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鬼の子と最後の魔女  作者: スパイシ〜しゃけ


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静かな戦いのはじまり



 梅雨の夕方だった。


 空は灰色のまま沈み込み、細い雨だけが静かに降り続いている。止みそうで止まない湿気が街じゅうにまとわりつき、鋳鉄の雉亭の窓も薄く曇っていた。


 だが、店の中はそんな空気を押し返すみたいな熱気に包まれている。


 鉄板の焼ける音。皿のぶつかる音。肉を叩く音。客の笑い声。臨時で入った給仕たちが狭い通路を慌ただしく行き交い、湯気と匂いが店の中に充満していた。


 今日は“フェス”の日だ。


 橋桁の下で開かれるあの祭りの日は、普段とは比べ物にならないくらい人が流れる。飲み屋も屋台も、今日は最初から全力で回さなければ追いつかない。


 雉亭も例外じゃなかった。


「アニー!!」


 扉を開けた瞬間、ミソノの声が飛んだ。


「おかえり!!」


 返事をするより早く、勢いそのままに抱きしめられる。


「わっ――」


 籠を受け取る前だった。


「よく頑張ったねぇ!!」


 ぎゅう、と力強い腕に包まれる。胸元に顔が埋まりそうになりながら、アネモネは目をぱちぱちさせた。


「ひ、ひゃ……」


「ちゃんとできたじゃない!えらいえらい!」


 わしゃわしゃと頭を撫で回される。


 まるで、小さな子どもが初めてのお使いを終えて帰ってきたみたいだった。


 けれど、その温もりは不思議と嫌じゃない。


 むしろ胸の奥が、少しだけ熱くなる。


「……」


 アネモネは目を細める。


 あたたかい。


 抱きしめられた感触の奥に、ぼんやりとした記憶が重なった。遠い昔、誰かにこうして抱きしめられたような、そんな曖昧な感覚。


「……ただいま、です」


 小さく返すと、ミソノは満足そうに何度も頷いた。


「うんうん、おかえり!」


 その様子を少し離れた場所で見ていたライゾーは、ふっと口元を緩める。


 だが、次の瞬間だった。


「……」


 背筋に、嫌なものが走る。


 冷たい。


 妙に冷たい。


「……あ」


 そこでようやく思い出した。


 自分の依頼が、まだ終わっていないことを。


 むしろ、ここからが本番だ。


 脳裏に浮かぶのは、じっとりとした目と、無表情と、腰に下げられたマチェット。


『……遅かったわね』


 そんな未来予想図が鮮明に浮かぶ。


「……まずい」


 思わず呟いた。


「ん?どうしたのライゾー」


「……いや、俺もう行くわ」


 即答だった。


「え?」


「依頼、まだ終わってねぇ」


 それだけ言い残して踵を返す。


 ミソノが「あっ」と声を上げる頃には、もう扉を開けていた。



 グリーンリバーの橋桁下は、完全に別世界になっていた。


 低いビート音が腹の奥に響く。湿った空気には酒と煙草とスパイスと、甘ったるい匂いが混ざり、橋の柱には巨大な曼荼羅布が吊るされている。頭上を渡された万国旗が風に揺れ、その下では酔っ払いと踊り子と訳の分からない格好をした連中が入り混じって騒いでいた。


 雨すら、この空間では演出みたいだった。


「……っ」


 ライゾーは人混みを縫うように走る。荷車が邪魔で早く走れない。

 嫌な予感しかしない。


「まずいな……」


 珍しく焦っていた。


 橋の奥から、香辛料の匂いが抜けてくる。

 煙が見える。


 ――いた。


 だが、思わず足が止まる。


「うわ……」


 声が漏れた。


 長蛇の列だった。


 橋脚沿いに客が並び、その先でカッツが肉を削いでいる。巨大な塊肉から迷いなく削ぎ落とし、鉄板へ投げ、焼き上がった肉をポテトと一緒に薄焼きパンへ流し込んでいく。


 完全に戦場だった。


「ハァ……ハァ……」


 ライゾーが駆け寄る。


「カッツさん、チトさん、ごめ――」


 そこで止まった。


 ギロリ。


 チトがこちらを見ている。


 笑顔だった。客向けの、愛想のいい笑顔。


 だが、目だけがまったく笑っていない。


 ライゾーには分かる。


 この女、今ので二、三回は自分を殺した。


 そんな視線だった。


「おお、ライゾー!」


 対照的に、カッツは明るかった。


「助かったよ!」


 絶対に助かっていない。


 もうとっくに修羅場だ。


 それでも声を荒げることなく、肉を削ぎながらライゾーへ笑いかけている。


 次の瞬間、ぐいっと襟首を掴まれた。


「……ずいぶん遅かったわね」


 チトだった。


 笑顔のまま。


 怖い。


「ま、まぁ……ちょっと色々……」


「……まだ時間ある?」


「よ、予定はないけど……」


 そのまま裏手を顎で示す。


「はい。アンタ、後ろの作業台」


「……え」


「ソース作って」


 にっこり笑う。


「レシピ置いてあるから」


 断れる空気じゃなかった。


 腰のマチェットが、妙に鈍く光って見える。


「……やるしかねぇか」


 ライゾーはがっくり肩を落とし、そのまま素直に裏へ回った。


 途中でふと顔を上げる。


 少し離れた場所。


 ヒエンがいた。


 酒瓶を片手にへらへら笑い、横にはターニャを連れている。完全に出来上がっていた。


 しかも、こっちに気づいている。


 ひらひらと手まで振ってきた。


「よぉライゾ――」


「……」


 ライゾーの目が細くなる。


「……あいつ、あとでぶっ飛ばす」


 低く呟き、視線を落とす。


 清潔に拭き上げられた作業台が、演出の様々な色を反射させ、キラキラと輝いている。


 綺麗な字で、丁寧に書かれたレシピ。


 わかりやすく整えられたソースの配合。


 祭りの喧騒の裏側で、別の戦いが静かに始まっていた。

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