満身創痍のその先に
「ちゃんとメジャーカップで測って」
チトの声が飛ぶ。
ライゾーは反射的に手を止めた。
「……測ってるよ」
「今、目分量で入れようとした」
「してねぇ」
「した」
即答だった。
しかも見ていたらしい。背中に目でも付いてるのかこの女は。
ライゾーは黙ってメジャーカップを持ち直す。
「あと、こぼしたらすぐ拭き上げる!」
「……はい」
「もうすぐソースボトル入れ替えね。ヨーグルトとディル、ちゃんと混ぜておいて」
「ディルってどっちだ」
「緑のやつ」
「緑多すぎんだろこの台」
「匂いで覚えて」
「無茶言うなよ……」
返した瞬間、次の声が飛ぶ。
「ライゾー!そっちのソース切れる!」
「はいはい!」
「はいは一回」
「……はい」
もう反論する気力も薄れてきていた。
次から次へと指示が飛んでくる。作業台の上は常に何かが足りず、何かが溢れ、何かが焼け、何かが無くなる。
客は止まらない。
橋桁の下は相変わらず熱気に包まれていて、低いビート音が腹の奥に響き続けていた。
「……っ」
ライゾーはソースを混ぜる。
混ぜたと思ったら補充。
補充したと思ったら次。
次が終わったらまた次。
まるで戦闘だった。
しかも、一対一じゃない。
次々に新手が出てくる。
絡め手を仕掛けてくるやつ。
飛び道具を投げてくるやつ。
真正面から突っ込んでくるやつ。
全部を同時に捌いている感覚に近い。
しかも休めない。
少し止まった瞬間、次の客が来る。
「……なんだよこれ」
思わず呟く。
今まで何度か客としてこの屋台を使ったことはある。
フェスの日も、週末の混雑も見たことはあった。
その時は、
(忙しそうだな)
くらいにしか思っていなかった。
だが、実際に中へ入ると全然違う。
忙しいなんてもんじゃない。
まるで難易度高ランクの戦場だ。
「ライゾー!手止まってる!」
「止まってねぇ!」
「止まってた!」
チトの声が容赦なく飛ぶ。
ライゾーは無言でディルを刻み始めた。
*
どれくらい時間が経ったのか、もうよく分からなかった。
ライゾーがここへ来たのは、たしか日が落ちて少しした頃だったはずだ。
だが、顔を上げると景色が変わっている。
ステージではスモークが焚かれ、色とりどりの光線が橋桁の下を横切っていた。踊り続けているやつもいれば、座り込んで笑っているやつもいる。うなだれて眠りかけているやつもいた。
空気は酒と汗と煙草とスパイスの匂いで重い。
「……」
目がしょぼつく。
空を見上げる。
橋の向こう、遠くの空がほんの少しだけ薄くなり始めていた。
もうすぐ朝だった。
「……俺、夜通しやってたのかよ」
小さく呟く。
そのまま視線を横へ流す。
カッツがいた。
額には汗を浮かべている。
だが、動きは最初からほとんど変わっていない。
肉を削ぐ。
焼く。
巻く。
渡す。
その合間にも客へ冗談を飛ばし、一人ひとりに声をかけている。
「兄ちゃんまた来たな」
「姉ちゃん、それ飲みすぎんなよ」
「おっ、今日は彼女連れか?」
そんな言葉を自然に挟みながら、それでも手は止まらない。
チトも同じだった。
ライゾーやヒエンへの当たりは相変わらず雑だし、愛想がいいタイプでもない。
だが客への対応は違う。
にこやかに受け答えし、世間話をし、酔っ払いをいなし、時には迷惑客へ静かに圧をかける。
実際、一度だけ絡んできた男がいた。
だが。
「……次やったら、川に沈めるからね?」
チトが笑顔でそう言った瞬間、男は真顔で去っていった。
「……」
ライゾーはその背中を見送りながら、小さく息を吐く。
――すげぇな。
素直に、そう思った。
ただ飯を売ってるわけじゃない。
空気を回している。
場を作っている。
人を集めている。
この熱気そのものを動かしているみたいだった。
「……」
俺はどうなんだろう。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
俺もいつか。
この人たちみたいに、熱意を持って、楽しんで、それで食っていけることに出会えるのだろうか。
考えた瞬間、自分で少し笑いそうになる。
「……ガラにもねぇな……」
ぽつりと漏れる。
そういえば最近の自分は少しおかしい。
前なら、こんなこと考えなかった。
今日を終わらせることだけで精一杯だったはずだ。
何が変わった。
変わったことは――
「……」
ひとつしか思い浮かばなかった。
雨の匂い。
薄暗い路地。
震えていた緑髪。
そして。
あの明け方。
アネモネを助けた、あの雨の日だけが、妙に鮮明に浮かんでいた。
*
朝が来た。
橋の向こうから、じわじわと空が白み始める。
夜通し鳴っていたビートはいつの間にか止まり、さっきまで暴れていた光も消えていた。残っているのは、朝焼け前の薄青い空気と、湿った地面に転がる紙コップや煙草の吸い殻だけだ。
フェスは終わった。
誰かが終わりを宣言したわけじゃない。
ただ、陽が昇ったから終わる。
それだけだった。
橋桁の下にいた連中が、ぞろぞろと階段を登っていく。
踊り明かしたやつ。
飲み潰れたやつ。
目がどこも見ていないやつ。
中には、明らかに“何か”をキメていた顔のまま朝日を浴びている連中もいる。
足取りは重い。
ふらふらと揺れながら、それでも帰っていく。
その姿は、生ける屍みたいだった。
「……この世の終わりみてぇだな」
ライゾーがぼそりと呟く。
そして、そのまま大きく息を吐いた。
「やっと終わったのか……」
「は?」
即座に返ってくる声。
チトだった。
「あんた何言ってんの。まだここからだからね、あたしたちの仕事は」
慈悲がない。チトは現金を数えながらじっとりとした目でこちらを見ながら言う。
ライゾーはその場でがっくり肩を落とした。
「……マジかよ」
だが、その横でカッツはもう動いている。
鉄板の火を落とし、炭を金属製の壺へ移していく。さらに回転肉焼き器――スピットについた焦げと脂を布でごしごしと拭い、作業台も手際よく磨き上げていく。
動きに無駄がない。
徹夜明けとは思えなかった。
「カッツさん、炭、地面に捨てちゃえば?」
ライゾーが疲れた声で言う。
するとカッツは、消し壺へ炭を入れながら笑った。
「ライゾー、よく頑張ったな。いやー今回もすげぇ勢いだったな」
まず労いから。
そのあとで、
「言いたいことはわかる。でもな、こうやって消し壺に炭を入れて無酸素にする。するとこいつが次の屋台の時、めちゃくちゃ優秀な火種になるんだよ」
炭を軽く叩く。
「だから水かけたり砂かけたりして消さない。まあ、知恵みたいなモンだな」
「……へぇ」
ライゾーは少しだけ感心した声を出した。
その横で、チトが作業台を拭きながら口を開く。
「……この人さ、屋台終わったあとに“いた形跡”残さないんだよ」
布を絞る。
「なんだっけ。“立つ鳥跡を濁さず”だっけ?」
ちら、とカッツを見る。
「カッツがよく言ってるやつ。あんたのいたとこの言葉なんでしょ?」
「あー、まぁそんな感じだな」
カッツは苦笑しながら答えた。
「場所借りて商売してる以上、来た時よりちょっと綺麗にして帰るくらいがちょうどいいんだよ」
「……」
ライゾーはその言葉を聞きながら、橋桁の下を見渡す。
意味のないことに見える。
だが、たぶん違う。
この人はずっと、そうやって生きてきたんだろう。
意味があるからやるんじゃない。
やる事に意味があるからやる。
そんな感じだった。
「……カッツさんらしいな」
ぽつりと漏れる。
「ん?」
「いや、なんでもねぇ」
ライゾーは首を振った。
するとカッツがふっと笑う。
「ところでライゾー、本当に今夜は助かったよ。礼を言う」
そう言って、懐から紙幣を取り出した。
「報酬はギルドから受け取ってくれ。それとは別に、これは俺の気持ちだ」
三枚。
この街なら、三食食って、一晩寝てもまだ余るくらいの金額だった。
「……あ」
ライゾーが目を瞬かせる。
「……ありがと」
礼を言い慣れていないせいで、声が妙に小さくなる。
その瞬間。
ごつん。
「いってぇ!?」
脛に硬い衝撃が走った。
片脚を抱えて飛び跳ねる。
チトのマチェットだった。
正確には刃じゃない。
背の部分。
「な、何すんだよ!?」
「今夜のうちのホワイトソース、いつもより出来よかった」
チトは淡々と言う。
「……え」
珍しく褒められた。
一瞬だけライゾーが固まる。
だが、その直後。
「で、アレ、あんたの連れ?」
チトが顎で遠くを示した。
「手振ってるけど」
「……?」
ライゾーがそちらを見る。
朝靄の向こう。
橋の階段あたり。
ふらふら揺れる影。
酒瓶。
そして。
「……げ」
へべれけに酔っ払った女。
いや。
少女だった。
赤天狗一家のトップ。
シェリル。
にやにや笑いながら、大きくこちらへ手を振っている。
――面倒事の匂いしかしなかった。




