鋳鉄の雉亭
まだ陽が昇りきる前から、宿は動いていた。
通りに面した木の看板が、朝の白い光を受けて鈍く光る。黒ずんだ鉄の枠に打ち付けられたその板には、かすれた文字でこう刻まれていた。
――鋳鉄の雉亭。
飾り気のない名だった。
けれど、このあたりで働く人間にとっては、夜と朝の境目にある“台所”のような場所だ。
三交代で回る鋳物工場の連中、朝の市に向かう商人、夜を越えてようやく仕事を終えた者たち。そういう人間たちが、時間の隙間を縫うようにここへ流れ込んでくる。
だから、この宿に“朝”は一つじゃない。
誰かにとっての朝が、重なっている。
その重なりの中で――
「……よし」
アネモネは、小さく息を整えた。
腕いっぱいに抱えたシーツを、もう一度持ち直す。
ぱたん、と広げた布は思っていたよりも重くて、少しだけ手元が遅れる。
端が、床に触れた。
「あっ」
慌てて引き上げる。
そのまま整えようとして、今度は反対側がずれる。
うまくいかない。
それでも、やめない。
もう一度。
角を揃えて、広げて――
ばたばたと音が重なる。
まだぎこちない。
でも、その動きは止まらなかった。
「アニーちゃーん!」
階下から、声が飛んでくる。
ミソノだった。
朝の空気を切り裂くような、張りのある声。
「それ終わったら食堂のセッティングお願いできるかしらー!」
「はーい!」
アネモネは、少し大きめに返す。
その声が、自分でも少しだけくすぐったい。
“おしごと”をするようになって、二週間。
廊下の掃除も、部屋の空気の入れ替えも、シーツの交換も、食堂の準備も――ようやく一日の流れとして身体に馴染み始めていた。
最初は分からなかったことも、今は少しずつ分かる。
どの部屋が早く使われるのか。
どの時間帯に客が増えるのか。
どの席に、誰が座るのか。
それが全部、“流れ”として見えるようになってきた。
「……」
シーツを整え終えて、手を止める。
ふ、と息を吐く。
窓から入る空気が、少し冷たい。
それでも、嫌な冷たさじゃない。
胸の奥まで、まっすぐ通るような空気だった。
気づけば、この場所の匂いにも慣れていた。
鉄と油の街の中で、ここだけ少し違う。
木と、布と、食べ物の匂いが混ざった、生活の匂い。
「アニーちゃん」
そう呼ばれる声も、もう違和感がない。
最初は戸惑っていたはずなのに。
今は、自然に耳に入ってくる。
そのたびに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……」
ふと、手が止まる。
思い出す。
最近、あまり顔を見ていない。
あのぶっきらぼうな声も、少しだけ遠い。
「……」
ほんの一瞬だけ、考える。
それから、小さく首を振る。
「……よし」
もう一度、シーツを叩く。
ぱん、と軽い音が鳴る。
今は、やることがある。
それだけで、十分だった。
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
誰かが階段を上がる音。
下ではもう、食器の触れ合う音がし始めていた。
鋳鉄の雉亭の朝は、止まらない。
その流れの中に、自分がいる。
それだけで。
アネモネの一日は、ちゃんと前に進んでいた。
*
昼の熱が、ようやく引きはじめていた。
食堂の中には、まだ鉄板の余熱が残っている。油の匂いと、焼けた肉の香ばしさが、壁や床に染みついたまま、ゆっくりと空気にほどけていく。
鋳鉄の雉亭の昼は、戦場みたいなものだった。
三交代で流れ込んでくる工場労働者たちが、短い休憩の間に腹を満たし、酒も飲まずに去っていく。注文は早く、食べるのも早い。声は大きいが、滞在は短い。
それが、ようやく終わった。
「……ふぅ」
アネモネは、空になった皿を重ねながら、小さく息を吐く。
腕が少しだけ重い。けれど、動かないほどではない。
ミソノが、カウンターの奥で鉄板を拭いていた。
「アニーちゃん、水飲んどきな。夜はまた別の忙しさになるからね」
「うん、わかった」
言われた通り、水を口に含む。
少しぬるくなっている。それでも、喉に落ちていく感覚が、身体をゆっくりと落ち着かせてくれた。
外の光は、少しずつ色を変え始めている。
昼の白い光から、夕方の橙へ。
*
夜の鋳鉄の雉亭は、まるで別の場所になる。
扉が開くたびに、外の空気が流れ込んでくる。
昼とは違う匂い。
酒。
煙。
香水。
それに混ざる、甘ったるくて、少しだけ腐ったような匂い。
客の声も、変わる。
低くなる。
笑い方が変わる。
言葉の端に、棘が混ざる。
娼婦が肩を寄せて座り、ハンターがその隣で酒をあおる。工場帰りの男たちが、ようやく肩の力を抜いて、長く椅子に腰を落ち着ける。
同じ店なのに、流れている時間の重さが違う。
「はい、鋳物鉄板の牛ステーキ二つとエールね」
ミソノの声が飛ぶ。
鉄板の上で、肉が音を立てる。
じゅう、と油が跳ねて、火が一瞬だけ強くなる。
分厚く切られた牛肉が、熱を受けて色を変えていく。表面が焼けて、香ばしい匂いが立ち上る。
アネモネは皿を運ぶ。
まだ慣れきってはいない足取りで、それでも丁寧に。
「……お待たせ」
テーブルに置く。
鉄板の熱が、そのまま木の卓に伝わる。
目の前の客は、二人組のハンターだった。
装備のまま、椅子にだらしなく座っている。肩には埃が乗り、ブーツの先には乾いた泥がこびりついていた。
「お、いいねぇ」
ひとりが笑う。
フォークを刺して、そのまま肉を口に運ぶ。
「――あっちぃな、これ!」
「冷める前に食えってことだろ」
もうひとりが、エールをあおる。
泡が口元に残る。
拭いもせずに、笑う。
「いやあ〜この肉うめえなあ!……あ、そういやよ」
ぽつりと、片方が言う。
肉を噛みながら。
「聞いたか?」
「なにを」
「鬼の子の話だよ」
アネモネの手が、ほんのわずかに止まる。
皿を下げる途中だった。
足は止めない。
そのまま、動きながら耳に入ってくる。
「……ああ」
もうひとりが、興味なさそうに返す。
「東区のレニーにやられたってやつか」
「それそれ。珍しいよな、あいつがやられるの」
げらげらと笑う。
「まぁ縄張りまたぎゃ、そりゃやられるか」
「でもよ」
エールをもう一口。
「翌日には、ケロッとしてたらしいぞ」
「……は?」
「傷が、ほとんど残ってなかったって話だ」
フォークが止まる。
「んなわけあるかよ」
「だよなぁ」
肩をすくめる。
「でも見たやつが言ってた。あれは普通じゃねぇって」
「薬か?」
「さぁな。変なもん拾ったんじゃねぇの」
笑い声。
軽い。
でも、どこかで引っかかる。
「まぁ、あいつなら何しててもおかしくねぇけどな」
再び肉を切る。
話は、そこで終わる。
別の話題に移る。
どこの店が揉めたとか、どこの縄張りがどうとか。
いつもの、夜の雑談。
「……」
アネモネは、皿を持ったまま、一瞬だけ視線を落とす。
胸の奥が、少しだけざわつく。
“翌日には、治っていた”
それは。
自分がやったことだと、分かっている。
「……」
顔を上げる。
カウンターの方を見る。
ミソノがいた。
グラスを拭いている。
いつも通りの手つきで。
何も変わらない顔で。
でも――
聞いていた。
確実に。
今の会話を。
「……」
アネモネの視線に、ミソノが気づく。
ほんの一瞬だけ、目が合う。
そのまま。
ミソノは、視線を逸らす。
何事もなかったみたいに。
グラスを拭く手を止めない。
布が、ガラスをなぞる音だけが、静かに続く。
「……」
アネモネは、そのまま動けずにいる。
何か言われるかもしれない。
聞かれるかもしれない。
――どうしよう。
そう思った、その瞬間。
ミソノが、ほんのわずかに頷いた。
それだけ。
それだけで。
十分だった。
「……」
アネモネは、小さく息を吐く。
肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
そして。
「……はい」
誰に向けたわけでもない声で、小さく呟いて。
また、仕事に戻った。
夜の喧騒は、そのまま続いている。
何も変わらない。
けれど。
その中に、ひとつだけ。
確かな“居場所”が、そこにあった。




