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鬼の子と最後の魔女  作者: スパイシ〜しゃけ


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触らないで



 「……やめてください……」


 アネモネの声は震えていた。


 ツクヨミへ肩を掴まれたまま、息を荒げる。視界は滲み、鼻から落ちた血が唇を薄く濡らしていた。


 身体が寒い。


 芯から熱を持っていかれたみたいに、指先がうまく動かない。


 それでも、ライゾーの方へ目だけは向け続けていた。


 ツクヨミはそんなアネモネを睨み返したあと、ふいに視線をライゾーへ戻す。


「……まだ終わってない」


 低い声だった。


「こんなの、ありえない。こんな治り方するわけがない」


 その声には、恐怖ではなく苛立ちが混ざっている。


 理解できないものへの拒絶。

 世界が自分の理屈から外れていることへの怒り。


「ツクヨミ様」


 ウティカが静かに呼びかける。

 だがツクヨミは聞いていなかった。


「傷口を確認する。内部損傷がそんな簡単に――」


 次の瞬間、アネモネの身体が乱暴に突き飛ばされる。


「きゃっ……!」


 壁へ肩を打ち、そのまま崩れる。

 視界が揺れた。


 遠くでシェリルが「おい!」と声を上げるのが聞こえる。


 だがツクヨミは止まらない。

 包帯へ手をかける。


「や、やめ……」


 アネモネが震える声を漏らす。


 這うように前へ進む。


 腕へ力が入らない。

 それでも、ライゾーへ近づこうとする。


「お願い……やめて……」


 掠れた声だった。


 まるで懇願するみたいに、畳へ手をつきながら近づいていく。


 ツクヨミは、その声すら無視した。


「黙ってて」


 包帯を剥がす。


 べり、と湿った音。


「確認しなきゃ分からないでしょうが」


 ウティカは何も言わない。

 ただ静かにツクヨミへ器具を差し出している。

 その途中、一瞬だけアネモネへ視線を向けた。


 値踏みするような、観察するような冷たい目だった。

 だがすぐにまた、ツクヨミへ恭しく向き直る。


 アネモネの胸の奥で、何かがきしむ。


 怖い。


 苦しい。


 寒い。


 でも、ライゾーへ、もう触らないでほしかった。

 やっと呼吸が戻ったのに。

 やっと生き返ったみたいに温かくなったのに。


「……やめて」


 ぽつりと落ちる。


 ツクヨミは止まらない。

 器具を持ち直し、さらに包帯を剥がそうとする。


 その瞬間だった。


「……やめて!!!」


 真っ白な部屋へ、アネモネの声が響き渡った。

 空気が、びり、と震える。


「……っ?」


 最初に気づいたのはシェリルだった。


 風は無いのに、アネモネの薄翠色の髪が、ふわりと宙へ浮き上がっていた。


 白布がざわめく。

 誰も触れていないのに、天井から垂れた布がゆっくり波打ち始める。


 そして。


 ばちっ――。


 空気が裂けるような音が鳴った。

 アネモネの輪郭の周囲へ、淡い翡翠色の稲光が走る。


「……なに?」


 ツクヨミが息を呑む。


 それは、普通の雷ではなかった。

 もっと深く、もっと澄んだ色。

 森の奥深くで、誰にも見つからず眠っている鉱石みたいな色だった。


 雨上がりの葉脈。

 朝露を透かした木漏れ日。

 命そのものみたいな緑色の光。


 それが、アネモネの周囲で小さく弾け続けている。


 ばち、ばち、と。

 感情へ呼応するみたいに。


 怒りと恐怖と祈りが、そのまま自然現象へ変換されているみたいだった。


「……っ!」


 ウティカが初めて表情を崩す。

 手にしていた金属器具へ、翡翠色の火花が飛び散ったのだ。


 次の瞬間。


 ばちんっ!!


「……ッ!」


 強い衝撃。


 静電気なんて比じゃない、小さな雷撃だった。

 ウティカの指先が弾かれ、器具が床へ落ちる。

 がちゃん、と乾いた音が響く。


 ツクヨミが振り返る。


「何してんのよ!」


 苛立った声。

 だが、その直後だった。


 ライゾーの周囲の空気が、まるで陽炎のようにゆらり、と揺れ始めた。

 翡翠色の微細な光が漂っている。


 まるでライゾーそのものを守る膜みたいに。


「……っ」


 ツクヨミが目を細める。

 恐る恐る、指先を伸ばした。

 触れた瞬間。


 ばちっ!!


「――ッ!!」


 翡翠色の電撃が走る。

 ツクヨミが反射的に手を引いた。

 小さな火花が指先で散る。


「な、に……これ……」


 初めてだった。


 ツクヨミの顔へ、“理解できない恐怖”が浮かんだのは。

 彼女はゆっくり顔を上げる。

 そして、アネモネを見た。


「……」


 アネモネは肩で息をしていた。


 鼻血が顎を伝っている。

 額には脂汗。

 呼吸は乱れ、今にも倒れそうだった。


 それでも、その瞳だけは強かった。

 涙で滲みながらも、真っ直ぐツクヨミを見返している。


 怯えている。


 怖がっている。


 それでも、退かない。


「……お願いだから」


 掠れた声。


「もう……やめてください……」


 その声が落ちた直後だった。


 かくん、とアネモネの膝から力が抜ける。


「あ……」


 (倒れる)

 そう思った瞬間。


 後ろから、太い腕が身体を支えた。

 ぐっと抱き止められる。

 革と煙草の匂い。

 大きくて、熱い腕。


 その脇を、黒ずくめの細身の影が静かに追い越していく。


 かつ、という硬い靴音。

 その瞬間、部屋の空気がさらに冷えた気がした。


 肩上で切り揃えられた黒い髪。

 静かな目。

 腰に下がった刃。


 ぼやけていく視界の中で、その姿だけが妙にはっきり見える。


「……あ」


 安心したのか、そこでようやく、アネモネの意識は暗闇へ沈んでいった。

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