㉑
夜明け前、エリアスは王都を出発した。空はまだ暗く、街道には薄い霧が立ち込めている。馬の蹄の音だけが静かに響いていた。
ルークを含む数名の騎士が同行しているが、誰も口を開かなかった。エリアスの表情を見れば分かる。今の彼に慰めの言葉など意味がない。彼の頭の中にあるのはただ一つだった。リディアを見つけること、ただそれだけ。胸元には日記がある。まるでそれだけがリディアと繋がる最後の証であるかのように。
「南の街道沿いにある宿場町は全て調べます」
ルークが馬を並べながら言った。
「ああ」
「それから王都周辺の領主にも協力を依頼しました」
「ああ」
空返事だった。ルークは小さく息を吐く。エリアスはずっと前を見ている。その視線の先にはリディアしかいない。
昼頃、一行は最初の宿場町へ到着した。人通りはそれなりに多い。商人や旅人が行き交っている。エリアスは馬を降りるなり聞き込みを始めた。
「この女性を見なかったか」
リディアの肖像画を見せる。だが誰も首を振るばかりだった。
「知らないな」
「見てない」
「分からない」
そんな返事ばかりだった。宿屋も回った。馬車屋も回った。市場も回った。だが成果はない。夕方になる頃にはルークたちの顔にも疲労が見え始めていた。それでもエリアスだけは止まらない。夜になっても探し続けた。
「団長、もう遅いですよ」
「まだだ」
「ですが」
「まだ探していない場所がある」
その声には異様な執念が滲んでいた。見ていられなかった。本当に壊れてしまいそうだった。その夜、ようやく宿へ戻った時には深夜になっていた。エリアスは部屋に入るなり椅子へ腰を下ろす。そして日記を取り出した。もう何度読んだか分からない。それでも開いてしまう。そこにリディアがいる気がするからだ。
『今日もエリアスは忙しそうだった』
『無理をしていないか心配』
エリアスは目を閉じる。彼女はいつもそうだった。自分より他人を優先する。自分よりエリアスを優先する。だからこそ傷付いたのだ。もっと早く気付くべきだった。もっと守るべきだった。
「団長」
不意にノックが響く。
「入れ」
ルークが入ってきた。
「少し休んでください」
「休めると思うか」
ルークは黙った。
「団長」
やがて静かに言う。
「奥様は見つかります」
「……」
「だから今は休んでください」
「無理だ」
「何故です」
「俺は」
少しだけ笑う。その笑みは痛々しかった。
「見つければ終わりじゃない」
ルークは何も言わない。
「許されないんだ」
エリアスは視線を落とす。
「見つけても、俺がしたことは消えない」
その言葉に返答できなかった。その通りだったからだ。だが、そんなことを言ったところで何も解決はしない。エリアスは見つけた後どうするつもりなんだろうかとルークは考えていた。
翌日、一行はさらに南へ向かった。その頃リディアは別の町へ到着していた。東部にある小さな街だった。王都ほど栄えてはいないが、人々は穏やかで温かい。彼女は宿を借り、目立たないように転々としていた。だが心は少しも落ち着かない。市場へ行けばエリアスを思い出す。本を見ればエリアスを思い出す。花を見ればエリアスを思い出す。何をしても彼がいる。
「駄目ね…。人のあまりいないところに行かないと思い出してしまうわ」
思わず苦笑する。離れたのに忘れられない。むしろ離れたことで余計に存在が大きくなっていた。その日の夕方だった。リディアが宿へ戻ろうとした時、一人の少年が走ってきた。
「お姉さん!」
「どうしたの?」
「これ落とした?」
差し出されたのは小さな花だった。私が好きだと言った花だった。何度もエリアスが花束で贈ってくれた1番大好きな花。胸が痛む。
「ありがとう」
少年は笑顔で去っていった。リディアはその場で立ち尽くす。何故こんな時に。忘れようとしているわけではない。だが思い出すたび苦しくなる。宿の部屋でその花を眺めながら涙を流した。
同じ頃、エリアスたちは南部にある町へ到着していた。そこで初めて有力な情報を得る。
「ああ、この女性なら見たよ」
行商人が言った。エリアスの心臓が跳ねる。
「本当か」
「数日前にな。遠くへ行くというから街まで乗せていってやったんだ」
「どこへ行くか話していたか?」
「東の町へ向かうと言っていたはずだ」
エリアスは息を呑む。生きている。当たり前のことなのに安心した。
「団長」
ルークも表情を明るくする。
「追い付きましょう」
エリアスは強く頷いた。その日のうちに出発しようとした。しかし運命は残酷だった。町を出ようとした瞬間、一人の騎士が血相を変えて駆け込んできた。
「団長!」
嫌な予感がした。
「何だ」
「王都から急報です!「国境付近で反乱軍が蜂起しました!」
騎士が息を切らしながら報告する。その場の空気が凍った。
「規模は」
「6000との報告です!」
ルークが顔をしかめる。
「そんな馬鹿な」
エリアスも理解していた。この規模なら放置できない。自分はこの国を守る騎士だ。国を守る責任がある。
「団長…」
ルークが言葉を失う。エリアスは目を閉じた。ようやく手掛かりを掴んだ。あと少しで会えたかもしれない。だが今ここで向かわなければ、多くの命が失われる。騎士団長としての責任と、一人の夫としての願い。そのどちらかを選ばなければならない。
「くそっ…!」
拳を叩き付ける。ルークも見ていられなかった。やっと情報を得て、追いつけるかもしれないと言う時にあまりにも残酷だった。
そしてその時、遠く離れた場所でレオンが笑っていた。
「そうか」
酒を飲みながら呟く。
「反乱が起きたか」
偶然ではなかった。全て彼が仕組んだものだった。軍の一部を買収し、情報を流し、反乱を煽った。目的は一つ。エリアスをリディアから遠ざけること。
「あと少しだ」
レオンは窓の外を見る。
「もうすぐ完全に壊れる」
そう言ってレオンは笑っていた。




