祭りの熱が冷めたあと
フェスの終わりと共に、“特別営業日”も幕を下ろした。
夜通し開いていた鋳鉄の雉亭は、朝方になる頃にはもう戦場みたいな有様だった。空になった皿。転がる酒瓶。積み上がった洗い物。鉄板の熱気だけが、まだ店の奥に残っている。
普段なら、ミソノとアネモネの二人で十分回る店だ。
だが、フェスの日だけは別だった。
橋の下で夜を明かした連中が、そのまま流れ込んでくる。酔っ払い。踊り疲れたやつ。何かをキメて腹を空かせたやつ。始発まで時間を潰すやつ。
そういう人間が、朝まで途切れない。
だから今日だけは、臨時でアルバイトを二人入れていた。
結果から言えば、正解だった。
ただし。
「……むり……」
「もう鉄板の音聞きたくないっス……」
二人とも完全に燃え尽きていた。
営業終了後、厨房の隅でぐったりしている。魂が半分抜けている顔だった。
アネモネは思わず苦笑する。
「お、お疲れさまでした……」
自分も疲れている。
腕は重いし、足もじんじんする。油と煙の匂いが服に染み込んでいた。
それでも、今日は止まれなかった。
「そっち終わったらテーブルお願い!」
「はいっ……!」
「洗い物はあとでまとめます!」
「了解!」
営業中は、ずっとそんな調子だった。
注文を通し、皿を下げ、水を替え、席を回し、厨房へ声を飛ばす。気づけば自分が自然と指示を出していた。
ミソノは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「……」
口には出さない。
だが。
(成長したねぇ)
そんな顔をしていた。
最初の頃のアネモネなら、客に声をかけられるだけで慌てていた。だが今は違う。
忙しさの中でも周りが見えている。
どこが詰まり、誰が困り、何が足りないのか。ちゃんと考えて動けるようになっていた。
まさに獅子奮迅。
そんな一晩だった。
*
数時間だけ仮眠を取ったあと、再び店へ戻る。
昼前。
外は薄曇りだった。
湿気は残っているが、昨日みたいな強い雨ではない。空気だけが、まだ少し重たい。
店の中では、アネモネが椅子を下ろしていた。
テーブルへ逆さに上げていた椅子を、一脚ずつ戻していく。床はさっき掃いたばかりで、まだ少し湿っていた。
ミソノはカウンターを拭いている。
「そっち終わったかい?」
「うん、あと窓だけ拭きます!」
「ありがとねぇ」
鉄板も磨き終わっていた。
昨夜の熱気は、もう残っていない。
だが。
時間は待ってくれない。
夜通し営業だろうが、フェス明けだろうが、昼はまた来る。
いつものランチタイムが始まる。
「……」
アネモネは窓を拭きながら、ぼんやり外を見る。
少し眠い。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
疲れている。
けれど、店が回った達成感みたいなものもあった。
「……ふふ」
小さく笑ってしまう。
そんなアネモネを見て、ミソノが呆れ半分で言う。
「元気だねぇアンタ」
「えっ、そ、そんなこと……」
「若いってすごいねぇ」
「ミソノさんだって全然元気だよ?」
「気力で動いてんの」
からから笑う。
その笑い方が、なんだか少しだけ嬉しそうだった。
だが、その日の昼営業は、驚くほど静かだった。
いや。
静かというより、暇だった。
「……いや〜〜人、来ないねぇ」
ミソノがぽつりと呟く。
昼時だというのに、客足が鈍い。
原因は分かっていた。
フェスだ。
夜通し騒いでいた連中が、今頃みんな死んだように寝ている。
この辺り一帯が、祭りの反動で“凪”になっていた。
「……ちょっと助かったかも」
アネモネが小さく言う。
ミソノも苦笑した。
「正直、アタシもそう思ってる」
もし今日まで混んでいたら、さすがに身体が持たなかった。
少しだけ羽を休める時間。
それが、今だった。
午後にはまた買い出しがある。
宿の部屋も整えなければいけない。チェックアウトとチェックインの合間で、掃除と準備もある。
期待できないだろう夜営業が、また静かに始まる。
祭りの翌日は、いつもそんなもの。
窓の外では、雲の切れ間から少しだけ陽が差していた。
*
夜営業が始まった。
とはいえ、店の空気は静かなままだった。
フェスの翌日。
街全体が、まだ寝ぼけている。
窓の外を歩く人影も少ない。昼間よりは多少戻ったが、それでも普段に比べればずっと静かだった。
鉄板の音だけが、小さく店内へ響いている。
「……今日は暇だねぇ」
ミソノがカウンターを拭きながら呟く。
アネモネも頷いた。
「みんな、まだ寝てるのかな……」
「だろうねぇ。あんだけ騒いでたんだ、そりゃ屍にもなるさ」
ミソノが苦笑する。
だが、そんな中でも予約が一件だけ入っていた。
紙へ書かれた名前を見て、アネモネは小さく首を傾げる。
「……“KATZ’S GRILL”?」
見たことのない名前だった。
「あー、アニー」
ミソノが顔を上げる。
「あの窓側の四人席、予約札置いといて。セットは二人分でいいからね」
「はーい!」
アネモネがぱたぱたと動く。
窓際の席へ札を置き、カトラリーを並べる。グラスも二つ。テーブルクロスの皺を軽く伸ばし、椅子の位置も整えた。
その時だった。
ちりん。
入口のベルが鳴る。
「ミソノさん、お疲れ様」
低い声。
アネモネが振り返る。
入口には、大柄な男が立っていた。
無精髭が印象的で、目つきは鋭い。
だが、不思議と威圧感はない。むしろ妙な安心感がある。山みたいな雰囲気だった。
その隣には、黒髪の女。
ショートボブ。
黒装束。
すらりと長い手足。
派手ではないのに、目を引く。
何より、瞳だった。
静かで、深い。
吸い込まれそうな奥行きがある。
綺麗だ、と思った。
同時に、少しだけ怖そうだとも思う。
「……ミソノさん、お久しぶりです」
女が静かに言う。
「あの、チーズステーキ……」
「あるさ!」
ミソノが即答した。
そのまま大股で近づき、男の肩をばんばん叩く。
「カッツが、“チトがアレ楽しみにしてるから頼む”なんて言ってたよー、この男が!」
「いててっ、わかった、わかったから」
大柄な男――カッツが苦笑する。
頭一つ小さいミソノに叩かれて、ぺこぺこしている姿が妙におかしかった。
アネモネは思わず小さく笑ってしまう。
「……お?」
カッツがこちらを見る。
「この子が噂の」
「ああ、アニーだよ」
ミソノが言う。
「最近うちで頑張ってくれてる子さ」
アネモネは慌てて姿勢を正した。
「は、はじめまして!」
ぺこりと頭を下げる。
「アネモネといいます。アニーって呼んでください!」
「おう、よろしくなアニー」
カッツが笑う。
気さくな声だった。
その横で、チトは何も言わなかった。
ただ一度だけ、こちらをちらりと見る。
静かな視線。嫌な感じではなく、寧ろ好意的な視線だった。
「……」
(……綺麗なひと……)
アネモネは内心でそっと呟く。
なんというか、空気が違った。
静かなのに目立つ。
ちゃんと疲れているはずなのに、妙に姿勢が綺麗だ。
旅慣れている人。
そんな感じがした。
「カッツ」
チトが席へ座りながら言う。
「今日は飲むんだからね。あんたも付き合って」
「へいへい」
カッツが頭を掻く。
慣れた返事だった。
「じゃあ、とりあえずエール二つ。それと乾き物なんか適当に頼むわ」
「はいよ」
ミソノが笑う。
ほどなくして、ジョッキが運ばれる。
琥珀色の泡が揺れた。
「かんぱーい」
意外なほど軽い声で、チトがジョッキを掲げる。
カッツも小さく笑いながらそれを合わせた。
乾いた音が鳴る。
その空気を見て、アネモネはなんとなく理解する。
(……フェス関係の人たちなんだ)
だから疲れている。
でも、どこか楽しそうだった。
戦いが終わったあとみたいな空気。
それを見ていると、こちらまで少し安心する。
(よし……!)
アネモネは胸の前で小さく拳を握る。
疲れていないわけじゃない。
むしろ身体はかなり重い。
だが。
ちゃんと労わりたい、と思った。
この人たちにも、温かい時間を過ごしてほしい。
そんな気持ちが、自然と湧いていた。




