嫌な予感
「……わー」
控えめな声だった。
けれど、確実に嬉しそうだった。
運ばれてきたチーズステーキサンドを前に、チトが小さく顔の前で手を合わせる。待ってました、と全身で言っているみたいなのに、本人はそれを隠しているつもりらしい。
その様子を見て、カッツがふっと笑った。
「そんな好きか?」
「……好き」
即答だった。
チトは包み紙を開き、そのまま大きく頬張る。
焼いた牛肉。
溶けたチーズ。
炒め玉ねぎ。
噛んだ瞬間、じゅわ、と肉汁が滲む。
「……っ」
目が少し細くなる。
分かりやすい。
カッツは頬杖をついたまま、その顔を眺めていた。
「お疲れさん」
「……あんたも」
静かな声。
でも、空気は柔らかい。
その光景を見ていたアネモネは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
(……いいなぁ)
自然にそう思う。
賑やかなわけじゃない。
派手でもない。
なのに、二人の周りだけ妙に落ち着いている。
疲れたあとに、ちゃんと帰ってくる場所みたいな空気だった。
少しだけ、憧れる。
そんなことを考えていた時だった。
店の扉が勢いよく開く。
「アニーおつかれぇ〜」
聞き慣れた声。
ヒエンだった。
そのまま隣の席へどかっと座る。
しかも一人じゃない。
隣には、艶っぽい女がぴったり身体を寄せていた。
長い睫毛。
甘い香水。
酔った目。
ターニャだった。
完全に出来上がっている。
「ひえんさぁん〜……もう飲みすぎぃ……」
「だいじょーぶだいじょーぶ。まだ飲める」
そう言いながら、着席した瞬間さらに酒を頼み始める。
アネモネは少しだけ目を丸くした。
(まだ飲むんだ……)
ヒエンはへらへら笑いながら周囲を見回す。
そして、ふと気づいたように言った。
「そういやさ、ライゾーは?」
チトの肩がぴくりと動く。
「あいつ、チトさんにしごかれてクッタクタだったっしょー?」
完全に軽口だった。
だが。
「……」
チトがゆっくり顔を上げる。
さっきまでの、“わー”とか言っていた少女みたいな顔はもう消えていた。
いつもの目。
静かで、冷たい目。
ギロリ、とヒエンを見る。
「……こえー」
ヒエンがへらへら笑う。
酔っているせいか、いつもみたいに本気では怯えていない。
チトは小さく息を吐いた。
「……ライゾーは、ちゃんとやってた」
一拍。
「ソースだって出来よかったし、よくやってくれた」
その言葉を聞いた瞬間。
アネモネがぱっと顔を上げる。
驚きと、少しの嬉しさが混ざった顔だった。
「ライゾー、頑張ってた……んですね!」
思わず身を乗り出す。
「そういえば、まだ帰ってきてないんですけど……」
その瞬間だった。
カッツとチト、二人の顔が同時に止まる。
「……あ」
カッツが小さく声を漏らす。
チトも、何か嫌なことを思い出したみたいに眉を寄せた。
二人で顔を見合わせる。
「あー……」
カッツが頭を掻く。
「あいつ、北区のシェリルをたぶん介抱しながら送ってるわ」
「……にしても、この時間まで帰ってきてないのは遅いな」
チトが低く呟く。
ヒエンは酒を煽りながら笑った。
「またどっかで揉め事起こしてんじゃないのー?」
へらへらしている。
「まあ、あいつに限っては大丈夫だと思うけど」
「それなんだが……」
カッツがふいに荷物を漁り始める。
ごそごそと音がして、次の瞬間。
どん、と鈍い音がテーブルへ置かれた。
バールだった。
「……あ」
ヒエンの酔った顔が少しだけ固まる。
チトが呆れたように言う。
「あいつ、これ忘れてったのよ」
「うわ、マジかよ……」
ヒエンが顔をしかめる。
ライゾーにとって、ほぼ身体の一部みたいなものだ。
それを忘れるのは珍しい。
アネモネだけが、まだ状況を掴みきれていない顔をしていた。
「……?」
その時だった。
ちりん。
入口のベルが鳴る。
だが、さっきまでとは空気が違った。
店の空気が、ぴり、と張る。
入ってきたのは、数人の男たちだった。
大柄。
無骨。
顔つきが鋭い。
しかも全員、明らかに怒気を纏っている。
店内を見回す視線が鋭かった。
誰かを探している。
その瞬間。
ヒエンの酔いが少しだけ引いた。
カッツも、静かに目を細める。
チトは無言のまま、男たちを見ていた。
*
店の空気が、ぴたりと止まっていた。
ついさっきまで響いていた皿の触れ合う音も、酒の笑い声も消えている。客たちは食事の手を止め、入口へ立つ男たちを固唾を呑んで見つめていた。
湿った夜気だけが、わずかに店内へ流れ込んでくる。
その沈黙を破ったのはミソノだった。
腕を組み、一歩前へ出る。
「……誰か探してるのかい?」
店主としての声だった。強く、低く、客を守る側の声音。
男の一人が答える。
「あなたが、ここの責任者ですか? ライゾーという男がここへ住んでいると、街の者たちに聞いて来ました」
アネモネの肩がぴくりと揺れる。
ライゾー。
その名前を聞いた瞬間、自然と耳がそちらへ向いていた。
店の客たちも完全に固まっている。フォークを持ったまま止まっている者、ジョッキを宙で止めたままの者までいた。
静かだった。
嫌な静けさだった。
ミソノは怯まない。
「他の客がビビっちまってるじゃないか。なんなんだい、あんたらは」
男たちは顔を見合わせる。
すると、一番奥に立っていた大柄な男が、小さく頭を下げた。
「ああ、すみません。おい、お前ら、店の外に出てろ」
低い一声。
それだけで他の男たちは無言で外へ出ていく。
少しだけ空気が軽くなる。
だが、緊張は残ったままだった。
カッツは静かに男たちを見ている。
その隣では、チトがいつの間にか腰へ手を添えていた。
自然な動きだった。
あまりにも自然すぎて、普通なら気づかない。
だがカッツだけは見ていた。
マチェット。
もう半分ほど抜きかけている。
カッツは無言で手を出した。
――やめろ。
そういう意味だった。
チトは一瞬だけ不満そうに目を細める。
それでも刃は抜かない。
男は再びミソノへ向き直った。
「実は、うちのお嬢がフェス帰りに暴漢へ襲われまして」
静かな口調だった。
「幸い怪我はなく、無事に戻られたのですが……ライゾーも一緒でして」
その瞬間、アネモネの身体が強張る。
怖い。
けれど、聞かなければいけない。
いつの間にかミソノの後ろへ寄っていた。服の裾を、小さく掴んでいる。
男は深く頭を下げた。
「彼は現在こちらで保護しています。ただ、怪我の具合が悪い。正直なところ……危ないです」
その言葉が落ちた瞬間、アネモネの頭の中で何かが真っ白になった。
ライゾーが。
危ない。
その一文だけが、何度も反響する。
「お嬢を助けていただいたことへの礼と、今の状態をお伝えするため、私たちが来ました」
男の声はまだ続いていた。
だが、もう半分も耳へ入っていない。
「……っ」
気づけば、身体が動いていた。
「ミソノさん、ごめんなさい!」
小さな影が、勢いよく飛び出す。
「アニー! まだ話が――」
ミソノの声は最後まで届かなかった。
扉が大きく開き、夜の湿った風が一気に店内へ流れ込む。
アネモネはそのまま駆け出した。
北へ。
ビッグブリッジへ。
以前ライゾーと一緒に歩いた道を、今度は一人で。
肺が痛い。
息が苦しい。
それでも止まれなかった。
胸の方が、もっと苦しかったからだ。
頭の中へ浮かぶのは、あの雨の日ばかりだった。
乱暴な口調。
不器用な優しさ。
初めてのお使いで、隣を歩いてくれた背中。
「ライゾー……!」
涙が滲む。
それでも足は止まらない。
西区の住人たちが、不思議そうにその姿を見送っていた。
夜の路地を、緑髪の少女が必死に駆け抜けていく。
そのあとへ零れ落ちた涙の雫だけが、街灯の光を受けて、小さくきらきらと輝いていた。




