目が少し良くなる魔法
北区を出てからも、アネモネの足取りはどこか軽かった。
荷車の横を歩きながら、何度も籠の中を見てしまう。ちゃんと受け取った。ちゃんと頼まれたものを揃えた。ひとりで店に入って、話して、受け取ってきた。
不格好だったとは思う。
噛んだし、緊張もしたし、途中で頭の中が真っ白にもなった。
それでも。
「……ふふ」
小さく笑みが漏れる。
胸の奥が、まだぽかぽかしていた。
初めてのお使い。
それをちゃんとやれたことが、思っていたより嬉しかった。
ライゾーは、その横をいつもの調子で歩いている。荷車を引きながら、前を見たままぽつりと言った。
「ちゃんとミソノさんに渡すまでが依頼だからな」
「……!」
アネモネの背筋がぴんと伸びる。
そうだった。
まだ終わっていない。
受け取って終わりじゃない。届けるまでが仕事だ。
そうだった。浮かれていた自分が少しだけ恥ずかしくなる。
ライゾーたちが普段やっている依頼も、きっと同じなのだ。討伐なら倒して終わりじゃない。証拠を剥ぎ取り、持ち帰って、報告して、ようやく依頼完了になる。
危ない場所へ行くことだけが仕事じゃない。
最後まで終わらせることが仕事なのだ。
「……」
アネモネは少しだけ俯いた。
「ライゾーたちって、すごいね」
「……あ?」
「危ないところにも行くし、ちゃんとお仕事してて……」
少しだけ笑う。
「わたしなんて、こんなことで浮かれちゃってた」
自嘲みたいな言い方だった。
ライゾーは少しだけ眉を動かしたが、すぐに前へ視線を戻した。
「仕事の大小で、偉いとかすごいとかねぇよ」
荷車の車輪が、濡れた石畳を鳴らしていく。
「目的達成したんだろ。まずは成功だ」
一拍置く。
「はじめての仕事、うまくいってよかったな」
「……!」
アネモネが目を丸くする。
胸の奥が、じわっと熱くなった。
嬉しい。
たぶん、すごく。
けれど。
「あーでも」
ライゾーが続ける。
「まだ終わってねぇからな。油断はするなよ」
顔は真面目なままだった。
「……う、うんっ!」
アネモネが慌てて頷く。
気合を入れ直す。
ちゃんと届ける。
最後までやる。
それが仕事だ。
「……よし」
小さく拳を握る。
ライゾーはそれを横目で見て、少しだけ口元を緩めた。
*
ビッグブリッジへ差しかかる頃には、雨はかなり弱くなっていた。
川はまだ茶色く濁っている。重たい水が、唸るみたいに下を流れていた。
橋を歩きながら、アネモネはふとアストリアの顔を思い出す。
小さな眼鏡。
紙を読む時、顔を近づけていたこと。
「……」
見えにくいのかな。
そう思った。
あの優しいおばあちゃんも、普段から困っているんだろうか。
胸の奥で、小さく願う。
文字が見えやすくなりますように。
困らなくなりますように。
目が、少しでも楽になりますように。
それは声にもならない、ただの願いだった。
誰かを助けたいとか、すごいことをしたいとか、そんなものじゃない。
ただ、優しいだけの、小さな願い。
*
アストリア生活用品店では、いつも通りの夕方が流れていた。
「えーっと……」
アストリアが注文書を広げる。
小さな眼鏡を押さえながら、いつものように紙へ顔を近づける。最近は特にひどかった。少し離れるだけで文字がぼやけるし、夜になるともっと見えない。
だから今日も、そのつもりだった。
だが。
「……あら?」
手が止まる。
見える。
妙にはっきりと。
「……おや?」
注文書を離してみる。
もう一度見る。
それでも、ちゃんと読めた。
「……見える……?」
小さく呟く。
そんなはずはない。
いつもの距離なのに、文字がぼやけない。紙を顔の近くまで持っていかなくても、離れた場所の細かい文字まで読める。
目を細めなくても。
手探りで探さなくても。
ちゃんと、見えている。
「……まあ」
アストリアはゆっくり瞬きをした。
それから、小さく笑う。
「神様がプレゼントしてくれたのかしら」
窓の外を見る。
雨は、ほとんど止んでいた。
「ありがとうございます」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。ただ、自然に口から出た。
視界が明るい。
若い頃みたいに。
「……不思議なこともあるものねぇ」
ふと、美しい淡い緑色の髪をした少女を思い出す。
緊張した顔で店へ入ってきた、やさしそうな目をした女の子。
「……アニーちゃんのおかげだったりして」
くすりと笑う。
窓の外には、灰色の雲の切れ間から、薄い光が静かに差し込んでいた。




