悲喜交々
扉が、静かに閉まる。
ギルドの喧騒が、ひとつ向こう側に遠ざかる。
代わりに、少しだけ重たい静けさが残った。
応接室だった。
木の机と、簡素な椅子。
壁際には、手入れされた観葉植物がいくつか置かれている。
鉄と油の匂いに慣れたこの街の中では、ここだけ少し空気が違った。
エリナが、ゆっくりと椅子を引く。
「さ、座って」
強くもなく、弱くもない声だった。
ただ、逃げ場を与えない種類の優しさがあった。
アネモネは、少しだけ戸惑ってから、そっと腰を下ろす。
その向かいに、エリナ。
横には、ヒエン。
そして、壁にもたれるようにライゾーが立った。
腕を組み、視線を逸らしたまま。
「さて、と……」
エリナが、軽く息を整える。
机の上に手を置き、指先を揃える。
「まずは、アニーちゃん」
視線が、まっすぐ向けられる。
「あなたは、どこから来たのか――教えてくれるかしら?」
少しの沈黙。
部屋の中に、外の遠い金属音がかすかに響く。
――カン、カン、と、一定のリズムで。
アネモネは、膝の上で手を重ねる。
指先が、ほんの少しだけ震えていた。
「……えと……」
言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「おうちは……もう、ないんです」
ヒエンが、わずかに表情を緩める。
「そっか。オレたちと同じじゃん」
軽く笑いながら、場の空気を和らげる。
「地方とか、街の名前とかは?その辺わかる?」
「……わからない、です」
アネモネは、小さく首を振る。
「わたし……おうちの敷地から、あんまり出たことがなくて……」
言葉は、途切れない。
淡々としている。
けれど。
そこに感情が“ない”わけじゃない。
押し込めているだけだ。
「……」
エリナは、何も挟まない。
ただ、聞く。
そのまま続けさせる。
「……ある日……」
アネモネの視線が、ほんの少しだけ下に落ちる。
「急に……知らない人たちが、来て……」
空気が、少しだけ冷たくなる。
「父が……」
一拍。
「連れて行かれました」
言葉は揺れない。
でも。
声の奥が、わずかに掠れる。
「……そのまま……」
ヒエンの指が、わずかに止まる。
エリナの視線が、わずかに細くなる。
「母は……その場で……」
言い切る。
崩れない。
泣かない。
ただ、事実だけを置いていく。
「……」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
外の音が、遠のく。
「そのあと……」
アネモネは、指先を強く握る。
「わたしを子供の時から見ていてくれた人なんですが……その人が、連れて逃げてくれて……」
「この街の、手前まで……」
「でも……その人も……」
そこだけ、ほんの少しだけ、声が揺れた。
「……動けなくなって……」
沈黙。
風が、窓の隙間からわずかに入り込む。
葉が、かさ、と小さく鳴る。
「……それで……」
アネモネは、ゆっくりと顔を上げる。
「なぜか……ずっと追われていて。父と母を……やった人もその中にいました」
エリナの目が、わずかに鋭くなる。
(……事件……でもない)
(両親が犯した何かへの恨みか、この子自身に何か理由が…?)
声には出さない。
けれど、思考だけが確かに動く。
そして。
アネモネは、最後に。
少しだけ、視線を横へ流した。
「そして……昨日の夜中……」
ほんのわずかに、息を吸う。
「……その……」
「ライゾーさんが、助けてくれて」
視線が、向く。
壁にもたれたままの少年へ。
「……」
ライゾーは、何も言わない。
ヒエンが、小さく頷く。
その場にいた事実を、静かに肯定する。
「……」
少しの沈黙。
その沈黙を、ライゾーが乱暴に踏み潰す。
「……お前を追ってたやつらは」
低い声。
壁から身体を離す。
「俺が始末したから」
一歩、近づく。
靴音が、固く響く。
「そんなに怖がらなくたっていいだろ」
視線が、まっすぐ向く。
鋭い。
逃げ場を与えない。
「終わったのに、何にビビってんだよ?」
声が、少しだけ荒い。
苛立っている。
理由は、自分でもわかっていない。
ただ――
何かが、気に入らない。
「……」
その言葉が、落ちる。
音もなく。
重く。
アネモネの中に沈む。
視線が、ゆっくりと下がる。
指先が、ぎゅっと握られる。
さっきまで、かろうじて保っていた何かが。
静かに、崩れ始めていた。
*
視線が、落ちる。
床の木目が、やけにくっきりと見えた。
さっきまで感じていたはずの空気が、どこか遠い。
声も、匂いも、全部が少しだけぼやけていく。
「……」
アネモネの指先が、膝の上で固まる。
言葉が、出ない。
さっきまで、ちゃんと話せていたはずなのに。
ちゃんと、伝えられていたはずなのに。
――どうして。
胸の奥が、じわりと沈んでいく。
(……やっぱり……)
視線の先が、揺れる。
(……迷惑、だったのかな……)
喉が、締まる。
助けてくれた人。
この街で、唯一“知っている人”。
その人に――
突き放された気がした。
「……」
小さく、息を吸う。
うまく、入ってこない。
代わりに、重たいものが胸に溜まっていく。
悲しい。
怖い。
でも。
泣いても、意味がない。
そう思って。
ただ、下を向く。
そのとき。
――かさ、と。
小さな音がした。
部屋の隅。
観葉植物の葉が、わずかに揺れる。
風は、ない。
窓も、閉まっている。
「……?」
ヒエンが、そちらを見る。
葉の色が――
ほんの少しだけ、鈍くなる。
緑が、くすむ。
気のせいかと思うくらいの変化。
けれど。
確かに、変わった。
「……なんだ?」
ヒエンが眉をひそめる。
その間にも。
空気が、少しずつ重くなる。
息を吸うたびに、喉に引っかかる。
さっきまで感じていた、わずかな木の香りが消えている。
代わりに――
どこか湿った、重たい匂い。
「……」
エリナの指先が、机の上で止まる。
わずかに、眉を寄せる。
視線が、部屋をゆっくりと走る。
何かが、おかしい。
説明はできない。
でも。
確実に、さっきと違う。
「……」
ライゾーは、動かない。
けれど。
視線だけが、わずかにアネモネへ向く。
言葉にはならない違和感。
どこかで、触れたことのある“感覚の手前”。
――思い出しかけて。
やめる。
「……」
葉が、また鳴る。
さっきよりも、少しだけ弱く。
力が抜けるみたいに。
ひとつ、またひとつ。
端の方から、しおれていく。
「……おい」
ヒエンが、思わず声を漏らす。
「これ……」
でも、言葉が続かない。
なんだこれ、と言いかけて。
言えない。
理由が、わからないから。
「……」
アネモネは、気づいていない。
ただ、俯いたまま。
小さく、呼吸を繰り返している。
その呼吸に合わせるように。
部屋の空気が、わずかに沈む。
重たい。
鈍い。
まるで、どこか深い場所に沈んでいくみたいに。
「……」
エリナが、ゆっくりと立ち上がる。
視線が、アネモネに向く。
確信はない。
でも。
偶然とは思えなかった。
そのとき。
「――まあいいじゃねぇか」
低く、太い声が割り込む。
扉が、開いていた。
いつの間にか。
「ライゾー」
そこに立っていたのは――ザンガだった。
腕を組み、部屋の様子を一瞥する。
ほんの一瞬だけ、視線が鋭くなる。
だが、それ以上は追わない。
「テメェが保護したんだろうが」
そのまま、淡々と言う。
「だったらテメェが面倒見てやれよ」
「……は?」
ライゾーが、顔を上げる。
露骨に、嫌そうな顔。
「は!?じゃねぇ」
ザンガは一歩、部屋に入る。
床が、わずかに軋む。
「テメェが泊まってる宿、隣の部屋空いてるだろ」
間を置かずに続ける。
「そこに入れるように、もう手は回した」
「……は?」
もう一度。
今度は、本気で理解していない顔。
「街ではめちゃくちゃやるし、ハンター仕事は適当だしな」
ザンガの口元が、わずかに歪む。
「観念しろ」
「……ふざけんなよ」
ライゾーが舌打ちする。
けれど。
否定は、弱い。
「そうね」
エリナが、静かに口を挟む。
空気が、少しだけ戻る。
さっきまでの重さが、わずかに緩む。
「それがいいわ」
腕を組み直し、ライゾーを見る。
「アニーちゃん、大丈夫よ」
視線が、優しくなる。
「コイツ、見た目はアレだけど」
一拍。
「女の子に酷いことできないタチだから」
「……は?」
ライゾーが眉をひそめる。
「あと、アタシたちも見張ってるから」
エリナはそのまま続ける。
「安心していいわ」
アネモネの視線が、わずかに上がる。
まだ、不安は消えていない。
けれど。
さっきより、ほんの少しだけ呼吸が戻る。
部屋の空気も、少しずつ軽くなる。
葉の色も、ゆっくりと元に戻っていく。
誰も、それを言葉にはしない。
ただ。
「……じゃあ」
エリナが、視線をザンガに向ける。
「アニーちゃんは、ハンターとして登録するんですか?」
静かに、問いかける。
部屋の中に、再び静けさが落ちた。




