笑った。
「大げさじゃないよ。連絡くらいしてよ」
「心配かけると思って」
「連絡しないほうが心配するでしょ」
そう言ったものの、由衣は母を責めきれなかった。
父が亡くなってから、母はずっと一人で暮らしている。
由衣の家から電車で三十分ほど。遠くはないが、仕事がある平日に毎日顔を出すのは難しい。
電話は週に一、二回。
帰省は月に一度できればいいほうだった。
母はまだ六十八歳で、身の回りのことは自分でできる。近所に親しい人もいるし、買い物にも一人で行く。
だから、これまで大きな問題はないと思っていた。
けれど、病院の待合室で母の手を見たとき、由衣は急に怖くなった。
もし、頭を打っていたら。
もし、誰にも気づかれずに家で動けなくなっていたら。
もし、次は電話もできなかったら。
その夜、由衣は帰宅してからAIを開いた。
「一人暮らしの母が心配です。仕事があるので毎日会いに行くことはできません。何かできることはありますか?」
AIは、状況を整理するための質問を返した。
母の年齢。
持病や日常生活で困っていることがあるか。
近くに頼れる人がいるか。
緊急時の連絡先を共有しているか。
由衣は分かる範囲で答えた。
数秒後、回答が表示された。
「毎日訪問することが難しい場合、負担の少ない定期連絡と、緊急時の対応手順を決めておく方法が考えられます」
「定期連絡?」
「例えば、毎晩決まった時間に短いメッセージを送り、返信がない場合は電話をする。一定時間連絡が取れず、普段と異なる状況がある場合には、近隣の親族や知人に確認を依頼する、といった手順です」
由衣は、なるほどと思った。
特別なことではない。
けれど、何をどこまでやればいいのか、今まで具体的に考えたことはなかった。
「毎日電話するほうがいいのかな」
「通話が双方の負担になる場合は、まずメッセージから始め、必要に応じて通話へ切り替える方法もあります。重要なのは、無理なく続けられることと、返信がない場合の対応を事前に決めておくことです」
その回答は、現実的だった。
由衣は母に電話をかけた。
「毎晩、メッセージを送ることにしない?」
『毎晩? 何を?』
「今日も大丈夫、って分かるだけでいいから。私が心配しすぎるのもあるけど」
母は少し笑った。
『分かった。そんなことで安心するなら、送るよ』
「返信がなかったら電話するからね」
『はいはい』
それから、毎晩八時半に、由衣は母へメッセージを送ることにした。
『今日も大丈夫?』
母は、たいてい数分以内に返信した。
『大丈夫だよ』
最初の数日は、由衣も返信が来るまでスマートフォンを気にしていた。
けれど、一週間もすると習慣になった。
八時半にメッセージを送る。
返信が来る。
安心して、家事を続ける。
それだけだった。
*
AIにも、連絡の記録を整理してもらうようになった。
母の返信が遅かった日や、体調が悪いと言っていた日をメモしておけば、変化に気づきやすいと思ったのだ。
「連絡記録を作りたい。何を記録すればいい?」
「日付、連絡した時刻、返信の有無、本人が伝えた体調、普段と異なる様子、必要に応じて取った対応を記録することを推奨します」
「返信があれば、ひとまず安心していいよね?」
「返信があることは、連絡に応じられる状態であることを示す一つの情報です。ただし、返信だけで健康状態や安全を完全に確認できるわけではありません」
由衣は、その一文を読んで頷いた。
もちろん、そうだ。
だからこそ、返信の内容も記録するのだ。
由衣はスマートフォンのメモに、簡単な表を作った。
日付。
返信時刻。
体調。
気になったこと。
最初は細かく書いていたが、やがて内容は簡単になった。
八時三十二分。大丈夫。
八時三十五分。大丈夫。
八時三十一分。大丈夫。
母の返信は、いつも似たようなものだった。
たまに、買い物に行ったとか、テレビで面白い番組を見たとか、短い話が添えられる。
由衣はそれを読むと、少しだけほっとした。
母は普段通りに暮らしている。
そのことを、毎晩確かめられるようになった。
一か月が過ぎたころには、由衣の不安も少し落ち着いていた。
仕事中に、ふと母のことを思い出す回数が減った。
何かあれば、連絡が来る。
連絡がなければ、こちらから確認する。
やるべきことは決まっている。
由衣はAIに、記録を見直してもらった。
「この一か月、母の様子に気になる変化はある?」
返信時刻とメモを入力すると、AIは回答した。
「提示された記録の範囲では、返信が途絶えた日や、体調不良が継続していると判断できる明確な傾向は確認できません。ただし、記録されていない時間帯の状況までは分かりません」
「そっか。よかった」
「定期的な連絡を継続し、転倒の予防や緊急時の連絡先についても、本人と相談しておくことを推奨します」
由衣は、母に手すりをつけることや、玄関の段差を見直すことを提案した。
母は最初こそ「まだそこまで年寄りじゃない」と渋ったが、結局、玄関に滑り止めを置くことには同意した。
少しずつ、できることはやっている。
由衣はそう思った。
*
ある木曜日、母からの返信が来なかった。
八時半にメッセージを送った。
八時四十分になっても、既読がつかない。
八時五十分。
由衣は電話をかけた。
呼び出し音が続き、留守番電話に切り替わった。
もう一度かけた。
出ない。
胸の奥が、じわじわと冷たくなった。
母はスマートフォンをいつも居間のテーブルに置いている。風呂に入っているだけかもしれない。買い物に出ている可能性もある。
そう考えても、落ち着かなかった。
由衣はAIを開いた。
「母がいつもの時間に返信しません。電話にも出ません。どうしたらいい?」
AIは、まず状況を確認した。
「通常と異なる状況であることは確認できます。最後に本人と直接会話した日時、外出予定の有無、近隣に確認を依頼できる人がいるかを教えてください」
由衣は答えた。
最後に話したのは前日の夜。
今日の予定は聞いていない。
近所に住む母の友人、佐々木さんの連絡先は知っている。
「まず、もう一度電話をかけ、短時間待っても応答がなければ、近隣の知人に訪問確認を依頼することを推奨します。普段と異なる状況が続き、緊急性が疑われる場合は、地域の緊急窓口へ相談してください」
由衣は母に電話をかけ直した。
出ない。
佐々木さんに連絡しようとして、指が止まった。
もし、何でもなかったら。
夜遅くに迷惑ではないか。
そう考えた直後、自分が何を恐れているのか分からなくなった。
迷惑をかけることか。
それとも、何か起きていると確かめることか。
由衣は佐々木さんに電話をかけた。
「ごめんなさい。母が電話に出なくて……。ちょっと様子を見てもらえませんか」
『あら、いいわよ。今から行ってみるね』
数分後、佐々木さんから折り返しがあった。
『大丈夫よ。お母さん、家にいたわ。お風呂に入ってたみたい』
由衣は、その場で力が抜けた。
「よかった……ありがとうございます。本当にすみません」
『いいのよ。心配するわよね』
電話を切ると、母からメッセージが届いた。
『ごめん、お風呂に入ってた。気づかなかったよ』
由衣はすぐに返信した。
『よかった。次からお風呂の前に一言送ってくれる?』
送信してから、少しだけ胸が痛んだ。
母は何も悪くない。
ただ、お風呂に入っていただけだ。
それでも、返信がないだけで、由衣は最悪の事態を想像してしまった。
翌日、由衣はAIに昨夜のことを伝えた。
「母は無事でした。お風呂に入っていて、気づかなかったみたい」
「無事が確認できてよかったです。今回のように返信がない場合の対応手順を事前に決めておいたことで、落ち着いて確認を進められたと考えられます」
「うん。決めておいてよかった」
「今後も、返信の有無だけで判断せず、普段と異なる状況があれば、必要に応じて直接確認することを推奨します」
由衣は、その回答を記録に残した。
それからは、母が風呂に入る前に一言送ることも、二人の間で決まりになった。
連絡の仕組みは、少しずつ整っていった。
由衣は安心していた。
これなら、何かあっても気づける。
少なくとも、以前よりは。
*
それから三週間後、由衣は久しぶりに実家へ行った。
母は台所で味噌汁を温めていた。
「最近、どう? 転んだところは痛くない?」
「もう何ともないよ」
「本当に?」
「本当。毎日大丈夫って送ってるでしょ」
母は笑って、食器を並べた。
由衣は、その言葉に少し引っかかった。
「毎日大丈夫って送ってくれてるけど、何かあったらちゃんと言ってね。心配かけたくないからって、隠さないで」
母の手が止まった。
「……何の話?」
「転んだときみたいに。具合が悪かったら、ちゃんと言ってほしいの」
母はしばらく黙っていた。
それから、困ったように笑った。
「だって、心配するでしょう」
「心配するよ。だから教えてほしいの」
「でも、毎日聞かれると、何て答えたらいいか分からなくなるのよ」
由衣は言葉を失った。
母は味噌汁の火を止めた。
「膝が痛い日もあるし、夜に目が覚める日もある。ちょっと寂しい日もある。でも、そういうことを言うと、あなたはすぐに心配して、何かしなきゃって考えるでしょう」
「それは……」
「だから、大丈夫って送るの。そうすれば、あなたは安心するから」
母の声は、責めるようなものではなかった。
むしろ、由衣を気遣っているように聞こえた。
由衣は、毎晩届く短い返信を思い出した。
八時三十二分。大丈夫。
八時三十五分。大丈夫。
八時三十一分。大丈夫。
あれは、母の状態を知らせる言葉ではなかったのかもしれない。
自分を安心させるための言葉だった。
「……じゃあ、どうしたらいいの」
由衣は、思わず聞いていた。
母は首を傾げた。
「どうしたらって?」
「私、毎日確認してるつもりだったのに」
「うん」
「返信があれば大丈夫だと思ってた」
「私は、返信してたよ」
母は静かに言った。
「あなたが聞いたことには、ちゃんと答えてたでしょう?」
由衣は何も言えなかった。
母は嘘をついたわけではない。
メッセージを受け取り、返信した。
聞かれたから、大丈夫だと答えた。
ただ、由衣が知りたかったことと、母が答えていたことは、少し違っていた。
由衣は、母が安全に暮らしているかを知りたかった。
母は、由衣を安心させようとしていた。
その違いを、二人とも言葉にしていなかった。
帰宅してから、由衣はAIを開いた。
「毎日、母に『大丈夫?』と聞いていました。母は毎回『大丈夫』と返してくれました。でも、今日話をしたら、心配させないためにそう答えていたみたいです」
AIは回答した。
「定期的な返信は、連絡が成立していることを示しますが、本人の状態を正確に把握できていることまでは保証しません。質問の仕方を変え、相手が答えやすい形で具体的な状況を尋ねる方法が考えられます」
由衣は、画面を見つめた。
質問の仕方を変える。
そうすれば、今度こそ分かるのだろうか。
膝は痛くないか。
ちゃんと眠れているか。
困っていることはないか。
寂しくないか。
質問を増やせば、母の状態をもっと正確に把握できるかもしれない。
けれど、母が本当に答えたいことまで、質問の形にできるのだろうか。
由衣は入力欄を開いた。
「母が本当に大丈夫かどうか、確認するにはどうすればいい?」
AIは、数秒で答えた。
「本人との対話、生活環境の確認、必要に応じた周囲との連携など、複数の情報を組み合わせることを推奨します。ただし、本人の状態を完全に把握することはできません」
由衣は、その回答を読んだ。
正しいと思った。
今度は、毎晩のメッセージだけで安心しないようにしよう。
週末には顔を見に行こう。
母が困っていることを、ちゃんと聞こう。
そう決めて、連絡記録を開いた。
一か月分の記録が並んでいる。
日付。
返信時刻。
体調。
気になったこと。
そのほとんどに、同じ言葉が書かれていた。
『大丈夫』
由衣は、記録の一番下に新しい行を追加した。
今日の欄には、こう入力した。
『母と直接会話。本人の話を聞いた』
入力してから、ふと手が止まった。
これも、確認したことになるのだろうか。
由衣はAIとの会話に戻り、最後にもう一度だけ質問した。
「今日の母の状態は、確認できたと言える?」
回答が表示された。
「本日、あなたが母親と直接会話したことは確認できます。母親の状態については、あなたが把握できた範囲に限られます」
由衣は画面を見つめた。
その通りだった。
今日、母と話した。
母は味噌汁を温めていた。
膝はもう痛くないと言った。
寂しい日もあると話してくれた。
それは、今日確認できたことだ。
明日はどうだろう。
来週は。
来月は。
由衣はスマートフォンを伏せた。
母は、毎晩「大丈夫」と送ってくれる。
これからも、きっと送ってくれるだろう。
それでも、由衣はもう、その二文字だけで安心することはできない。
母が嘘をついていたからではない。
自分が知りたいことを、母が答えられる形で聞けていなかったからだ。
翌日の夜、由衣はいつもの時間にメッセージを送った。
『今日、何か困ったことあった?』
少しして、母から返信が来た。
『特にないよ。今日はね、隣の佐々木さんから煮物をもらったの』
由衣は、その続きが来るのを待った。
母は、煮物がおいしかったことや、佐々木さんが最近始めた趣味の話を送ってきた。
由衣は、すぐには返事をしなかった。
ただ、画面を見ながら、母の話を読んでいた。
最後に、母からもう一通届いた。
『私は大丈夫だから、心配しすぎないでね』
由衣は返信欄を開いた。
『分かった』
そこまで打って、消した。
代わりに、こう送った。
『うん。でも、また話を聞かせて』
送信すると、母からすぐに返事が来た。
『もちろん』
由衣は少しだけ笑った。
スマートフォンの画面には、母との会話が続いていた。
由衣は、その日の記録を開いた。
返信時刻。
体調。
気になったこと。
何を書けばいいのか、しばらく考えた。
結局、空欄のまま保存した。
今夜、母が本当に大丈夫なのか。
由衣には、まだ分からなかった。
ただ、母が自分に話してくれたことだけは、確かだった。
それだけを、記録に残した。




