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揺れる



 朝の光は、昨日よりもやわらかかった。


 窓から差し込む白い光が、部屋の中の埃をゆっくりと浮かび上がらせている。空気は静かで、夜の匂いはもうどこにも残っていない。


 アネモネは、ベッドの上に腰を下ろしたまま、じっと一点を見ていた。


 椅子の上。


 そこに、ライゾーがいた。


 座ったまま、眠っている。


 背もたれにも寄りかからず、少し前かがみのまま、身体の重さをそのまま預けるような格好で。


 腕は膝の上に落ちている。


 無防備だった。


 昨日までの、あの鋭さが嘘みたいに消えている。


「……」


 アネモネは、何も言わない。


 ただ、その姿を見ている。


 怖い人。


 乱暴で、言葉もきつくて、目も怖くて。


 でも。


 昨日は、逃げなかった。


 離れなかった。


 ずっと、ここにいた。


「……」


 視線が、少しだけやわらぐ。


 理由は分からない。


 分からないまま、ただ見ている。


 そのとき。


「……ん」


 小さく、声が漏れる。


 ライゾーの肩が、わずかに揺れた。


 まぶたが動く。


 ゆっくりと、開く。


「……」


 視線が合う。


 一瞬、止まる。


 そして。


「……は?」


 理解より先に、身体が動いた。


 椅子から、がくん、とバランスを崩す。


「うおっ――!?」


 危うく転げ落ちそうになって、慌てて踏みとどまる。


 椅子がきしむ。


 やけに大きな音だった。


「……!」


 アネモネが身を乗り出す。


「大丈夫?!」


 思わず声が出る。


 手も、少しだけ伸びる。


 でも、触れる直前で止まる。


「……ああ、うるせぇな……」


 ライゾーは顔をしかめる。


 寝起きのまま、状況を無理やり飲み込もうとしている顔。


 視線が部屋を一周して。


 アネモネに戻る。


「……起きてんのかよ」


「うん、さっき」


 アネモネは小さく頷く。


 それから、少しだけ間を置いて。


「……あのさ」


 まっすぐ見る。


「わたし、ここまで運んだの……ライゾーでしょ?」


 問いかける声。


 でも、ほとんど分かっている顔だった。


「……」


 ライゾーは答えない。


 視線を逸らす。


 その間に。


「……ありがとう」


 先に言う。


 にこっと笑って。


 迷いなく。


「……」


 ライゾーの顔が、わずかに固まる。


 一瞬だけ言葉を失う。


 すぐに、顔を背ける。


「……別に」


 短く返す。


 それで終わらせるみたいに。


「急に倒れやがって……」


 続ける。


 少しだけ語気が強くなる。


「つーかおま、あ、アネモネは細すぎなんだよ。普段からもっとメシを――」


 言いながら、言葉が崩れていく。


 自分でも何を言ってるのか分かってない顔。


「……」


 アネモネは、それをじっと見ていた。


 きょとん、とした顔で。


 それから。


「……ふふ」


 小さく笑う。


 くすっと。


 こらえきれなかったみたいに。


「……は?」


 ライゾーの眉がぴくりと動く。


 その瞬間。


 全部、バレてる気がする。


 言葉にしてないのに。


 誤魔化してるのも。


 困ってるのも。


「……っ、なんだよ」


 声が荒くなる。


 怒ってるわけじゃない。


 ただ、逃げ場がない。


 アネモネは首をかしげる。


 本気で分かってない顔で。


 それが余計に、逃げ場をなくす。


「……ちっ、ギルド行ってくるわ」


 ぶっきらぼうに言って、立ち上がる。


 視線を合わせない。


 そのまま扉に向かう。


 一瞬だけ、止まりかける。


 振り返りそうになって。


 やめる。


「……」


 ドアを開ける。


 出ていく直前。


「……まだ寝てろよ」


 背中越しに投げる。


 ぶっきらぼうに。


 それだけ言って。


 そのまま出ていった。


 扉が、きしんで閉まる。


「……」


 静けさが戻る。


 アネモネは、そのまま少しだけ座っていた。


 考えて。


 それから、ぽつりと。


「……ほんと、へんなひと」


 小さく呟く。


 でも。


 その声は、少しだけやわらかかった。



 階段を降りる足音が、少しだけ乱れていた。


 ライゾーはそのまま外へ出る。


 朝の空気が頬に当たる。


 部屋の温度とは違う、冷たい空気。


「……」


 息を吐く。


 落ち着かない。


 さっきのやり取りが、頭に残っている。


「……なんだよ」


 小さく吐き捨てる。


 理由は分かっている。


 でも、言葉にできない。


 そのまま歩き出す。


 いつもの足取り。


 なのに、どこか噛み合っていない。


「……」


 ふと、視線が落ちる。


 自分の服。


 昨日とは違う、汚れていない服。


「……」


 一瞬だけ、足が止まる。


 そのまま何も言わず、また歩き出す。


 気にしていないふりをしながら。


 


 朝の空気は、少しずつ温度を上げていた。


 西区の通りは、もう完全に“朝の顔”に切り替わっている。荷を運ぶ音、声を張る商人、火を起こす匂い――夜の名残は、もうどこにも見えない。


 その中を、ライゾーは歩く。


 足取りは、いつもと同じ。


 速くもなく、遅くもない。


 誰にもぶつからない距離で、真っ直ぐに進む。


「……」


 それでも、どこか噛み合っていない。


 歩いている感覚だけが、少しだけ浮いている。


 さっきの部屋の空気が、まだ身体のどこかに残っているせいかもしれない。


「……」


 視線を上げる。


 ギルドの建物が見えてきた。


 見慣れた外観。


 鉄と木を無理やり繋ぎ合わせたような、無骨な造り。


 扉の前には、もう何人か人がいる。


 いつも通りの朝。


 いつも通りの場所。


 ――のはずだった。


 ギィ、と。


 扉を押し開ける。


 中の空気が流れ込む。


 鉄と油と、人の匂い。


 聞き慣れたざわめき。


 それらが一斉に、こちらにぶつかってくる。


「……」


 その中に、足を踏み入れる。


 いつも通りに。


 何も変わっていないつもりで。


「――おい」


 低い声が、飛んできた。


 ザンガだった。


 カウンターの奥で腕を組んだまま、こちらを見ている。


 視線が、妙に止まる。


「……あ?」


 ライゾーは、気のない返事をする。


「起きたぞ」


 それだけ言う。


「昨日の、あいつ」


 報告。


 それだけのつもりだった。


「……そうか」


 ザンガが短く返す。


 それで終わるはずだった。


 なのに。


 視線が、まだ外れない。


「……」


 エリナも、こちらを見ていた。


 書類を持ったまま、手が止まっている。


 ヒエンは、椅子に座ったまま、ぽかんと口を開けている。


「……なんだよ」


 ライゾーが眉をひそめる。


「なんか付いてるか?」


 いつも通りの声。


 いつも通りの態度。


 なのに。


 三人とも、同じ顔をしていた。


「……お前」


 ヒエンが、先に口を開く。


 ゆっくりと、指をさす。


「それ……どうした?」


「……は?」


 何のことか分からない顔。


「服だよ」


 エリナが言う。


 少しだけ目を細めて。


「綺麗すぎるんだけど」


「……」


 ライゾーの視線が、わずかに落ちる。


 自分の服。


 さっき、気にしないようにしていたそれ。


「……別に」


 短く返す。


 それで終わらせようとする。


「いやいやいや」


 ヒエンが身を乗り出す。


 にやにやと笑いながら。


「いやそれ、別にじゃねぇだろ。昨日までボロ布みたいなの着てたやつがさぁ」


 わざとらしく、上下に視線を動かす。


「急にちゃんとした格好してきてんの、普通に事件なんだけど?」


「……うっせぇな」


 ライゾーが顔をしかめる。


 でも、否定はしない。


「へぇ〜」


 ヒエンがさらに笑う。


「で、それ誰が用意したの?」


 一拍。


 わざと間を取る。


「……まさかとは思うけど」


 口角が上がる。


「アニー?」


「……」


 沈黙。


 ほんの一瞬。


 でも、それで十分だった。


「うわ、マジかよ」


 ヒエンが吹き出す。


「お前、それそのまま着て出てきたの!?素直かよ!!」


 その瞬間。


 空気が変わる。


「……あ?」


 ライゾーの目が、鋭くなる。


「いやいやいや、だってさ――」


 ヒエンが笑いながら続けようとした、その時。


 バキッ。


 鈍い音が響く。


「いってぇ!!」


 ヒエンが椅子ごとぐらつく。


 頬を押さえながら、涙目で振り返る。


「なにすんだよ!?」


「うるせぇ」


 ライゾーはそれだけ言う。


 視線も合わせない。


 ただ、鬱陶しそうに眉を寄せている。


「……ったく」


 舌打ち。


 そのまま踵を返す。


「起きたって言ったからな」


 ぶっきらぼうに、ザンガに向けて言う。


「それだけだ」


 それ以上は何も言わない。


 そのまま歩き出す。


「おい、どこ行く」


 ザンガの声。


「……そのへんだよ」


 短く返す。


 振り返らない。


 そのまま、扉を押し開ける。


 ギィ、と音がして。


 ライゾーは、また外に出ていった。


 扉が閉まる。


「……」


 少しの沈黙。


 残された三人が、同時に息を吐く。


「……あいつ」


 ヒエンが頬をさすりながら言う。


「殴ることねぇだろ普通に」


「殴るだろ」


 ザンガが即答する。


「図星突かれてんだから」


「……まぁ、それはそうだけどさぁ」


 ヒエンが苦笑する。


 エリナは、腕を組んだまま、少しだけ口元を緩めていた。


「……変わったわね」


 ぽつりと呟く。


「は?」


 ヒエンが振り向く。


「いや、変わったっていうか――」


 言い直す。


 少し考えてから。


「やっと、触れたって感じ」


「……ああ」


 ザンガが短く頷く。


 視線は扉の方へ向いたまま。


「人の温度にな」


「……」


 ヒエンが、少しだけ真面目な顔になる。


 さっきまでの軽さが、少しだけ抜ける。


「……そっか」


 ぽつりと呟く。


「初めてかもな、あいつ」


 それ以上は言わない。


 でも、三人とも分かっていた。


 あの無自覚なクソガキが、


 ようやく“普通の場所”に触れ始めたことを。


 そして。


 それが、もう戻れない変化だということも。


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