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あなたが愛した私はもういません  作者: 御伽噺


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18/26

夜も更けった頃、リディアの心は少しも穏やかではなかった。鏡に映る自分の顔は青白く、目は赤く腫れていた。机の上には昨夜届いた手紙が置かれている。何度も読んだ。何度も読み返した。そして読むたびに胸が痛んだ。


『少し距離を置きたい』


その言葉が頭から離れない。本当にエリアスが書いたものなのか分からない。けれど今の彼なら言いそうだと思ってしまう自分がいた。それが何より悲しかった。かつてのエリアスなら絶対に言わなかった。どんな時でも隣にいてくれた。自分を信じてくれた。だが今は違う。何を言っても疑われる。何を説明しても届かない。愛しているのに届かない。リディアは目を閉じた。涙が一滴だけ零れ落ちる。


「奥様」


ノックの音と共にマーサが入ってきた。


「夜食を食べられませんか?」


リディアは小さく首を振る。


「いいえ、大丈夫よ」


「ですが」


「食欲がないの」


マーサは心配そうな顔をする。


「お顔の色も悪いです。夕食も食べられなかったではありませんか。少しは食べた方が…」


「大丈夫よ」


そう言った声には全く力がなかった。マーサはしばらく迷っていたが、やがて静かに言った。


「旦那様もあまり召し上がっていません」


「…そう」


リディアは視線を落とす。エリアスも苦しんでいるのだろう。分かっている。だから責められない。だが自分も限界だった。


マーサが部屋を出た後、リディアは窓辺へ歩いた。庭を見下ろす。結婚してから何度もエリアスと歩いた庭だった。春には花を見て、夏には木陰で休み、秋には落ち葉を踏みながら散歩した。冬には雪を見ながら温かい紅茶を飲んだ。思い出ばかりだった。間違いなく幸せだった。だからこそ苦しい。失いたくなかった。けれど今のままでは少しずつ壊れていく。そんな予感がしていた。



その頃、執務室ではエリアスが書類を睨みつけていた。しかし内容は一文字も頭に入っていない。昨夜の手紙が頭から離れない。


『私はもう疲れてしまいました』


その一文が何度も脳裏をよぎる。リディアがそんなことを思うほど自分は彼女を傷付けていたのか。そう考えるたび胸が締め付けられる。


「団長」


ルークが書類を持って入ってきた。


「何だ」


「もう限界でしょう」


エリアスは眉をひそめた。


「何の話だ」


「奥様です」


ルークはため息を吐く。


「謝ってください」


「…」


「今すぐです」


エリアスは黙る。


「団長!」


「分かっている」


掠れた声だった。


「分かっているんだ」


謝らなければならない、話をしなければならない。それは分かっている。だが怖かった。もしリディアが本当に離れたいと思っていたら。もしもう手遅れだったら。その恐怖が足を止めていた。ルークは呆れたように言う。


「戦場では死ぬのが怖くなかったくせに」


「あれとは違う」


「同じです」


即答だった。


「本当に大事なものを失う方が怖いでしょう。失ってからじゃ何もかも手遅れなんですよ」


エリアスは何も言えなかった。その通りだったからだ。


一方、リディアは机に向かっていた。白紙の便箋を前にしている。何時間も前からそこに座っていた。ようやくペンを取る。震える手で文字を書く。


『マーサへ』


それは手紙だった。長年仕えてくれた侍女への感謝を書いた。次に屋敷の執事へ。料理長へ。庭師へ。使用人たち一人一人への手紙を書いていく。感謝の言葉ばかりだった。最後に新しい便箋を取り出す。しばらく見つめる。そしてゆっくりと書き始めた。


『エリアスへ』


ペン先が止まる。涙が落ちる。文字が滲んだ。それでも愛していること綴った。今でも誰より大切に思っていること、恨んでいないこと、信じたかったこと、あなたに信じてほしかったこと。たくさんの言葉を書いた。しかし途中で手が止まる。違う、こんな手紙を残したいわけじゃない。本当は直接言いたい。笑って話したい。昔みたいに。リディアは手紙を握り締めた。涙が止まらない。




日が落ちた頃、エリアスはようやく決意した。もう逃げるのはやめて今夜こそリディアと話そう。全部思いを話して謝ろう。そう決めて立ち上がった。その時だった。廊下の向こうからマーサが慌てて走ってくる。


「旦那様!」


ただならぬ様子だった。エリアスの胸が嫌な音を立てる。


「どうした」


「奥様が…」


息を切らしながら言う。


「奥様がいらっしゃいません」


空気が止まった。


「何だと」


マーサは青ざめていた。


「部屋にもいません」


「庭にもいません」


「馬小屋にも」


エリアスは走り出した。リディアの部屋へ向かう。扉を開けても誰もいない。机の上には数通の手紙が置かれていた。嫌な予感がする。心臓が激しく脈打つ。引き出しは開いている。衣装棚も空いている。旅行用の鞄もなくなっていた。


「リディア…」


掠れた声が漏れる。マーサが泣きそうな顔で言う。


「ここ最近ずっと様子がおかしかったんです」


「どうして言わなかった!」


思わず怒鳴る。マーサは肩を震わせた。エリアスはすぐに後悔した。悪いのは彼女ではない。悪いのは自分だ。部屋を見回す。机の上に封筒が一つだけ残っていた。表には自分の名前が書かれている。エリアスの手が震えた。封を開く。中の便箋を広げる。そこにあったのは見慣れた文字だった。リディアの文字だった。


『ごめんなさい』


その一文を見た瞬間、胸が潰れそうになる。続きを読む。


『少しだけ一人になりたいのです』


『今のままではあなたを傷付けてしまう気がします』


『だから少しだけ離れます』


エリアスの呼吸が乱れる。


『探さないでください』


その文字を見た瞬間、手紙が震えた。マーサに落ち着くよう促され、我に返った。


「馬を用意しろ、今すぐだ!」


使用人たちが慌てて動き出す。しかしその時にはもう夕暮れだった。王都の門は閉まり始めている。どこへ向かったのかも分からない。何も分からない。ただ一つだけ分かることがあった。リディアは本当にいなくなったのだ。エリアスは立ち尽くす。ようやく話そうと思っていた、ようやく謝ろうと思った。だが遅かったのだ。何もかも遅かった。窓の外では夕日が沈んでいく。その赤い光が部屋を染めていた。まるで何かの終わりを告げるように。

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