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けがを治す魔法



温かい。


最初にそう思った。


痛みが消えていく感覚よりも、血の味が薄れていくことよりも先に、その温かさだけが、やけにはっきりと残った。


アネモネの手は、まだ頬に触れている。


細い指先。


少し震えている手。


そこから灯る新緑のような光が、朝の食堂の空気を、ほんのわずかに変えていた。


パンの焼ける匂いも、油の匂いも、ミソノが立つコンロの熱も、全部そこにあるはずなのに。


その瞬間だけ、ライゾーの周りから音が遠のいた。


「……」


見覚えがある。


手の位置も。


この光も。


触れられた時の、身体の奥が勝手に緩むような感覚も。


だけど。


そんなはずはない。


あれは、六年も前の話だ。


まだ自分が、飛空艇の乗組員ですらなくて、下っ端で、雑用で、居候みたいな扱いだった頃の話。


あの夜。


森の中。


堕ちた船の瓦礫から、這い出した。


雨が降っていた。


冷たい雨ではなかった。

けれど、濡れた服が身体に張りついて、泥と血と煙の匂いが混ざって、どこからが自分の痛みなのかも分からなくなっていた。


折れた木。


潰れた鉄板。


焦げた布。


誰かが叫んでいた気もする。


誰も叫んでいなかった気もする。


ただ、覚えているのは。


土と緑の、しっとりとした匂い。


雨に濡れた葉の匂い。


そして、その中に混ざった、花のような香り。


瓦礫の向こうに、大きな屋敷があった。


灯りが、滲んで見えた。


そこから、女が現れた。


顔は、よく思い出せない。


声も、輪郭までは掴めない。


ただ、近づいてくる足音と、屈み込む気配だけは、妙に残っている。


白い手。


汚れていない手。


その手が、今と同じように、頬に触れた。


祈るような表情だった気がする。


悲しそうで。


でも、怖がってはいなくて。


まるで、そこにいる自分を“壊れたもの”ではなく、“まだ生きているもの”として見ているような。


そんな目だった。


「……」


ライゾーの喉が、わずかに鳴る。


記憶はそこでぼやける。


雨の音も、息の音も、誰かの声も。


全部、水の中に沈むように遠ざかっていく。


なのに。


温かさだけが、残る。


今と同じ。


アネモネの手から流れ込んでくる、この光と、同じ。


「……アニーちゃん?」


ミソノの声が、遠くから戻ってくる。


少し焦っていた。


何が起きているのか分からないまま、それでも目の前の少女の様子がおかしいことだけは分かっている声だった。


アネモネの額には、うっすらと汗が浮かんでいた。


頬の色も、少しだけ薄い。


それでも、彼女は手を離さなかった。


最後まで、光を途切れさせないように。


そっと。


丁寧に。


壊れた器の縁を撫でるみたいに。


「……よかった」


小さく息を吐く。


それから、少しだけ目を細めた。


「よし……これで、大丈夫……だね」


辛いはずなのに。


疲れているはずなのに。


アネモネは、にこっと笑った。


まっすぐに、ライゾーを見て。


その笑顔は、弱々しかった。


けれど、不思議なくらい、誤魔化しがなかった。


「……」


ライゾーは、何も言えなかった。


頬の痛みは消えている。


口の中の傷も、もう痛まない。


なのに。


別の場所が、ひどく疼いていた。


胸の奥。


ずっと閉じていたはずのところ。


そこに、知らない温度が残っていた。




 ――光が、ほどける。


 頬に触れていた温もりが、ゆっくりと離れていく。


 新緑のような淡い光は、まるで呼吸を終えるように静かに消えて、部屋の空気は元の重さに戻っていった。


「……」


 アネモネの指先が、わずかに震える。


 目を開く。


 そこにいるのは、さっきと同じ少年。


 傷は、もうない。


 血の跡も、腫れも、まるで最初からなかったみたいに消えている。


「……」


 少しだけ、息を吐く。


 胸の奥に残っていた緊張が、ほどける。


 ――よかった。


 その感情が、先に来る。


 それから、少し遅れて。


 視線が合う。


「……」


 ライゾーが、こちらを見ていた。


 さっきまでの鋭さとは違う。


 何かを探るような、わずかに揺れる目。


「……あのさ」


 低い声が落ちる。


 言い慣れていない音だった。


 続かない。


 言葉が、途中で止まる。


「……」


 ほんの一瞬の、空白。


 アネモネは、その間を待つ。


 何か言おうとしていることだけは、分かったから。


「……」


 でも、言葉は出てこない。


 口が、わずかに動いて。


 止まる。


 視線が、ほんの少しだけ逸れる。


「……」


 そのときだった。


 ふ、と。


 力が抜ける。


「……あ」


 自分でも気づかないくらい、小さな声。


 視界が、揺れる。


 床が遠くなる。


 身体が、急に軽くなったみたいに、支えを失う。


「……おい」


 声が聞こえる。


 近いはずなのに、少し遠い。


「……!? おい!!」


 強くなる。


 名前を呼ばれる。


「アネモネ!!」


 ――ああ。


 呼ばれた。


 その認識だけが、ゆっくりと残る。


 身体はもう動かない。


 視界が、白く滲む。


 音が、ほどけていく。


 遠くなる。


 手の感覚が、消える。


 最後に見えたのは。


 少しだけ慌てた顔。


 ――そんな顔も、するんだ。


 そんなことを思って。


 意識が、ぷつりと途切れた。



⸻目を開ける。


 ゆっくりと、意識が浮かび上がってくる。


 まず感じたのは、光だった。


 柔らかい。


 窓から差し込む、朝の光。


 白くて、やさしい。


「……」


 瞬きをする。


 天井が見える。


 昨日と同じ、古びた木の板。


 でも、昨日よりも、少しだけ明るく見えた。


 息を吸う。


 空気が、澄んでいる。


 夜の匂いはもう残っていない。


 朝の、静かな温度だけが、そこにあった。


 ゆっくりと、身体を起こす。


 少しだけ、重い。


 でも、動かないわけじゃない。


「……あ」


 視線を横に動かす。


 ベッドの脇。


 簡素な椅子。


 その上に――


「……」


 ライゾーがいた。


 座ったまま、眠っている。


 背もたれにもたれず、少し前かがみになった姿勢。


 腕は組まれていない。


 力が抜けたまま、膝の上に落ちている。


 そのまま、動いていない。


「……」


 ほんの少し、目を見開く。


 そして、ゆっくりと部屋を見渡す。


 机の上。


 木の器。


 麦粥だった。


 少し冷めている。


 でも、湯気が出ていた形跡が、まだ残っている。


 隣には、水差し。


 半分くらいまで減っている。


 その横に、布。


 水を絞った跡が、何度も残っていた。


 床にも、ほんの少しだけ、水の跡。


 拭ききれていない線。


「……」


 視線を戻す。


 ライゾーを見る。


 眠っている。


 無防備な顔。


 昨日の、あの顔とは違う。


 いつもみたいに、鋭くもない。


 ただ――


 そこに、いる。


「……」


 アネモネは、少しだけ息を吐く。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


(……あれ……)


 考える。


 どうして、ここにいるのか。


 どうして、こんなことをしてくれたのか。


 本当に、分からない。


 この人は、乱暴で。


 ぶっきらぼうで。


 さっきだって、あんな言い方をしていたのに。


 なのに。


「……」


 視線を、もう一度向ける。


 逃げなかった。


 離れなかった。


 ずっと、ここにいた。


(……どうして……?)


 答えは、出ない。


 でも。


 ほんの少しだけ。


 口元が、緩む。


(……でも……)


 胸の奥で、言葉になる。


(……ここにいていいのかもしれない)


 確信じゃない。


 でも、否定もできない。


 その間にある、曖昧な感覚。


 それでも。


 確かに、そこにあった。


 静かな朝の光の中で。


 誰かが、隣にいてくれたという事実だけが。


 ゆっくりと、身体に馴染んでいった。


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