ちいさな大冒険
アネモネは、まだ走り続けていた。
北区へ入ってから、どれくらい経ったのかはもう分からない。息はとっくに上がっているし、脚も重い。それでも止まれなかった。
止まった瞬間、不安まで追いついてきそうだったからだ。
湿った朝の空気を吸い込みながら角を曲がる。
その瞬間、ふわりと香りが変わった。
「……あ」
思わず足が止まる。
そこは、見覚えのある通りだった。
青い布。
吊るされた乾燥肉。
色鮮やかな香辛料の山。
焼いた羊肉の脂の匂いに、炒ったクミンの香ばしさが混ざる。さらに奥からは甘いミント茶の香りが漂い、炭火の煙が薄く通りを撫でていた。
朝だというのに、もうパンを焼いている音がする。
平たい生地を窯へ叩きつける音。
鉄鍋を振る音。
キリーダ語の怒鳴り声と笑い声。
北区の中でも、この辺りだけ空気が違う。
異国の市場みたいだった。
ムンドたちのいる、青のキリーダ人街。
「……」
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
知っている場所だ。
知っている匂いだ。
けれど。
安心しかけた次の瞬間、アネモネはようやく気づいてしまった。
自分は、何も考えずに飛び出してきてしまったのだと。
ライゾーが危ない。
それだけで走ってきた。
だが、北区へ来たところで、どこへ行けばいいのか分からない。誰に聞けばいいのかも分からない。
走る速度が落ちる。
やがて歩きになり、その歩幅も少しずつ小さくなっていった。
途方に暮れる。
人の多い通りの真ん中で、自分だけが迷子みたいだった。
その時だった。
「あっ!!」
甲高い声が響く。
「お姉ちゃんだー!!」
聞き覚えのある声だった。
アネモネが顔を上げる。
通りの向こうで、子どもたちがこちらを指差していた。ムンドの商店で走り回っていたキリーダの子どもたちだ。
五人、六人。
わっと集まってくる。
その後ろから、ゆったりした歩幅で大きな影が近づいてきた。
「あらぁ?」
低く、よく通る声。
「どうしたのさ、こんなところで!」
シャーリアだった。
相変わらず恰幅が良く、布袋いっぱいの野菜を片手で抱えている。肝っ玉そのものみたいな女だった。
以前会った時、アネモネは密かに思ったのだ。
(……ミソノさんも、将来こうなるのかな)
と。
「ライゾーとは一緒じゃないのかい?」
シャーリアが不思議そうに首を傾げる。
その瞬間だった。
「……っ」
胸の奥に張っていたものが、一気に緩んだ。
北区へ来てから初めて会った、“知っている人”。
その安心感と、ここまで一人で走ってきた不安が、全部まとめて押し寄せてくる。
いけない、と思った。
泣いちゃだめだ。
ちゃんと話さなきゃ。
そう思ったのに。
「……っ、ぅ……」
ぼろ、と涙が落ちた。
「あらあら」
シャーリアが目を丸くする。
次の瞬間には、アネモネの頭が大きな胸の中へすっぽり収まっていた。
「よしよし。どうしたんだい」
ぽん、ぽん、と背中を叩かれる。
大きい。
温かい。
母親みたいな匂いがした。
それだけで、涙が止まらなくなる。
「うわっ、お姉ちゃん泣いてる!」
「おっきいのに泣いてるー!」
「お前たち!そういうこと言うんじゃないよ!」
子どもたちがわあわあ騒ぐ。
シャーリアが一喝すると、全員ちょっとだけ静かになった。
アネモネはしばらく、わんわん泣いてしまった。
自分でも驚くくらい涙が出た。
西区から北区まで、一人で来た。
怖かった。
知らない人に絡まれた。
路地へ引っ張られた。
ライゾーが危ないかもしれない。
いろんなものを、ずっと我慢していたのだと、その時ようやく気づいた。
「……っ、ご、ごめんなさい……」
我に返り、慌てて顔を上げる。
涙を拭う。
「だ、大丈夫です……その、わたし……」
「うんうん。落ち着いて話しな」
シャーリアは急かさなかった。
だからアネモネも、ひとつずつ言葉を探しながら話し始める。
フェスのこと。
ライゾーがカッツの屋台を手伝っていたこと。
そのあと、“シェリル”という女の子を北区まで送ると言っていたこと。
そして。
そこから消息が分からなくなったこと。
命に関わる怪我をしている、と聞いたこと。
ぽつり、ぽつりと。
途切れながらも、アネモネは全部話した。
シャーリアは腕を組み、静かに聞いていた。
だが。
「……シェリル」
その名前が出たあたりから、少しだけ眉間へ皺が寄る。
面倒な相手にまた絡まれたねぇ、という顔だった。
「……なるほどねぇ」
話を聞き終えると、シャーリアはふう、と息を吐いた。
それから少し考える。
「ライゾーはたぶん、“赤天狗一家”の屋敷にいるんだと思うよ」
「……っ!」
アネモネが顔を上げる。
だが、次の言葉は重かった。
「ただねぇ……」
シャーリアが困ったように頭を掻く。
「あんた一人じゃ、あそこには入れないんだ」
「……え」
「赤天狗一家は北区の顔役だ。部外者がふらっと入れる場所じゃない」
周囲の空気が少しだけ張る。
キリーダ人街の子どもたちですら、なんとなく黙っていた。
「困ったねぇ……」
シャーリアが腕を組む。
「お父ちゃんがいりゃ話は早いんだけど、今ちょうど倉庫街の方なんだよ。あるいは、赤天狗側の関係者でもいれば――」
“お父ちゃん”。
ムンドのことだろう。
アネモネは、ぎゅっと服の裾を握った。
ムンドには会ったことがある。優しくて、大きくて、街のみんなから慕われている人だということも分かっている。
でも。
あの人は、ライゾーにとっての“大人”だ。
世話になっている相手であって、自分の友達ではない。
そんな相手に、いきなり助けを求めるなんて。
(……そんなの、烏滸がましいよね)
アネモネは小さく俯いた。
勢いだけで飛び出してきてしまった。
何も準備していない。
北区のことも知らない。
赤天狗一家のことも分からない。
怖い、という気持ちだけでなく、自分の無鉄砲さへの反省もじわじわ押し寄せてくる。
振り出しに戻ってしまった。
そんな気がした。
「……」
けれど。
アネモネはゆっくり顔を上げる。
ここまで来たのだ。
怖かった。
何度も泣きそうになった。
それでも、自分の足で北区まで来た。
それなら、ここで諦めちゃいけない。
行ってみなければ、きっと分からない。
胸の奥で、小さな火みたいな感情が揺れる。
怖い。
でも、行きたい。
ライゾーの顔を見たい。
その気持ちが、アネモネをもう一度立たせた。
「あ、あの……!」
アネモネが勢いよく顔を上げる。
「シャーリアさん……その、お屋敷の場所、教えていただけませんか!?」
子どもたちが「おぉっ」と目を丸くする。
シャーリアも一瞬ぽかんとした。
「わたし、行かなきゃいけないんです」
息はまだ荒く、目元も泣いたあとで赤い。
それでも、声だけは震えていなかった。
「……」
シャーリアは少し黙る。
その目で、じっとアネモネを見ていた。
試すように。
あるいは、本気かどうか確かめるみたいに。
「……何かされることは、まぁ無いと思うけどねぇ」
やがて、観念したように息を吐く。
「相手は赤天狗一家だ。おっかない連中なのは間違いないよ」
そして、指を一本立てた。
「いいかい。絶対に変な真似するんじゃないよ?」
「……はい!」
「あと、アタシもお父ちゃんには伝えとく。“アニーが赤天狗の屋敷に向かった”ってね」
アネモネの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます……!」
「まだ礼言うには早いさ」
シャーリアは苦笑した。
そのまま、近くではしゃいでいた子どもの一人から紙をひったくる。
「あーー!それオレのおえかき!」
「うるさいね、あとでパンやるから貸しな!」
さらに別の子どもから色鉛筆を奪う。
「うわっ、母ちゃんまた強盗してる!」
「誰が強盗だい!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ子どもたちを無視しながら、シャーリアはその場へしゃがみ込んだ。
紙を膝へ広げる。
そして迷いなく線を引き始めた。
「……」
アネモネは思わず見入ってしまう。
てっきり大雑把な地図が出てくるのかと思った。
だが違った。
通り。
市場。
橋。
倉庫街。
目印になる店。
必要な情報が、驚くほど分かりやすく描かれていく。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
シャーリアは鼻を鳴らした。
「北区で道覚えられなきゃ生きてけないからねぇ」
地図の上を、太い指が辿る。
「今いるのがここ。キリーダ人街」
さらに指が動く。
「で、赤天狗一家の屋敷はこの辺りだよ」
中心街とキリーダ人街の間。
思っていたより、ずっと分かりやすい場所だった。
むしろ、“見せつけるように”そこにある。
北区の顔役とはそういうことなのだろう。
「……これなら」
アネモネが小さく呟く。
「わたしでも、行けそうです」
「行けるのと、無事に帰ってこれるのは別だからね?」
シャーリアが釘を刺す。
だが、その声はどこか優しかった。
アネモネは地図を両手で受け取る。
それから深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます!」
「お姉ちゃんがんばれー!」
「泣くなよー!」
子どもたちも口々に騒ぐ。
アネモネは思わず少し笑ってしまった。
正直、怖い。
でも、一人じゃない気がした。
「……行ってきます!」
そして再び走り出す。
キリーダ人街を抜けて。
北区の中心へ。
赤天狗一家の本部へ向かって。




