埃と雑踏と人の気配の温かみ
ギルドの扉を出た瞬間、空気が変わる。
鉄と油の匂いが、また鼻に戻ってきた。
昼はとうに過ぎて、夜の気配が近づいているはずなのに、街はまだ起ききっていない。
いや――違う。
起きている場所と、眠っている場所が、混ざっている。
「……」
ライゾーは振り返らない。
そのまま歩き出す。
少し遅れて、アネモネがついていく。
足音が、石畳に軽く響く。
乾いた音だった。
しばらく、何も言わない。
ただ、歩く。
――西へ。
通りが変わる。
建物の背が低くなり、壁の色がくすんでいく。
煤けた煉瓦。
剥がれかけた看板。
割れた窓を板で塞いだ家。
遠くで、蒸気が吹き上がる音がする。
「……」
工場地区だった。
鉄の骨組みが空を切り裂くように立ち並び、煙がゆっくりと流れている。
日差しが、煙に遮られて、どこか濁って見えた。
金属を叩く音が、一定のリズムで続く。
――カン、カン、カン。
遠くで聞いていたはずの音が、今は骨の近くで鳴っているみたいだった。
アネモネは、少しだけ視線を上げる。
煙の向こうに、空がある。
あるはずなのに。
よく見えない。
「……」
喉の奥に、微かに鉄の味が残る。
ここでは、これが普通なのだと。
誰も疑っていない空気があった。
ライゾーは、その中を迷いなく進む。
慣れている。
身体に染みついている歩き方だった。
やがて、音が変わる。
金属音が遠のき、代わりに――
ざわつきが混ざる。
人の声。
笑い声。
怒鳴り声。
何かが割れる音。
低く流れる音楽のようなもの。
それらが、混ざり合っている。
「……」
通りが、広くなる。
灯りが増える。
昼間なのに、灯りがついている。
赤い布。
派手な看板。
開け放たれた扉の奥から、濃い匂いが流れてくる。
酒と、煙と、香水と。
それに混ざる、甘ったるい何か。
アネモネの足が、わずかに止まる。
見たことのない世界だった。
派手で。
騒がしくて。
どこか――歪んでいる。
「……はぐれんなよ」
短く、それだけ。
ライゾーは振り返らない。
アネモネは、小さく頷いて、また歩き出す。
視線を落としながら。
通りの端。
壁にもたれて座り込んでいる男たち。
目が合っているのに、焦点が合っていない。
何かを見ているようで、何も見ていない。
指先が、意味もなく動いている。
「……」
アネモネの歩幅が、少しだけ狭くなる。
自然と、ライゾーとの距離が近くなる。
「くっつくなよ」
振り返らずに言う。
「……はい」
小さく返す。
でも、離れない。
離れられない。
「……ちっ」
舌打ち。
けれど、歩く速度は変えない。
そのまま、進む。
通りの奥。
視線が、集まる。
「あれ……鬼の子じゃねぇか」
「……女連れてる」
「売る気か?」
ひそひそ声。
笑い声。
軽蔑と、興味と、少しの恐れが混ざっている。
「……」
ライゾーが、足を止める。
ほんの一瞬だけ。
首だけで、そちらを見る。
目が、合う。
それだけで。
声が、止まる。
笑いが、消える。
視線が逸れる。
何もなかったみたいに、空気が流れる。
「……」
また歩き出す。
何も言わない。
ただ、それで十分だった。
――ここでは。
やがて、建物が変わる。
石から、木へ。
歪んだ扉。
軋む階段。
低い天井。
人の気配が、濃くなる。
生活の匂いが混ざる。
さっきまでの派手な通りとは違う。
もっと、近い。
もっと、雑多で。
もっと――現実的な場所。
その一角で。
ライゾーが、足を止めた。
「……ここだ」
古びた宿だった。
看板は傾き、文字は半分消えている。
入口の脇。
座り込んでいる数人。
酒なのか、薬なのか。
正気じゃない目で、どこかを見ている。
ひとりは、空を。
ひとりは、自分の手を。
もうひとりは、何もない床を。
「……」
アネモネの呼吸が、浅くなる。
足が、止まりかける。
「入るぞ」
短く。
それだけ。
ライゾーは、そのまま中へ入る。
アネモネは、ほんの一瞬だけためらって。
すぐに、後を追った。
扉が、きしんで開く。
中は、外より少しだけ暗い。
でも。
確かに、人の気配があった。
――それだけで。
ほんの少しだけ。
息が、しやすくなる。
(……あ)
自分でも気づかないくらい、小さく。
アネモネの肩の力が、抜けていた。
*
扉の向こうは、外とは別の音がしていた。
ざわつきはある。
人もいる。
でも、どこか閉じている。
外の喧騒が、壁一枚で遠ざかっていた。
「いらっしゃい――……あら」
奥から、声が飛んでくる。
低くて、よく通る声。
カウンターの向こうにいた女が、こちらを見て、目を細めた。
「ライゾーじゃないの。お帰りなさい」
手に持っていた布で、グラスを拭きながら言う。
「しかも――」
視線が、アネモネに移る。
一拍。
ほんのわずかに、空気が止まる。
「……あら、可愛い子ねぇ」
それだけだった。
深くは聞かない。
事情も、背景も。
ただ、そう言って、いつも通りの動作に戻る。
グラスを棚に戻す音が、軽く鳴る。
「話は聞いてるわよ。やるじゃない、ライゾー」
少しだけ口元を緩める。
「……うっせぇ」
短く返す。
「で?」
女――ミソノは、顎で奥を指す。
「隣、空けてあるわよ」
「……あぁ」
ライゾーはそれ以上言わない。
振り返りもせず、奥へ向かう。
「ほら、あんたも」
ミソノが軽く手を振る。
「ついていきなさい。迷うから」
その言い方は雑なのに、突き放してはいない。
アネモネは、少しだけ頭を下げて。
「……はい」
小さく答えて、ライゾーの背中を追う。
床板が、ぎし、と鳴る。
階段は、急で、少し歪んでいた。
一段ごとに、きしむ音が違う。
ライゾーは、気にもせず上がっていく。
慣れている足取りだった。
途中で、一度だけ振り返る。
「落ちんなよ」
それだけ。
すぐに前を向く。
「……はい」
アネモネは、慎重に足を運ぶ。
手すりは、少しざらついていた。
古い木の感触。
けれど、折れそうではない。
ちゃんと、誰かが使い続けてきたものだった。
二階。
廊下は狭く、灯りも弱い。
壁には、古い釘の跡や、擦れた痕が残っている。
生活の跡が、そのまま残っていた。
ライゾーが、一つの扉の前で止まる。
「ここ」
短く言って、扉を押す。
きぃ、と音がする。
中は――
狭い。
ベッドが一つ。
小さな机。
辛うじて窓があった。灰色に濁った夕空の向こう、ギルドの建物の屋根だけが見えた。
そして、少し埃っぽい。
でも、風は通る。
「……」
アネモネは、ゆっくりと中を見渡す。
豪華でも、綺麗でもない。
けれど。
壊れていない。
荒らされてもいない。
「……ここがお前の部屋」
ライゾーが言う。
「隣、俺の部屋だから」
指で、壁の向こうを軽く示す。
「なんかあったら――」
言いかけて、止まる。
舌打ち。
「……まぁいいや」
言葉を切る。
「メシは下だ。日没までに言えば出るから」
階段の下から、ちょうど声が飛ぶ。
「夕飯食べるなら日没までには声かけてちょうだいねー!」
ミソノの声だった。
ライゾーは、面倒くさそうに親指で下を指す。
「ってことだから」
少しだけ視線を外して、続ける。
「メシ代は宿賃に入ってる。……多分、しばらくはザンガが持つ」
間。
「金の心配はいらねぇ」
それだけ言って。
扉の外へ出る。
「……じゃあな」
振り返らない。
そのまま、自分の部屋の扉を開けて、入る。
音がして。
閉まる。
――静かになる。
「……」
ぽつん、と。
アネモネは部屋に残る。
少し埃の匂い。
木の匂い。
遠くから、人の声がする。
笑い声。
食器の触れる音。
階段を上り下りする足音。
全部が、壁越しに、柔らかく届く。
「……」
ゆっくりと、ベッドに手を触れる。
布は少し粗い。
でも、温もりが残っている。
誰かが、ここで寝ていた温度。
完全に冷えてはいない。
「……あ」
小さく、息が漏れる。
胸の奥にあった重さが、少しだけほどける。
怖さは、消えていない。
何も解決していない。
でも。
「……ここなら……」
声にはならない。
ただ、思う。
屋根がある。
壁がある。
人の気配がある。
それだけで。
今は、十分だった。
アネモネは、ゆっくりと腰を下ろす。
ぎし、とベッドが鳴る。
その音が、不思議と落ち着く。
外の世界は、まだ遠い。
ここは、まだ、守られている。
ほんの少しだけ。
目を閉じる。
呼吸が、整っていく。
――その頃。
壁一枚向こう。
ライゾーは、扉にもたれたまま立っていた。
部屋の中に入ったまま、動かない。
さっきの空気が、まだ残っている。
あの重さ。
あの違和感。
言葉にできない何か。
「……」
眉をひそめる。
思い出しかけて。
やめる。
「……なんだってんだよ」
小さく吐き捨てる。
誰に向けたわけでもない。
けれど。
耳の奥に、かすかに残っていた。
――あの声。
どこかで聞いたことがあるような。
そんな、曖昧な感覚だけが。
消えずに残っていた。




