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居場所



落ち着かなかった。


理由は、分かっているようで、分かっていない。


ただ、身体の奥に、引っかかるものが残っていた。


夕飯は取らなかった。


ミソノには「いらねぇ」とだけ言って、さっさと宿を出た。


腹が減っていないわけじゃない。


けれど、食べる気になれなかった。


あの部屋に、戻る気にも。


「……」


西区の夜は、すでに出来上がっていた。


昼間の澄んだ空気は跡形もなく、

湿った熱と、重たい匂いが、通りに沈んでいる。


酒の匂い。

焼けた油。

香水と、煙草と、それに混ざる甘ったるい何か。


それらが絡み合って、呼吸するたびに肺にまとわりつく。


遠くで、笑い声が弾ける。


高い声と、低い声が混ざり合い、

どこかで何かが割れる音が、それに重なる。


「……」


ライゾーは、その中を歩く。


行き先は決めていない。


ただ、足が向くままに、路地を曲がる。


見慣れた通り。


見慣れた顔。


それでも、どこか落ち着かない。


足取りだけが、わずかに乱れている。


やがて、歓楽街のさらに奥。


表通りから外れた、裏の飲み屋が並ぶ一角に出る。


灯りは弱く、赤く、くすんでいる。


簡素な机と椅子が、店の外にまで並べられていた。


そのひとつに、見覚えのある姿がある。


「――ライゾーじゃん」


ヒエンだった。


椅子にだらしなく腰を下ろし、片手に酒を持っている。


その両脇には、女が二人。


どちらも、この辺りでよく見かける顔だった。


「飲んでけよ〜」


軽く手を振る。


「今日は店主の奢りらしいからさ〜。ほら、こういうとこちゃんと分かってる店は、気が利くわけよ。な?」


ちら、と女たちに視線を流す。


少しだけ胸を張る仕草。


小さな自慢。


「……」


ライゾーは、それを一瞥してから、視線を外す。


「……気分じゃねぇんだよ」


短く、吐き捨てるように言う。


歩みは止めない。


「え〜、つれねぇなぁ」


ヒエンが笑う。


その隣で、女のひとりが身を乗り出す。


「ライゾーぉ。いいじゃない」


甘ったるい声。


距離が近い。


もう一人も、くすくすと笑いながら続ける。


「そういえばさぁ、ライゾー」


視線が、わずかに上がる。


「お気に入りの女、できたんだってぇ?」


声の最後が、わざとらしく跳ねる。


「キャッ……」


軽い笑い。


からかうような、柔らかい刃。


「……」


ライゾーの足が、止まる。


ほんの一瞬。


振り返りはしない。


「そんなんじゃねぇよ」


低く、抑えた声。


それだけで、空気がわずかに沈む。


間を置かず、続ける。


「あと、気安く俺の周り嗅ぎ回るなよ」


言い方は変わらない。


荒くもない。


けれど、温度が落ちていた。


女のひとりが、わずかに言葉を失う。


笑いが、少しだけ引く。


空気が、ぴり、と張る。


「お、おいおい、そんな怒んなって〜」


ヒエンが慌てて間に入る。


手をひらひらさせながら、笑いを作る。


「こいつさ、今ちょっと機嫌悪ぃだけだから。な?ほら、気にすんなって」


軽く肩をすくめて、場を戻そうとする。


「な、ライゾーも一杯くらい付き合えって。どうせ用事なんてないんだろ?」


視線を向ける。


軽い。


けれど、どこか様子を探るような目。


「……」


ライゾーは、何も言わない。


ただ、そこに立ったまま。


夜の匂いが、まとわりつく。


さっきまで“普通だったはずの場所”が、少しだけ遠く感じる。


「……」


わずかに、息を吐く。


まだ、自分でも分からないまま。


何が引っかかっているのかも、

何に苛立っているのかも。


ただ。


ここも落ち着けないということだけは、

はっきりしていた。



「……ちっ。じゃあ一杯だけな」


短く吐き捨てる。


それだけで、女たちの顔がぱっと明るくなる。


「やったぁ、ライゾー飲むってぇ」


「ほらやっぱり〜、素直じゃないんだから」


肩に触れようとする手を、軽く払う。


強くはない。


けれど、距離は保つ。


「一杯だけだからな」


念を押すように言う。


ヒエンがにやにやと笑う。


「はいはい、わかってますって」


杯が差し出される。


安い酒の匂いが、鼻を刺す。


一口、飲む。


不味い。


いつもと同じ味のはずなのに、やけに舌に残る。


「でさぁ、聞いてよライゾー」


女のひとりが身を乗り出す。


「昨日さ、あの通りの奥で揉めててさぁ――」


話が続く。


金になる話だ。


誰が、どこで、何をやったか。


どの店が揉めて、どこをゆすれば得か。


いつもなら、聞く。


拾う。


繋げる。


「……」


今回は、頭に入ってこない。


言葉が、音のまま流れていく。


意味にならない。


もう一人の女が、くすっと笑う。


「それよりさ、さっきの話だけどぉ」


また、あの話題。


「その子、どんな子なの?」


「別に」


反射で返す。


短い。


それ以上、続かない。


「冷た〜い」


「気になるじゃん」


声が重なる。


ヒエンが横から口を挟む。


「お前らほんとそういうの好きだよな〜」


笑いながら、酒をあおる。


「でもまぁ、あいつが女なんて拾うの珍しいしな?」


軽い調子。


探るような目。


「……」


ライゾーは、答えない。


杯を傾ける。


もう半分以上、減っている。


喉を通る感覚だけが、やけに鮮明だった。


「――でさ、その店のオヤジがさぁ」


話はまた戻る。


裏の話。


金の匂い。


縄張りの流れ。


「……」


全部、どうでもいい。


そう思った瞬間、自分で少しだけ引っかかる。


どうでもいいはずがない。


それで生きてきた。


それしか、知らない。


「……」


それでも。


入ってこない。


視線だけが、宙を彷徨う。


灯りの揺れ。


煙の流れ。


誰かの笑い声。


全部が、遠い。


「おい、ライゾー?」


ヒエンの声。


「……あ?」


遅れて、返す。


「大丈夫かお前」


少しだけ、顔を覗き込まれる。


「さっきから全然話聞いてねぇだろ」


「……別に」


短く返す。


それ以上は言わない。


「……」


ヒエンが、わずかに眉をひそめる。


けれど、すぐに笑ってごまかす。


「まぁいいけどさ」


場を崩さないように、軽く肩をすくめる。


「――っと」


ライゾーが、立ち上がる。


椅子が、ぎし、と鳴る。


「おい、もう帰るのかよ」


ヒエンが言う。


「約束の一杯だ」


ライゾーは、振り返らずに言う。


「店のオヤジに渡しとけよ」


ポケットから金を出す。


自分の分だけ。


それを、テーブルに乱暴に置く。


乾いた音が鳴る。


「おいおい、そんな――」


ヒエンが何か言いかける。


その前に。


ライゾーは、もう背を向けていた。


「……」


夜の路地に、戻る。


誰も追わない。


追えない。


そのまま、姿は闇に溶けていく。


「……あちゃ〜」


ヒエンが、頭をかく。


「ありゃ重症だわ」


軽く笑う。


けれど、その目は少しだけ真面目だった。


「いつもの“考え込みモード”なんだけどさ」


杯を回しながら、ぼそっと続ける。


「なんか……それにしちゃ温度違くねぇか?」


誰に向けたわけでもない。


答えもない。


ただ、違和感だけが残る。



朝になっていた。


正確には、まだ陽が出る前。


街が、一番荒れている時間。


夜の熱が残り、

理性だけが削げ落ちたような空気。


「……」


ライゾーは歩く。


どこにも、落ち着けなかった。


飲み屋も。


路地も。


全部、違う。


ここは自分の庭のはずなのに。


「……なんかイライラしやがる」


吐き捨てる。


気づけば、見慣れない通り。


空気が違う。


「あ?」


立ち止まる。


東側。


縄張りの外だった。


「……ちっ」


戻ろうとする。


その瞬間。


「おいテメー」


後ろから声。


振り返る。


「んだよ、ライゾーじゃねぇか」


男たち。


その奥。


レニー。


子分を引き連れたまま、笑っている。


「珍しいなぁ」


「散歩か?」


「……」


ライゾーは答えない。


状況は分かっている。


縄張りまたぎは御法度。


「おいおい、無視かよ」


後ろから、強く押される。


前に崩れる。


横から蹴り。


腹に入る。


息が詰まる。


「よそ見してんじゃねぇぞ」


硬い何かが、頭に当たる。


ぐらり、と視界が揺れる。


音が遠くなる。


「……」


殴られる。


蹴られる。


押される。


連続して。


容赦なく。


やり返せる。


簡単に。


それでも。


動かない。


手を出さない。


歯を食いしばる。


ただ、受ける。


「ほらどうしたよ」


レニーが笑う。


「やり返せねぇよなぁ?」


近づいてくる。


「やり返すならなぁ――」


言葉が続く。


聞こえている。


けれど、もう意味はない。


「……」


ライゾーは、ゆっくりと顔を上げる。


血が、口の端から垂れる。


目だけが、真っ直ぐにレニーを捉える。


逸らさない。


揺れない。


ただ、見る。


その視線だけで。


空気が、変わる。


「……」


レニーの口が、わずかに止まる。


子分たちも、一瞬だけ動きを止める。


殴る手が、鈍る。


「……ちっ」


レニーが舌打ちする。


「やめろ」


短く言う。


子分たちが、手を止める。


「……つまんねぇな」


吐き捨てる。


「その顔のまま、帰れ」


笑う。


けれど、どこか苛立っている。


「……」


ライゾーは何も言わない。


口の中の血を、吐き出す。


ぺっ、と。


そのまま、背を向ける。


足取りは、わずかに重い。


それでも、止まらない。


東区を抜けて西へ。


空が、少しずつ白んでいく。


朝が来る。


けれど。


「……」


まだ。


どこにも、戻れていなかった。




宿に戻ってきた頃には、すっかり朝になっていた。


さっきまでの空気とは、まるで別物だった。


夜の湿り気も、酒と血の匂いも、どこかへ押し流されている。


澄んだ空気。


冷えた朝の風が、頬の傷にしみる。


通りにはすでに人が出ていた。


荷を運ぶ者。


声を張る商人。


火を起こし始める店。


眠っていた街が、ゆっくりと目を覚ましていく。


西区の“朝の顔”。


それは、夜とはまるで違う世界だった。


「……」


ライゾーは、その中を無言で歩く。


そして、見慣れた扉の前で立ち止まる。


ギィ、と。


軋む音を立てて押し開けた。


中に入ると、いつもの匂い。


パンを焼く香ばしさと、油の気配。


落ち着くはずの場所。


なのに、どこか噛み合わない。


そのままカウンターへ向かう。


一番奥。


いつもの席に、腰を下ろす。


「……」


背中の痛みが、遅れてじわじわと来る。


「……あんたまたどっかで揉め事起こしたのかい?」


ミソノの声。


呆れと、少しの怒気。


「傷だらけじゃないか。顔洗ってきな、メシはその後だよ」


「へいへい……っと」


気のない返事をして、立ち上がる。


そのまま奥へ向かおうとして――


「……」


床を掃いていた影と、ぶつかりそうになる。


アネモネだった。


ほうきを持ったまま、ぴたりと動きを止める。


一瞬、目が合う。


そして、にこっと笑う。


「おはようございます、ライゾーさん」


いつもの、柔らかい声。


そのまま――


ライゾーの顔を見て、止まる。


笑顔が、固まる。


目が見開かれていく。


口元に手を当てる。


言葉が、出てこない。


“強い人”だったはずの男が、


ボロ雑巾みたいになって戻ってきた。


何があったのか。


どうしてこうなったのか。


聞きたい。


でも、聞けない。


「……」


その全部が、顔に出ていた。


ライゾーは、視線を外す。


「ああ、おはよう」


短く返す。


「……あのさ、どいてくんね?」


少しだけ顎で示す。


「顔洗いてぇんだけど」


「あ……ご、ごめんなさい」


慌てて道を空ける。


その横を通り過ぎる。


少しだけ、足音が響いた。



顔を洗う。


冷たい水が、傷に触れる。


じん、と痛みが走る。


血が薄まって、流れていく。


「……」


鏡は見ない。


そのまま、水を切る。


カウンターへ戻る。


同じ席に、再び座る。


「ミソノさん」


声をかける。


「いつものホットサンドちょうだい。マヨはたっぷり、ベーコンとケチャップも入れて」


「……はいよ」


短く返す。


振り向かない。


コンロの方へ消えていく。


その背中が、少しだけ重い。


「……」


ふと、気配を感じる。


振り向く。


アネモネが立っていた。


少し距離を取って。


その手には、着替えと、濡れたタオル。


「……あの、これ……」


おずおずと差し出す。


「使ってください。着替えも……した方が……」


視線が泳ぐ。


けれど、逃げない。


「……ああ、わりぃ」


受け取る。


アネモネが、少しだけ息を吐く。


「……あの……ケガ、大丈夫……ですか」


恐る恐る。


それでも、ちゃんと聞いた。


その瞬間。


ライゾーの目が、鋭くなる。


ギロ、と一瞬だけ睨む。


しかし、すぐに手元へ視線を戻す。



「……」


空気が、ぴりつく。


それでも、アネモネは逃げない。


「……」


沈黙が落ちる。


先に口を開いたのは、ライゾーだった。


「あのさ」


低い声。


「お前、歳上だろ」


「えっ……?」


面食らった顔。


「……??今年、十八になりました」


戸惑いながら答える。


「歳上だよ。俺は十六」


淡々と続ける。


「お前さ、そのオドオドしてるのやめろよ」


少しだけ、苛立ちが混じる。


「舐められるぞ」


「……すみません」


反射的に出た言葉。


その瞬間。


「ちっ!!それだよ、その態度が――」


バシン!!


乾いた音が、店内に響く。


ライゾーの頬が弾かれる。


口の中の傷が、開く。


鉄の味が戻る。


「……っ」


ミソノだった。


腕を組み、睨みつけている。


「あんた、いい加減にしな」


低く、強い声。


「心配してくれてる人に向かって、なんだその態度は!こんなに怖がってるんだよ。だいたい――」


その言葉を、遮るように。


「ごめんなさい、ミソノさん」


アネモネが、口を開いた。


ミソノが、止まる。


ゆっくりと、ライゾーの方を向く。


ほんの少しだけ、息を吸って。


「ラ、ライゾー」


声が震える。


それでも。


逃げない。


「け、けが……大丈夫……?」


ぎこちないタメ口。


それでも、確かに。


ライゾーの目が、見開かれる。


予想していなかった。


「……」


頬を押さえたまま。


しばらく、何も言えない。


やっと、口を開く。


「……よくあることなんだよ」


視線を逸らす。


「ほっとけ」


少し間を置いて。


「……ってか、お前、できんじゃん」


ぼそりと。


アネモネが、わずかに息を詰める。


「……アネモネ」


小さく、でもはっきりと言う。


「……あ?」


「……お前じゃない」


顔を上げる。


まっすぐに見る。


「わたしの名前は、アネモネ」


声を張る。


震えている。


それでも、逃げない。


「名前で、呼んでよ……」


店の空気が、止まる。


火の音だけが、小さく鳴る。


ライゾーが、固まる。


まるで、豆鉄砲でも食らったみたいに。


「……はぁ」


小さく息を吐く。


観念したように。


「……わかったよ」


少しだけ間を置いて。


「……アネモネ」


名前を呼ぶ。


ぎこちなく。


でも、確かに。


アネモネの肩が、わずかに揺れる。


「……うん」


小さく頷く。


そして。


少しだけ近づく。


「汚れた服も、ケガも……」


言葉を探しながら。


「ちゃんと綺麗にしてから、ごはんは食べる……んだよ」


もじもじと。


それでも、言い切る。


そっと、ライゾーの頬へ手を伸ばす。


手が、頬に触れる。


一瞬、びくっと反応する。


けれど、振り払わない。


アネモネは、何かに祈る様に目を閉じる。


「……」


空気が、静かに変わる。


ぽぅ、と。


新緑のような、柔らかい光。


優しく、淡く、そこに灯る。


温かい。


押し付けるような力じゃない。


ただ、包むような光。


ライゾーの傷が、そこから消えていく。


血も。


腫れも。


痛みも。


まるで、最初からなかったみたいに。


「……」


手が離れる。


静寂。


ライゾーが、固まっている。


ミソノも、同じだった。


言葉が出ない。


ただ、その光の余韻だけが、そこに残る。

その温かさだけは、どうしても消えなかった。



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