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はじめてのしごと



音が、届かない。


誰かが叫んでいる。

口は動いているのに、声だけが消えていた。


「――――!」


父だった。


必死に何かを伝えようとしている。

その表情だけが、やけに鮮明に見える。


けれど、聞こえない。


距離は遠くないはずなのに、言葉だけが切り取られていた。


伸ばした手の先で、空気が歪む。


黒い影が、そこにあった。


形はない。

ただ、滲むように広がりながら、ゆっくりと近づいてくる。


足が動かない。


逃げなければいけないのに、身体が重く、地面に縫い付けられているみたいだった。


影が、父に触れる。


その瞬間、輪郭が崩れた。


歪んで、飲み込まれて、消える。


音もなく。


まるで、最初からいなかったみたいに。


「――!」


声が出ない。


喉が閉じる。


呼吸が、うまくできない。


振り向く。


母がいた。


いつも通りの姿で、そこに立っている。


けれど、足元から黒が滲んでいた。


「お母様……」


今度は、声が出る。


けれど、届く前に。


その身体が、ゆっくりと沈んでいく。


影に引きずられるように、下へ、下へ。


指先が、最後まで残って。


それも、消える。


「……やめて」


掠れた声が漏れる。


周りを見る。


人がいる。


見慣れた顔。


使用人たち。


ひとり、またひとり。


影に触れた瞬間、何も残さず消えていく。


叫びも、抵抗もない。


ただ、消える。


「……っ」


息が詰まる。


逃げる。


振り向く。


その先に――


ライゾーが立っていた。


昨日と同じ、無愛想な顔で。


けれど。


その足元に、影が絡みついている。


じわじわと。


引きずり込むように。


「……だめ」


一歩、踏み出す。


距離が縮まらない。


床が遠い。


身体が重い。


「ライゾーさん――」


呼ぶ。


声は、確かに出ている。


でも、届かない。


影が、腰まで飲み込む。


腕が沈む。


残った顔が、こちらを見る。


「……っ!」


手を伸ばす。


あと少しなのに。


届かない。


「――やめて」


視界が、白く弾けた。



目を開けた瞬間、荒れた呼吸がそのまま現実に引き戻される。胸が上下し、喉の奥がひりつくように乾いていた。


天井が見える。


見慣れない、古びた木の板。

昨日、初めて見た天井だった。


「……」


夢だ。


そう理解するまでに、少しだけ時間がかかる。


背中にじんわりと汗が残っている。

布越しに伝わる冷たさが、ようやく現実の温度を教えてくる。


ゆっくりと息を吸い、吐く。


呼吸を整えながら、身体を起こす。


窓の方に視線を向けると、柔らかな光が差し込んでいた。


昨日とは違う色だった。


立ち上がる。


床板が、かすかに鳴る。


まだ少し頼りない足取りのまま、窓辺まで歩く。


手をかけて、押し開く。


きぃ、と音がして、外の空気が流れ込んできた。


「……」


思わず、目を細める。


空気が澄んでいる。


昨日感じた、煙も鉄の匂いも無かったものかの様に薄い。

風はほとんどなく、静かに凪いでいた。


春の朝の、少しだけ冷たい空気が、肺の奥までゆっくりと入り込んでくる。


もう一度、深く吸う。


そして、吐く。


胸の奥に残っていた重さが、少しずつほどけていく。


「……わたしは」


窓枠に手を置いたまま、小さく呟く。


外を見ながら。


誰に向けたわけでもない、でも確かに“伝える”ための声だった。


「ここに、います」


言葉が、空気の中に溶けていく。


「お父様……お母様……」


かすかな声で、続ける。


「わたし……生きています」


返事はない。


それでも、言葉にしたことで、胸の奥にあった何かが、少しだけ形を持つ。


ほんのわずかに、口元が緩む。


怖さは消えていない。

何も終わっていない。


それでも。


「……わたしは」


静かに、続ける。


「大丈夫です」


完全ではない。


けれど、昨日よりは確かに。


守られている場所だと、そう思えた。


そのとき。


小さな羽音がした。


窓の外から、ひらりと影が差し込む。


軽く、窓枠に触れる気配。


「……おはよう」


自然と、声がこぼれる。


やわらかな調子だった。


「いい朝、だね」


アネモネは、少しだけ視線を落とす。


「……あのね」


ほんの少し迷ってから、口を開く。


「昨日ね、みんなとね――」


そこで、言葉が止まる。


思い出す。


ギルドでのこと。


あの問いと、その先のやり取り。


ライゾーの顔。


「……」


続けようとして、やめる。


まだ、うまく言葉にならない。


「……また、今度話すね」


小さく、そう呟く。


誰に向けたものかも、はっきりしないまま。


朝の空気の中に、その言葉だけが残る。



朝、すでにライゾーは西区を歩いていた。


夜の残り香が、まだわずかに路地の奥に沈んでいる。

けれど、それを押し流すように、朝の空気がゆっくりと満ちていく時間だった。


冷たい。


乾いている。


肺の奥まで、すっと通る。


西区にしては珍しく、空気が澄んでいた。


その静けさの中で、商人たちだけが先に動き始めている。


荷箱を引きずる音。

雨戸を開ける音。

遠くで交わされる、低く短い会話。


街はまだ眠っているのに、

その内側では、確実に一日が始まっている。


「……」


その中を、ライゾーは歩く。


隣には、算盤を弾くヒエン。


指先で珠を弾く音が、朝の空気に軽く響く。


「そういやさ、ほんとに良かったのかー?」


ヒエンが、あくび混じりに言う。


「ハンターになればさ、身元も保証されるし、ギルドの後ろ盾もつくじゃん。あの子、そういうのあった方が楽なんじゃないの?」


「……いいんだろ」


ライゾーは前を見たまま答える。


声に迷いはない。


「俺らが決めることじゃねぇ。あれはあれで、自分で選んだんだろ。だったら、あーだこーだ言う筋合いはねぇよ」


「そんなもんかねぇ……」


ヒエンは肩をすくめる。


納得したような、してないような顔。


けれど、それ以上は踏み込まない。


算盤の音だけが、また軽く鳴る。


二人は、そのまま地回りを続ける。


顔見知りに軽く顎で合図を送り、

店先に立つ連中の様子を一瞥し、

何事もないことを確認しながら進んでいく。


やがて、細い路地の奥。


油と香辛料の匂いが、朝の冷気に混ざって流れてきた。


「……来たんだ」


鉄板の前に立つ女が、ちらりと目を向ける。


「それで、いつも通り、巻き二つ?」


ジャイロサンドイッチ屋のチトだった。


まだ人もまばらな時間だというのに、もう仕込みは終わっているらしい。


火は静かに起きていて、肉の焼ける音が、かすかに響いている。


「チトさん、早いんだな」


ライゾーが言う。


「カッツさんは?」


「店主なら朝の市。どうせそっちも行くんでしょ?」


短く、当たり前のように返される。


ライゾーは何も言わず、軽く頷いた。


代金を置く。


紙に包まれたジャイロを受け取る。


湯気と一緒に、肉とスパイスの匂いが立ち上る。


それだけで、少しだけ現実に引き戻される。


店を後にする。


「いや〜今日もおねーさん綺麗だったなぁ……」


ヒエンが、にやにやしながら言う。


「朝から元気出るわ〜」


「やめとけよ」


ライゾーは呆れたように返す。


「"あの人"、いつどこで見てるか分かんねぇんだから」


言いかけたところで、足が止まる。


向こうから、荷車を引く影が近づいてきていた。


「お、二人とも朝早いな」


カッツだった。


肩に力の抜けた立ち姿。

けれど、どこか抜け目のない視線。


「チトに会ったか?……って、朝からお買い上げありがとさん」


軽く笑う。


そのまま、ライゾーの顔を覗き込む。


「仕事か?……にしては、浮かねぇ顔してるな」


「……おはよう、カッツさん」


ライゾーは一瞬だけ言葉を選ぶ。


「いや、まぁ……なんつーか、面倒なヤツに関わっちまってさ。保護したっていうか……なんというか」


言い切らない。


うまく言葉にできない。


「なるほどな」


カッツはそれ以上聞かない。


ただ、少しだけ目を細める。


「その歳で、誰かを保護するってのはな」


荷車の取っ手に手をかけたまま、続ける。


「いい経験になるかもしれないぞ」


声は軽い。


けれど、言葉はまっすぐ落ちる。


「事情は知らないが、何かあれば話くらいはいつでも聞くからな」


それだけ言うと、カッツはそのまま歩き出す。


荷車の車輪が、石畳をゆっくりと軋ませる。


朝の光の中へ、その背中は自然に溶けていった。


「……」


ライゾーは、その場に少しだけ立ち止まる。


手の中のジャイロは、まだ温かい。


「……」


視線を落とす。


アネモネの顔が、浮かぶ。


めんどくせぇな。


そう思う。


思うのに――


どこか、引っかかる。


言葉にできない、何かが。


「……行くぞ」


短く言って、歩き出す。


ヒエンが後を追う。



西区の夕方は、朝とはまるで別の顔をしていた。


日が傾くにつれて、街はゆっくりと目を覚ますのではなく、

まるで“別の生き物”に入れ替わるみたいに、質そのものが変わっていく。


昼間の澄んだ空気はもう残っていない。


代わりに、濃い匂いが漂っていた。


酒。煙。焦げた油。

それに混ざる、甘ったるくて、どこか腐りかけたような香り。


それらが、熱を帯びた空気に絡みついて、通り全体を覆っている。


「……」


ライゾーは、その中を歩く。


朝と同じ道のはずなのに、見え方が違う。


開いていたはずの店の前には、違う顔の連中が立ち、

昼間は静かだった路地の奥からは、低い音楽と笑い声が漏れている。


赤い布が、夕暮れの風に揺れる。


その向こうで、誰かが笑っている。


高い声と、低い声が混ざって、耳にまとわりつく。


「……」


視線を向けることはしない。


見慣れている。


知っている。


だから、無視する。


足取りは変わらない。


ただ、わずかに早くなる。


宿の前に着いたときには、空はすでに暗くなり始めていた。


入口の脇に座り込んでいる連中は、朝と同じ顔をしているのに、

どこかさらに崩れて見えた。


目は虚ろなまま、口元だけが妙に緩んでいる。


笑っているのか、何かに溺れているのか、判別がつかない。


「……」


扉を押し開ける。


中に入ると、空気が少しだけ軽くなる。


それでも、外の匂いは完全には消えない。


「遅い!」


カウンターの奥から、ミソノの声が飛ぶ。


「夕飯いるのかい!?もう少し早く言いな!」


グラスを置く音が、強めに響く。


「……いらねぇ」


ライゾーは短く返す。


怒鳴られているのに、気にした様子はない。


「はいはい、好きにしな」


ミソノも、それ以上は追わない。


いつものやり取りだった。


ライゾーは、そのまま奥へ進む。


階段を上がる。


きしむ音が、いつもより軽い気がした。


「……?」


二階に上がったところで、ふと足が止まる。


廊下の空気が、違う。


いつもより、埃の匂いが薄い。


床の染みも、どこか少ない様な。


さっきまでの街の匂いが、ここだけ少し切り離されている。


「……なんだ…?」


小さく呟く。


違和感が、胸の奥に引っかかる。


そのまま、自分の部屋の前まで歩く。


扉に手をかける。


いつもと同じはずの動作なのに、なぜか少しだけ躊躇が混ざる。


きぃ、と音を立てて開く。


――空気が、違った。


湿り気がない。


さっきまでの街の匂いも、埃の重さも、ここにはない。


「……は?」


思わず、声が漏れる。


視線が、部屋の中を走る。


脱ぎっぱなしだったはずの服が、きちんと畳まれている。


ベッドは整えられ、シーツの皺が伸びている。


窓は開いていて、外の空気がゆっくりと流れ込んでいた。


机の上も、余計なものが片付けられている。


そして。


その中央で。


ぱたぱたと、動く影があった。


「……」


アネモネだった。


給仕のような格好に身を包み、真剣な顔で埃を払っている。


その動きはぎこちない。


けれど、手を抜いてはいない。


一つひとつ、確かめるように。


丁寧に。


「……」


ライゾーが、固まる。


完全に、予想外だった。


頭の中で、状況が繋がらない。


何が起きているのか、理解が追いつかない。


「……あー……」


ようやく、声が出る。


「……忘れてた……」


言いかけた瞬間。


「おかえりなさい、ライゾーさん」


被せるように、声が届く。


明るい。


真っ直ぐで、迷いのない声だった。


アネモネが振り向く。


目が、きらきらしている。


「今日からお世話になってます!」


一歩、近づいてくる。


少しだけぎこちない動き。


でも、それすら気にしていない様子で続ける。


「ここでしばらく働かせてもらうことになりました。おしごと、初めてですが、がんばります!」


胸の前で、軽く拳を握る。


小さく、ふん、と気合を入れる。


「……」


ライゾーは、何も言えない。


言葉が出てこない。


想定していなかった。


こうなるとは、思っていなかった。


「……」


沈黙。


ほんの数秒。


けれど、やけに長く感じる。


「……ちっ」


小さく舌打ちする。


逃げるように、視線を外す。


「……ミソノさんの迷惑になんなよ」


それだけ。


それだけを残して。


くるりと踵を返す。


部屋を出る。


扉が閉まる。


「……はいっ!」


少し遅れて、元気な返事が返ってくる。


その声を背中で受けながら、ライゾーは階段を降りる。


一段、二段。


きしむ音が、やけに軽い。


「……」


下に降りる途中で、ひとつ息を吐く。


長く。


深く。


「……はぁ」


自分でも分からない。


なんで、あんなことになっているのか。


なんで、あんな顔をしていたのか。


なんで――


少しだけ。


胸の奥が、軽くなっているのか。


「……なんだよあれ」


小さく呟く。


納得がいかない。


理解もできない。


でも。


嫌では、なかった。


その感覚に、さらに苛立つ。


ライゾーは、顔をしかめたまま、最後の一段を降りた。


――それでも。


どこかで。


ほんの少しだけ、安堵している自分がいることに。


まだ、気づかないままだった。

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