やさしい声のする方へ
鳥も、小動物たちも、動かない。
ただ。
彼女の周りに、静かに佇んでいる。
風が、やわらかく抜ける。
花びらが、ひとひら。
ゆっくりと宙を舞った。
「……あっ」
少女が、小さく声を漏らす。
その声に反応するように、
肩に止まっていた小鳥が、ぴくりと首を傾げた。
「昨夜は……あ、ありがとうございました……」
春の光が、水面に反射する。
きらきらと揺れた光が、そのまま彼女の瞳に映る。
「……お前、なんでここに?」
ライゾーの声は、いつも通りぶっきらぼうだった。
けれど。
ほんの少しだけ、低い。
「えと……」
少女――アネモネは、指先で花の茎をなぞる。
その動きに合わせて、
周囲の蝶がふわりと浮かび上がった。
「行く場所がなくて……その……」
風が、頬を撫でる。
「さ、寂しくて……みんなと、“お話”してたんです」
「……」
ヒエンが、目をぱちぱちさせる。
言葉が、出てこない。
目の前にある光景が、あまりにも現実離れしていて。
でも。
どこか、否定できない。
「あの〜……ごめんね?」
ヒエンが、少しだけ腰を落として目線を合わせる。
草が、さわりと鳴る。
「話の途中でさ。“お話”って……誰と?」
「えっ……?」
アネモネが、本気で驚いた顔をする。
まるで。
“当たり前のことを聞かれた”みたいに。
「鳥さんとか、お花とか……です」
そっと手を伸ばす。
小さな獣が、逃げない。
指先に、すり寄る。
「わたし、この土地なんにも知らなくて……」
風が、花を揺らす。
その揺れに合わせて、花弁が小さく擦れる音がした。
「だからみんなに、ここがどんなところなのか……聞いてたんです」
「……」
ライゾーとヒエンが、同時に瞬きをする。
言葉が、出ない。
理解が、追いつかない。
やわらかな光。
穏やかな風。
生き物たちの気配。
全部が、自然すぎて。
逆に、現実感がなかった。
「……そんなことより」
ライゾーが、空気を切る。
「お前、帰るところは?」
⸻
アネモネは、小動物の背を撫でながら。
少しだけ、手を止める。
「……ありません」
困ったように。
でも、どこかで受け入れているように。
ほんの少しだけ、寂しそうに笑った。
「仕事は?」
「しごと……?」
アネモネが、きょとんとする。
本当に、意味がわからないという顔で。
「あー……」
ヒエンが頭をかく。
空を見上げる。
鳥が、ゆっくりと円を描いていた。
「……めんどくせぇのに当たったな、これ」
小さく呟く。
でも、完全に放り出す声じゃない。
「キミさ、とりあえず帰るとこないんなら――」
ヒエンが、柔らかく言う。
「ギルドに行かない?オレたちもちょうどこれから帰るとこでさ」
風が、少しだけ強く吹く。
草が揺れる。
光が、きらりと跳ねる。
「……でも、怖いです」
アネモネの声は、小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「こんなとこにいる方が危ないんじゃねぇの」
ライゾーが即答する。
迷いはない。
「とりあえずオレたちといたら大丈夫」
ヒエンが続ける。
声のトーンが、少しだけ低くなる。
「無事にギルドまで届けるからさ」
「……ちっ」
舌打ち。
ライゾーが、外套を脱ぐ。
乱暴に。
でも、迷いなく。
「ほら」
ぽい、と投げる。
「これ被っときゃなんとかなんだろ」
アネモネが、それを両手で受け取る。
少し驚いた顔で。
でも、拒まない。
「……でも……」
その瞬間。
ぐぅぅぅ……
小さく。
でも、はっきりと音が鳴った。
「……」
風が、止まる。
ライゾーとヒエンが、無言で顔を見合わせる。
「……お前」
ライゾーがため息をつく。
すっと。
紙包みを差し出す。
「さっさと食って」
ぶっきらぼうに言う。
「とりあえずここから離れるぞ」
風が、また流れ出す。
花が揺れる。
鳥が、静かに飛び立つ。
アネモネは、その包みを見つめて。
それから。
そっと、受け取った。
*
草を踏む音が、三つ分。
やわらかな地面から、少しずつ硬い道へ。
風の匂いも、変わっていく。
草の青さから、鉄の重さへ。
日は、傾きはじめていた。
長く伸びた影が、三人分、並んで揺れる。
「そういえば」
ライゾーが、前を向いたまま言う。
「お前、名前は?」
「……アネモネです」
少しだけ間を置いて。
それから、ぱっと顔を上げる。
「アニーって呼んでください!」
さっきよりも、声が明るい。
お腹が満たされたからか。
それとも。
“ひとりじゃない”からか。
「オレはヒエン」
軽く手を挙げる。
「んで、この無愛想なのがライゾーだよ。よろしくね、アニー」
「……」
ライゾーは何も言わない。
前を歩いたまま。
アネモネが、ちらりと横を見る。
もう一度。
少しだけ、長く。
「はー……」
ライゾーが、ため息をつく。
視線は遠く。
もう街の方を見ている。
「エリナに何て言えばいいんだか」
ぼそりと。
本気で面倒くさそうに。
「まぁなんとかなるって」
ヒエンが軽く笑う。
「だって“拾った”だけだし」
「……それで済むかよ」
鉄の匂いが、戻ってくる。
煙。
熱。
音。
――カン、カン、カン……
リバーフロント。
働き続ける街。
人の視線が、集まる。
外套を被った少女。
その両脇を、男が二人。
まるで――
白昼堂々の誘拐だ。
「……」
ざわ、と空気が揺れる。
通りすがりの視線。
ひそひそとした声。
「……ちっ」
ライゾーが舌打ちする。
ギロ、と周囲を睨む。
それだけで。
数人が、目を逸らした。
「こわ」
ヒエンが笑う。
「もうちょい優しくできない?」
「めんどくせぇんだよ、どいつもこいつも。見てきやがって」
アネモネは、外套の中で少しだけ肩をすくめる。
でも。
逃げようとはしない。
ギルドの扉が、見えてくる。
「着いた」
ヒエンが軽く言う。
ガチャ、と扉が開く。
「お疲れ様、二人とも――」
エリナの声が、途中で止まる。
視線が、固まる。
「あんたたち……」
ゆっくりと、目が細くなる。
「ついに人攫いまで始めたの?」
「いやちげぇよ」
即答。
「上薬草採取してたら拾ったー」
ヒエンが軽く手を挙げる。
「……は?」
その瞬間。
アネモネが、外套を外す。
さらり、と。
柔らかい髪が、落ちる。
「あの……」
小さな声。
でも、はっきりと。
「突然すみません……」
両手を、ぎゅっと握る。
「ライゾーさんとヒエンさんに、その……保護?してもらいました」
少しだけ、言葉を探す。
「わたし、この街に来たばっかりで……」
目が、少し揺れる。
「なんにも、わからなくて……」
声が、わずかに震える。
「……」
エリナが、その様子を見る。
ほんの一瞬。
空気が、変わる。
「……ちょっといい?」
振り返りもせず、他の職員に声をかける。
「窓口、代わって」
「え?あ、はい」
慌てて交代する職員。
エリナが、しゃがむ。
アネモネと目線を合わせる。
「大丈夫」
声が、柔らかい。
さっきまでとは別人みたいに。
手を差し出す。
アネモネは、一瞬だけ迷って。
それから。
そっと、その手を取った。
「……行くわよ」
立ち上がるエリナ。
ライゾーとヒエンの横を通り過ぎる。
一瞬だけ。
ちらりと、二人を見る。
何も言わない。
でも。
“わかってるわね”という目。
奥の扉が、開く。
閉まる。
静けさが、戻る。
「……」
ライゾーが、頭を掻く。
「……なんだこれ」
「だから言ったじゃん」
ヒエンが肩をすくめる。
「なんとかなるって」
その扉は、しばらく開かなかった。
*
扉が、静かに開いた。
奥の部屋から。
エリナと、アネモネが出てくる。
アネモネは、少しだけ俯いていた。
髪は整えられ。
服も、さっきとは違う。
エリナのものだろう。
少し大きいそれを、もじもじと気にしている。
足取りが、ぎこちない。
でも。
逃げようとはしていない。
「……あ」
ヒエンが小さく声を上げる。
エリナが、二人の方へ歩いてくる。
そのまま、立ち止まる。
「あんたたち」
腕を組む。
視線は鋭いまま。
「この子のこと、何か聞いた?」
「……」
ライゾーが、首を横に振る。
ヒエンも同じように。
「そう……」
短く、息を吐く。
「アニーちゃん、でいいかしら?」
少しだけ声のトーンが変わる。
「私はエリナ。このギルドで受付をしているわ」
アネモネが、顔を上げる。
「主に、仕事を紹介するところなんだけど……」
「……?」
小さく、首を傾げる。
その反応を見て。
エリナの目が、ほんのわずかに細くなる。
(……やっぱり)
この街の人間じゃない。
それどころか。
もっと外。
“普通の生活”から離れた場所で生きてきた子。
「……まぁいいわ」
一拍置く。
「色々混乱してると思うけど」
視線を、まっすぐ合わせる。
「私と、あの二人は信用してもらって大丈夫よ」
アネモネの指先が、少しだけ緩む。
「ちょっと、色々お話したいんだけど」
「時間、いいかしら?」
アネモネが、迷う。
ほんの少しだけ。
その視線が――
横に流れる。
ライゾーの方へ。
「……」
目が合う。
一瞬だけ。
(……なんだよ)
ライゾーは、眉をひそめる。
その視線に。
理由はない。
でも。
なぜか、逸らせなかった。
そのとき。
エリナが、振り返る。
「あんたたちも来なさい」
「は?」
ライゾーが眉をひそめる。
「保護したんでしょ?」
淡々と言う。
「最後まで責任持ちなさい」
「……めんどくせぇ」
即答。
そのとき。
「……」
アネモネが、じっと見ていた。
言葉はない。
ただ。
まっすぐに。
「……」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、間が空く。
ライゾーが、目を逸らす。
「……ちっ」
頭をかきながら、立ち上がる。
「行けばいいんだろ」
ヒエンが、くすっと笑う。
「素直じゃないなあ」
「うるせぇ」
エリナは何も言わない。
ただ、扉を開ける。
その奥へ。
三人は、足を踏み入れた。




