⑳
夜は更けていた。屋敷の中は静まり返っている。誰もが休んでいる時間だった。だがエリアスだけは違った。彼はリディアの部屋で一人、机に向かって座っていた。目の前には開かれた日記がある。何度も読んだ。それでも手を止められない。閉じてしまえば、本当に彼女がいなくなってしまう気がした。
『エリアスが幸せでありますように』
最後のページに書かれたその言葉を指でなぞる。涙で滲んだ文字だった。リディアがどんな気持ちで書いたのか想像するだけで胸が苦しくなる。
「俺は…」
掠れた声が漏れた。
「何をしていたんだ」
返事はない。当然だった。もう誰も答えてくれない。暖炉の火は消えかけている。部屋は少し冷えていた。だがエリアスは動かなかった。動けなかった。
最初のページに戻る。そこには幸せだった頃の記録が残されていた。
『今日はエリアスと市場へ行った』
『パン屋の新作を買って二人で食べた』
『美味しいと笑っていた』
たったそれだけの内容なのに、胸が締め付けられる。そんな日があった。確かにあった。何でもない一日だった。だが今となっては何よりも尊い。
『仕事で疲れているのに花を買ってきてくれた』
『本当に優しい人』
エリアスは目を閉じた。思い出す、あの日のことを。任務続きで疲れていた。花屋の前を通った時、リディアが好きだと言っていた白い花を見つけた。何となく買っただけだった。それなのに彼女は驚くほど喜んでくれた。まるで宝物を貰った子供のように笑っていた。その笑顔が好きだった。誰よりも。ページをめくる。
『エリアスが怪我をしたと聞いて怖かった』
『無事でよかった』
『本当に良かった』
文字が少し乱れている。泣きながら書いたのだろう。エリアスは拳を握る。自分は知らなかった。彼女がどれほど心配していたのか。どれほど大切に思ってくれていたのか。いや、知っていたはずなのだ。ただ当たり前になっていただけだった。愛されていることが。隣にいてくれることが。いなくなるはずがないと思い込んでいただけだった。
「団長」
不意に声がした。振り返るとルークが立っていた。いつからそこにいたのか分からない。
「まだ起きていたんですか」
エリアスは答えない。ルークは部屋に入り、机の上の日記へ目を向けた。そして全てを察したようだった。
「奥様の本心をやっと見つけたんですね」
エリアスは小さく頷く。ルークもそれ以上は聞かなかった。しばらく沈黙が続く。やがてエリアスが呟いた。
「俺は最低だ」
ルークは何も言わない。
「あいつは最後まで信じていた」
震える声だった。
「最後まで愛してくれていた。いまでも愛していると書いていた」
「…」
「なのに俺は」
言葉が続かない。
「団長、後悔しているんですね」
「当たり前だろう」
エリアスは笑った。酷く歪な笑みだった。
「こんなもの」
日記を握り締める。
「読まなくても分かるべきだった。信じるべきだった。守るべきだった」
声が掠れる。
「なのに俺は何をしていた」
ルークは返す言葉を持たなかった。その後しばらくして部屋を出ていった。残されたエリアスは再びページをめくる。すると日記の裏表紙に何か挟まっていることに気付いた。一枚の紙だった。折り畳まれている。見覚えはない。ゆっくり開く。そこには見慣れた文字が並んでいた。リディアの字だ。だが日記とは違う。誰かに宛てた手紙だった。
『もしあなたがこれを読む頃には』
その一文から始まっていた。エリアスの呼吸が止まる。続きを読む。
『私は少し遠くへ行っていると思います』
胸がざわつく。
『ごめんなさい』
また謝罪だった。どうして謝る。謝るべきなのは自分なのに。
『本当は話し合いたかった』
エリアスは目を閉じる。
『本当はちゃんと伝えたかった』
震える指で紙を握る。
『でも今のままでは、お互い傷つけ合うだけな気がしました』
涙が落ちる。紙に染みを作る。
『だから少しだけ離れます』
その先を読むのが怖かった。それでも目を逸らせない。
『私はあなたを恨んでいません』
胸が痛む。
『苦しかったけれど、今でもあなたを思うと苦しいです』
『だけど嫌いになんてなるわけがないんです』
エリアスは唇を噛んだ。血の味がする。
『昔も今も、あなたが好きです』
視界が滲む。
『あなたと過ごした日々は私の宝物です』
涙が止まらない。
『だからどうか、自分を責めすぎないでください』
その一文を読んだ瞬間、エリアスは笑った。泣きながら。どうしてそんなことを書ける。傷つけられた側なのに。疑われた側なのに。最後まで自分の心配をしている。
「馬鹿だ」
掠れた声だった。
「本当に馬鹿だ」
優しすぎる。だから苦しかった。だから後悔する。もし憎まれていたならまだ楽だった。恨まれていたなら諦められたかもしれない。だが違う。彼女は最後まで愛していた。だからこそ許されない。自分自身が。夜が明け始める。窓の外が少しずつ白んでいく。エリアスは立ち上がった。日記を胸に抱える。
「団長!」
廊下からルークの声が聞こえた。駆け込んでくる。
「どちらへ」
「探しに行く」
エリアスは即答した。
「今からですか」
「当たり前だ」
ルークは目を見開く。
「手掛かりもないんですよ」
「構わない」
エリアスは答える。
「世界の果てだろうが探す」
迷いはなかった。ルークはしばらく黙っていた。そして小さく笑う。
「そう言うと思いました」
エリアスは外へ向かう。馬の準備を命じる。使用人たちも慌てて動き出す。誰も止めなかった。止められなかった。彼の顔を見れば分かったからだ。今のエリアスは何があっても止まらない。愛する人を取り戻すまで。あるいは二度と会えないと確信するまで。そしてその頃、遠く離れた地方の小さな町では、リディアが宿の窓から朝日を見ていた。昨夜はほとんど眠れなかった。胸が痛い。寂しい。苦しい。それでも戻れない。戻ってしまえばまたお互い傷つき、苦しむだけだ。だから離れた。エリアスが自分のことで苦しんでいる事がなにより辛かった。自分なりに考えた結果だが心は納得していない。窓の外を見ながら小さく呟く。
「会いたいな」
その声は誰にも届かない。愛している。今でも。離れていても。嫌いになれなくても。そんな二人の想いは、ようやく同じ方向を向き始めていた。




