⑲
リディアが屋敷を去った翌日、エリアスは一睡もできないまま朝を迎えた。窓の外が明るくなっても、彼は机の前に座ったままだった。昨夜から何度も読み返した手紙がそこにある。
『少しだけ離れます』
『探さないでください』
その文字を見るたびに胸が締め付けられた。探さないでほしいなど無理だった。愛する妻が突然姿を消したのだ。しかも最後に残された言葉は謝罪だった。謝るべきなのは自分の方なのに。エリアスは拳を握る。昨夜のうちに捜索隊を出した。王都の門番にも確認した。だが成果はなかった。リディアはまるで最初から存在しなかったかのように姿を消していた。
「団長」
ルークが静かに部屋へ入ってくる。彼も昨夜からほとんど休んでいないのだろう。
「見つかったか」
エリアスは振り返りもしない。
「まだです」
予想通りの答えだった。ルークは続ける。
「南門から出た女性の目撃情報があります」
「リディアか」
「断定はできません」
エリアスは立ち上がった。
「行くぞ」
「団長」
「今すぐだ」
ルークは止めなかった。その目を見れば分かったからだ。止めても無駄だと。エリアスは馬に飛び乗る。南へ向かう街道を駆けた。風が顔を打つ。だがそんなものは感じなかった。頭の中にはリディアしかいない。
結婚してからの記憶が次々と浮かぶ。初めて出会った日のこと。婚約した日のこと。結婚式の日。彼女が泣きながら笑っていた顔。全部覚えている。全部愛しい。なのに何故あんなことになったのか。何故もっと早く謝れなかったのか。何故信じ切れなかったのか。その答えは分かっていた。
自分の弱さだ。不安に負けた。恐怖に負けた。愛しているからこそ疑ってしまった。だがそれは言い訳にしかならない。
夕方になってもリディアは見つからなかった。宿屋を回り、目撃者を探し、馬を走らせ続けた。それでも何も掴めない。ルークが声を掛ける。
「一度戻りましょう」
「戻る?」
エリアスは睨む。
「戻って何になる」
「団長、このままでは倒れます」
「構わない」
掠れた声だった。
「見つかるまで探す」
ルークは黙るしかなかった。
その夜、屋敷へ戻ったエリアスは真っ直ぐリディアの部屋へ向かった。部屋は静かだった。主のいない空間は妙に広く感じる。机の上には花瓶が置かれている。窓辺には本が数冊並んでいる。何も変わっていない。だがリディアだけがいない。エリアスはゆっくりと椅子へ座った。
そこで初めて気付く。引き出しの奥に一冊の小さな帳面があることに。それは日記ではなかった。ただの覚え書きのようなものだった。開くつもりはなかった。だが何かに引かれるように手を伸ばす。最初のページには、数年前の日付が書かれていた。
『今日、エリアスが花を贈ってくれた。忙しいはずなのに覚えていてくれたことが嬉しい』
エリアスは息を止めた。ページをめくる。
『戦地へ向かう前の日、一緒に夕食を食べた。帰ったら同じ料理を作ってあげようと思う』
次のページ。
『エリアスは本当に優しい。時々自分にはもったいないと思うくらいに』
その一文を見た瞬間、胸が痛んだ。読み進めるたび苦しくなる。そこにはずっと自分がいた。リディアの世界の中心にはいつもエリアスがいた。何年経っても変わらずに。そして最近の日付へ近付く。文字が少しずつ減っていく。文章も短くなっていく。
『最近、変な噂を聞く』
『信じない。だってエリアスだから』
『少しだけ不安になった。でも信じる』
『手紙が減った。忙しいだけだと思うことにする』
エリアスの手が震え始める。ページをめくる。
『今日もまた噂を聞いた』
『苦しい』
『でも信じる』
次のページ。
『髪飾りが見つからない』
『彼が私のために選んでくれた物だったのに』
『怒られるかもしれないと少し思った』
『でもエリアスはそんな人じゃない』
エリアスは目を閉じた。呼吸が苦しい。さらにページをめくる。
『帰ってきたら全部話そう』
『会えばきっと大丈夫』
文字が滲んでいる。涙の跡だった。そして最後の方のページ。そこには見覚えのある日付があった。帰還した日の夜だ。
『帰ってきてくれた』
その一文から始まっていた。
『会えて嬉しかった』
『怪我もなく無事で生きていてくれて本当によかった』
『でも少しだけ怖かった』
『エリアスの目が前と違った気がした』
胸が締め付けられる。ページをめくる。
『信じてほしい』
『どうして届かないんだろう』
『私はあなたしか愛していないのに』
涙で文字が滲んでいた。インクが掠れている。何度も泣きながら書いたのだろう。そして最後のページ。そこにはこう書かれていた。
『それでも愛している』
エリアスの手が止まる。
『昔も今も変わらない』
『もし離れることになっても』
『私はきっとあなたを愛したままだと思う』
視界が歪んだ。涙だった。気付いた時には頬を伝っていた。
『だから苦しい』
『あなたを嫌いになれたら楽なのに』
『嫌いになんてなれるはずがない』
文字が震えている。
『エリアスが幸せでありますように』
そこで終わっていた。エリアスはしばらく動けなかった。頭が真っ白だった。何も言えない。何も考えられない。ただ胸だけが痛かった。痛くて痛くて仕方なかった。リディアは最後まで愛していた。疑っていなかった。恨んでもいなかった。苦しみながらも、自分を想い続けていた。なのに自分は何をした。疑っただけじゃない。酷い言い方をして傷付けた。信じることが出来なかった。
エリアスは顔を覆った。嗚咽が漏れる。戦場で仲間を失った時ですら泣かなかった男が、声を上げて泣いていた。
「リディア…」
掠れた声だった。
「リディア…」
何度呼んでも返事はない。当たり前だ。もうここにはいない。ようやく気付いたのだ。彼女がどれほど自分を愛していたのか。どれほど信じていたのか。だが全てが遅かった。あまりにも遅すぎた。
その頃、遠く離れた街道では、一台の馬車が夜道を進んでいた。その中でリディアは窓の外を見つめている。目は赤く腫れていた。それでも泣くのをやめた。もう決めたからだ。エリアスを嫌いになれない。だからこそ離れるしかない。このまま一緒にいれば、お互いもっと傷ついてしまう。
同じ屋敷に住んで、誰よりも愛していたはずなのにいつの間にこんなに距離が出来てしまったのだろうか。




