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アネモネ


雨は、いつの間にか止んでいた。


さっきまであんなに強く降っていたのに、

空はもう、何事もなかったみたいに薄く白んでいる。


濡れた石畳が、ぼんやりと朝の光を反射していた。

水たまりの表面が、ゆっくりと揺れている。


アネモネは、歩いていた。


大通り。


人の数は、少しずつ増えてきている。


荷車を引く男。

店先の布を叩いて水気を払う女。

遠くでは、蒸気の抜けるような音がしていた。


――シュー……ッ


金属の匂いが、微かに混じる。


(……変わった街)


思わず、そう思う。


石造りの建物の合間に、

鉄で補強された骨組みのようなものが見える。


煙突のようなものからは、細い煙が立ち上っていて、

どこか息苦しい。


緑が、少ない。


土の匂いより、

油と鉄の匂いのほうが強い。


「……」


お腹が、きゅう、と鳴った。


思わず、お腹に手を当てる。


(……お腹、すいたな……)


小さく、息を吐く。


そういえば。


――お金が、ない。


「……あ」


立ち止まる。


今さら気づいた、みたいに。


(わたし……)


視線を落とす。


濡れたスカートの裾。

泥が跳ねている。


靴も、ぐしゃぐしゃだ。


(……どうしよう)


胸の奥が、じわっと冷たくなる。


これまで、そんなことで困ったことなんて――


一度も、なかった。


「……」


思い出す。


静かな屋敷。


朝露に濡れた庭。


風に揺れる花。


遠くで鳴く鳥の声。


「アネモネ」


低く、よく通る声。


振り向けば、いつも父がいた。


厳しい顔。


でも、目は優しかった。


「朝のうちに書物を終わらせなさい。午後は自由にしていい」


「はい、お父様」


きちんと背筋を伸ばして、答える。


そのあとで。


こっそりと庭に出て。


「ねぇ、今日はどんなお話してくれるの?」


花に話しかけて。


くすくすと、笑う。


そんな日々。


そして――


十八の誕生日。


母の部屋。


カーテンの向こうから差し込む、柔らかな光。


いつもより、少しだけ真剣な顔で。


母が、言った。


「あなたは魔女の末裔。だけどこの力は絶対に人に話してはいけないわ。あなたが好きな花も、虫も、鳥も、話ができるのも、自然があなたを愛してくれているのも、あなたが魔女だから。だから絶対に人には言ってはいけないわ。お父様にも、ね。」


その声は、やさしかった。


けれど、どこか――


祈るようだった。


「……どうして?」


そう聞きかけて。


でも、聞けなかった。


母の手が、少しだけ震えていたから。


「……」


アネモネは、ゆっくりと目を開ける。


現実。


ここは、知らない街。


見知らぬ人間たち。


知らない音。


知らない匂い。


そして。


――自分は、ひとり。


「……」


喉が、きゅっと締まる。


お金はない。


付き添いもいない。


頼れる人もいない。


それどころか。


――追われている。


「……っ」


足が、少しだけ止まる。


(わたし……これから……)


今日を、どうやって生きればいいのか。


明日なんて、考えられない。


怖い。


怖い。


怖い。


でも――


泣いても、誰も来ない。


助けてくれる人なんて、もう。


「……」


ふと。


空を見上げる。


雲の隙間から、淡い光が差し込んでいた。


その光を見たとき。


不意に、思い出す。


雨の中。


あの瞬間。


目の前に立っていた――


ぼろぼろの少年。


乱れた髪。


汚れた服。


無造作に持たれていた、鉄の棒。


冷たい目。


なのに。


「……」


――怪我はしてねぇな。


その声が、蘇る。


ぶっきらぼうで。


乱暴で。


でも。


(……助けてくれた)


胸の奥が、少しだけあたたかくなる。


「……」


名前も知らない。


どこにいるのかも知らない。


でも。


あの少年だけは――


この街の中で、唯一。


「……知ってる人」


ぽつりと、小さく呟く。


その声は、すぐに朝のざわめきに溶けていった。



朝の湿気が、まだ街に残っている。


石畳の隙間に溜まった水は、

踏むたびに鈍い音を立てて跳ねた。


「今日は西から回るぞ」


バールを肩に担ぎながら、ライゾーが言う。


その横で、算盤を軽く弾く音が鳴った。


パチ、パチ、と乾いた音。


「はいはい。昨日取りこぼした分もあるしね。あと、あそこの薬屋、先月ちょっと渋ってたから気をつけて」


ヒエンは帳簿に目を落としたまま、淡々と答える。


真っ赤な髪が、朝の光に少しだけ透ける。


「……そうだった」


「覚えてるならいいけどさ。ライゾー、あんた気分で動くからなぁ」


「うるせぇ」


「いやほんと。昨日もさ――」


「うるせぇって言ってんだろ」


軽く舌打ち。


ヒエンは肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。



通りを進む。


店の扉が一つ、また一つと開いていく。


布屋の婆さんが、こちらに気づいて小さく頭を下げた。


「……おはようさん」


「……ああ」


短く返す。


それだけでいい。


それ以上の言葉はいらない。


この辺り一帯――


ここは、ライゾーたちの“縄張り”だ。


誰が守っているのか。


誰に金を払えば、面倒が起きないのか。


それを、皆が知っている。


「今月分、頼む」


ヒエンが一歩前に出て、帳簿を開く。


声は柔らかいが、逃げ場はない。


婆さんは何も言わず、袋を差し出した。


中身を、ヒエンが軽く確認する。


「……うん、問題なし。ありがとね、ばーちゃん」


にこ、と笑う。


その笑顔に騙されるやつもいるが、

こいつの中身はそこまで甘くない。


ライゾーは何も言わず、その場を離れた。


カラ、とバールが揺れる。



そんなやり取りを、いくつか繰り返す。


馴染みの店。

初めての顔。

金払いのいいやつ。

悪いやつ。


全部、覚えている。


この街で生きるってのは、そういうことだ。


「……次、屋台だな」


「お、いいね。あそこの親父、今日もなんかくれるかな」


ヒエンが少しだけ声を弾ませる。


「食いもん目当てかよ」


「当然でしょ。ウチら、慈善活動してるわけじゃないんだからさ」


「……違ぇねぇ」



屋台の前。


油の匂いが、じわっと広がる。


「おう、来たか」


親父が顔を上げる。


無精髭を撫でながら、にやっと笑った。


「いつもありがとよ。これ、持ってけ」


紙に包まれたそれを、ぽんと差し出してくる。


受け取る。


まだ温かい。


油の香りと、白身魚の匂い。


「……おっちゃん、悪いな」


「いいってことよ。お前らがいるから、この辺はまだマシなんだ」


「……そうかよ」


それ以上は言わない。


ヒエンが横からひょいっと一つつまむ。


「うまっ。やっぱここ最高だわ」


「おい、全部食うなよ」


「一個くらいいいじゃん〜。あ、モルトビネガー今日はついてる!ラッキー」



歩きながら、食う。


油が指に滲む。


塩気が強い。


でも、それがちょうどいい。


ふと、視線を上げる。


通りの先。


ブロックの境目。


少しだけ空気が変わる場所。


そこに――


「……」


見覚えのある姿があった。


きょろきょろと、周囲を見回しながら歩いている。


場違いなほど、綺麗な服。


濡れて少し汚れているが、それでもわかる。


「……アイツ、なんでまたこの辺うろついてんだよ……」


ぽつりと、呟く。


ヒエンがその視線を追う。


「あれ?」


少しだけ目を細めて。


「えっなにライゾー。あの女の子知り合い?すげえ身なりイイじゃん。金になりそ〜」


ギロリ。


視線を向ける。


「……」


何も言わない。


ヒエンは一瞬だけ固まって。


「……じょ、じょーだんだよ」


ひらひらと手を振る。


「顔が怖ぇっての」


「お前が余計なこと言うからだろ」


「はいはい」


軽く流す。


でも、もう一度だけアネモネの方を見る。


「……にしても、あんなのがこの辺歩いてるって、普通じゃないよね。迷い込んだって感じでもないし」


「……」


ライゾーは答えない。


ただ、少しだけ眉をひそめる。


違和感。


あの女は――


この街の人間じゃない。


なのに。


なんで、まだここにいる。


「……」


胸の奥に、ざらついたものが残る。


――関係ねぇ。


そう思う。


思うのに。


視線が、外れない。


「そんなことよりもさ」


ヒエンが、帳簿を軽く叩く。


「一応ギルドに顔出しといた方がいいんじゃないか?今月のノルマも終わってないし」


「あ……」


ライゾーは顔をしかめる。


露骨に、面倒くさそうに。


「そうだったな……あーだりい」


「だりいで済ませるなっての。あそこサボると普通に干されるからね?」


「わかってるっつーの……」


頭を掻く。


ギルド。


この街で“仕事”を回してる連中。


用心棒だろうが、荷運びだろうが、

討伐だろうが、何だろうが。


全部、あそこを通る。


顔を出さなきゃ、回ってこない。


逆に言えば。


――顔を出してる限り、食いっぱぐれはしない。


「……行くか」


ぼそりと呟く。


「はいはい。最初からそう言ってよ」


ヒエンが軽く笑う。


二人は、そのまま歩き出す。


ギルドのある通りへ。


その途中で。


ライゾーは、もう一度だけ振り返った。


さっきの場所。


あの少女は――


もう見えなかった。


「……」


小さく舌打ちする。


カラカラ、とバールが揺れた。


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