届いた祈りと届かなかった理屈
キリーダ人街を抜けてから、“そこ”へ辿り着くまでは思っていたより早かった。
だが、近づくにつれて、空気が変わっていくのが分かった。
通りを歩く人間の目線。
声量。
流れる空気。
北区の中でも、この辺りだけ妙に静かだった。
「……」
アネモネは足を止める。
目の前には、大きな門があった。
黒塗りの重たい門扉。
高い塀。
瓦屋根。
提灯の薄明かり。
まるで絵本に出てくるお屋敷みたいな造りなのに、漂っている空気はもっと生々しい。
威圧感。
ここが“赤天狗一家の本部”だった。
門の両脇には、厳つい男が二人立っている。
腕を組み、黙ったまま周囲を見張っていた。
アネモネは咄嗟に物陰へ身を隠す。
「……っ」
怖い。
喉が乾く。
なんて声をかければいいのか分からない。
ここへ来ればライゾーに会えるかもしれない。そう思って走ってきた。けれど、いざ目の前まで来ると、身体が動かなくなる。
もし追い返されたら。
もし怒鳴られたら。
もし――また暗がりへ引きずられたら。
雨の日の記憶が蘇る。
泥水。
濡れた路地。
掴まれた腕。
ついさっき、西区で路地裏へ連れ込まれそうになった感触まで一緒に蘇ってきて、アネモネは無意識に自分の腕を抱いた。
「……」
本当に怖かった。
けれど。
(……行かなきゃ)
ここまで来たのだ。
泣きながらでも。
震えながらでも。
ライゾーを置いて帰るなんて、もう出来ない。
アネモネは小さく息を吸った。
そして、今度は“飛び出す”のではなく、ちゃんと前を向いて歩き始める。
門まで、およそ二十メートル。
一歩進むたび、砂利の音が妙に大きく聞こえた。
門番の男たちが、こちらを見る。
「……」
鋭い目だった。
だが、不思議と“敵意”ではない。
むしろ、
(なんだあれ?)
そんな風に見ている感じだった。
それでも、怖いものは怖い。
心臓の音が、自分でも分かるくらい大きい。
喉が詰まりそうになる。
門の前まで辿り着き、そして。
「あ、あのっ……!」
声が少し裏返る。
「わたし、アネモネ、といいます……」
門番の男たちが顔を見合わせる。
アネモネはぎゅっと拳を握った。
「ライゾーは……こちらに、いらっしゃいますか……?」
沈黙。
門の向こうから風が吹き抜ける。
やがて、門番の一人がゆっくり口を開きかけた、その時だった。
「――アンタね。入って」
聞き覚えのある声だった。
「……っ」
アネモネが振り返る。
そこに立っていたのは、赤髪の少女だった。
強気な目。
不機嫌そうな顔。
気怠そうな立ち方。
ビッグブリッジで会った少女。
髪の色はあの時とは違うが、粉うことなくシェリルだった。
「ですが……」
門番が口を挟む。
だがシェリルは即座に睨み返した。
「うっさい。アタシの知り合いだから」
ぴしゃりと言い放つ。
「親父にはアタシから言っとくから」
その一言で、門番たちは押し黙った。
アネモネは目を瞬かせる。
シェリルはそんな彼女の腕を、ぐいっと掴んだ。
「……着いてきて」
「あ、っ」
思わず変な声が漏れる。
シェリルはそのままずかずか歩き始めた。
門をくぐった瞬間、空気がまた変わった。
広い中庭。
古い木造建築。
朝なのにまだ灯っている提灯。
遠くで聞こえる怒鳴り声。
男たちが行き交っている。
みんな鋭い目をしていた。
その視線が、一瞬ずつアネモネへ刺さる。
「……っ」
肩が強張る。
ここは自分の知っている世界じゃない。
西区とも、雉亭とも違う。
暴力と威圧で出来た場所。
そんな匂いがした。
「あっ……」
シェリルの歩く速度についていけず、アネモネが少しよろける。
するとシェリルが、チッ、と舌打ちした。
「……ライゾーはこっちだから」
冷たい言い方だった。
でも、ライゾーの名前をやっと聞けた。
「……!」
胸が強く跳ねる。
会える。
もう少しで。
けれど同時に、屋敷の空気が妙に重いことにも気づいていた。
誰も笑っていない。
慌ただしい。
張り詰めている。
穏やかじゃない。
その空気だけで分かってしまう。
これから、自分はきっと“何か”を見る。
それが怖くて、アネモネの身体はまた少しだけ強張った。
*
「……入って」
シェリルはそれだけ言うと、襖を乱暴に開けた。
びり、と紙の擦れる音がする。
アネモネは息を呑んだ。
「……っ」
そこは、異様な部屋だった。
屋敷の一室なのは分かる。
畳の匂いもするし、柱も古い木造のままだ。けれど、その上から“何か別のもの”を無理やり被せているような、不自然さがあった。
壁一面へ、真っ白な布が垂らされている。
天井にも。
窓にも。
まるで、“清潔な部屋”を真似しようとしているみたいだった。
だが、薬品の匂いを誤魔化すように、強い香草と消毒酒の匂いが混ざっていた。
中央には、大きな灯り。
まるで舞台のスポットライトみたいに、ただ一箇所だけを照らしている。
その下に。
「……ライゾー!」
アネモネの声が裏返った。
ライゾーが寝かされていた。
上半身は裸。
腹から脇腹にかけて包帯が巻かれている。
だが、その白はもう半分以上赤く染まっていた。
顔色が悪い。
呼吸も浅い。
汗で濡れた黒髪が額へ張り付き、唇も乾いている。
まるで、命だけが少しずつ抜け落ちているみたいだった。
「……っ」
アネモネの足が震える。
その横で、
「ウティカ、押さえて」
鋭い声が飛んだ。
知らない女だった。
薄青い髪。
鋭い目。
白衣のような上着。
年齢はアネモネより少し上くらいに見える。だが、その目だけは異様な熱を宿していた。
彼女は血で濡れた器具を持ったまま、苛立ったように舌打ちする。
「だからそこ固定しろって言ってるでしょうが」
「失礼しました、ツクヨミ様」
静かな声。
黒服の青年が立っていた。
背が高い。
細い。
感情が薄い。
だが、その目だけは熱っぽいほどツクヨミを見つめている。
黒服の青年ーーウティカと呼ばれた彼は淡々と布を押さえながらも、どこか恍惚とした顔でツクヨミの作業を眺めている。
崇拝。
そんな言葉が似合う目だった。
「……あと少しなのよ」
ツクヨミが呟く。
その声には焦りより、“確信”があった。
「内臓損傷。出血。感染。全部理屈は分かってる」
器具を持つ手は迷わない。
「塞げばいい。洗えばいい。繋げばいい。人体なんて結局は構造物なんだから」
彼女はそう言い切った。
まるで、壊れた機械でも直すみたいに。
だが。
ライゾーの呼吸が、急に乱れる。
「っ……!」
びくり、と身体が跳ねた。
喉の奥から濁った音が漏れる。
「……?」
ツクヨミの眉が動く。
「おかしい」
さらに器具を動かす。
「おかしい、おかしいおかしい……」
だが、血が止まらない。
傷口の周りの包帯の赤が広がる。
ライゾーの指先が冷えていく。
呼吸が、浅くなる。
「なんでよ」
ツクヨミが低く呟く。
「理論上は合ってる。縫合位置も、洗浄も、処置も間違ってない」
その声には、“自分への疑い”がまるで無かった。
間違っているのは世界の方だと言わんばかりに、彼女は食い下がる。
「こんなの、治るはずでしょうが……!」
その瞬間、ライゾーの身体から、ふっと力が抜けた。
「……っ」
アネモネの心臓が止まりそうになる。
このまま、本当に死んでしまう。
「やだ……」
声が漏れる。
ツクヨミはまだ何かを叫んでいる。
ウティカは静かに器具を渡している。
だが、もう駄目だと、アネモネには分かってしまった。
「ライゾーが……」
涙が滲む。
「ライゾーが死んじゃう……!」
気づけば身体が動いていた。
「ちょっ――」
誰かが声を上げる。
だがアネモネは止まらない。
ライゾーへ駆け寄り、そのまま覆い被さるように抱きしめた。
冷たい。
こんなに体温、低かったっけ。
「お願い……!」
アネモネは必死に祈る。
ただ、祈る。
理屈なんて分からない。
でも、まだ死なないでほしい。
もっとぶっきらぼうに笑ってほしい。
また隣を歩いてほしい。
「お願い……お願いだから……!」
その瞬間だった。
ふわり、と。
部屋の空気が揺れる。
風はないのに、壁へ垂らされた白布が静かに波打った。血と薬品の匂いの中へ、雨上がりの草原みたいな青い香りが混ざる。
光は、最初からそこにあったみたいに滲み出してきた。
新緑の朝露を溶かしたような、やわらかな光。
それはアネモネの指先から零れ、抱きしめたライゾーの身体へ染み込んでいく。傷を塞ぐというより、冷えていく命の奥へ、もう一度あたたかい朝を届けているみたいだった。
「……っ?」
シェリルが目を見開く。
「な……」
ツクヨミの声が止まった。
血の滲んでいた包帯が、ゆっくり赤を止めていく。
裂けた皮膚が寄り合い、乱れていた呼吸が少しずつ整う。青白かった頬に、ほんのわずか血の色が戻っていく。
奇跡、という言葉でしか表現し得ないことが目の前で起きていた。
静かな、けれど、確かな奇跡。
「……っ」
アネモネの鼻から、つう、と血が落ちる。
視界が滲む。
……寒い。
急に身体の熱が抜けていく。
それでもアネモネは、ライゾーを離さなかった。
やがて、光が静かに消える。
部屋には、息を呑む音だけが残っていた。
「……なんで」
最初に口を開いたのはツクヨミだった。
震えていた。
怒りとも、歓喜ともつかない声。
「何をしたのよ……!」
次の瞬間、彼女はアネモネの肩を掴んでいた。
「どうしたらこんなことが出来るの!? どうして治るの!? 何よそれ、何なのよ!!」
目が、狂気みたいに揺れていた。
憧れ。
嫉妬。
執着。
全部が混ざっている。
アネモネは息を荒げながら、小さく首を振る。
「わ、わたしはただ、死なないでって……」
「ふざけないで!!」
ツクヨミが叫ぶ。
「そんな曖昧なもので、人が助かるわけ――」
「ツクヨミ様」
静かな声が落ちた。
ウティカだった。
彼はゆっくり前へ出る。
口元は笑っている。
だが、目が笑っていなかった。
「……この娘から詳しくお話を聞かせてもらいましょう」
その声音は穏やかだった。
穏やかなまま、底だけが凍っている。
「あなた方赤天狗一家はツクヨミ様へ依頼し、私が場を整え、最高の環境を用意した」
一歩。
また一歩。
「そこへ突然どこの馬の骨かもわからぬ娘が現れて、“奇跡”で全部持っていかれるとは」
ウティカは微笑む。
恐ろしいほど静かに。
「……私達に、泥を塗ってくれましたね?」
魔法の描写、とても難しいです…
楽しんで描かせていただいてます
読んでくださる方、ありがとうございます!




