赤天狗一家のシェリル
ビッグブリッジの上は、風が強かった。
西区を抜けたあたりから雨脚は弱まっていたが、その代わりに湿った風が川沿いを抜けてくる。濡れた外套の裾が揺れ、橋の欄干に打ちつけられた雨粒が細かく散った。
橋の下では、川が荒れている。
茶色く濁った水が、大きくうねりながら流れていた。普段はもっと穏やかだ。だが、この時期は違う。雨が続くと上流から土が流れ込み、水嵩も変わる。
時折、ごう、と低い音が橋脚の下から響いてくる。
アネモネは欄干越しに川を見下ろした。
「……すごい色」
「今日はまだマシな方だ」
ライゾーが前を向いたまま答える。
「もっと降ると、木とか死体とか普通に流れてくんだよ」
「し、死体……?」
「浮浪者とか酔っ払いとかな。落ちるやつがいる」
淡々と言う。
脅かすつもりはない。ただの事実だった。
アネモネは少しだけ顔を引かせる。
その反応を横目で見て、ライゾーは小さく鼻を鳴らした。
「まあ、今日は流れてねぇよ」
「……そういう問題かなぁ」
ぼそりと返す。
そのまま二人で歩く。
橋は長い。中央に近づくにつれ風も強くなり、川幅も広がって見えた。
「ここ、潮の匂いするんだね」
アネモネがふと呟く。
ライゾーが頷く。
「ああ。汽水域だからな」
「きすい……?」
「海の水と川の水が混ざる場所」
欄干を軽く叩く。
「満ち引きもある。満月の日は流れ変わるし、たまに逆流みたいになる」
珍しく、よく喋っていた。
アネモネもそれに気づいているのか、少し不思議そうに横顔を見る。
「ヒエンなんか、ガキの頃よくここで釣りしてたらしいぞ」
「ライゾーも?」
自然に返ってくる。
「小さい時からここで遊んでたの?」
その瞬間だった。
ライゾーの足が、わずかに止まる。
風だけが抜ける。
「……いや」
視線は前。
川を見ている。
「俺は十歳の時にこの街に流れ着いたんだ」
一拍。
「川からじゃねぇぞ」
少しだけ口元が歪む。
「その前は、飛空挺乗りの下っ端だった」
アネモネが瞬きをする。
「オヤジの船に乗ってたんだ」
そこで言葉が切れる。
雨音が戻る。
アネモネの顔色が変わった。
「あ……ご、ごめんなさいっ」
慌てて頭を下げそうになる。
「わたし、知らなくて……」
「あー、気にすんな」
ライゾーが手を振る。
本当に気にしていない顔だった。
「別に隠してたわけじゃねぇし」
そう言って、少しだけ空を見る。
灰色の雲が流れている。
「……それより」
視線が戻る。
「俺、ガキの頃、お前にやってもらった“あれ”」
一拍。
「……多分、前にも見たことあるかもしんねぇ」
アネモネの目が丸くなる。
「え……?」
「墜落した時にな。助けてもらったこと――」
「おーい!!」
突然、声が飛んだ。
橋の向こう側。
複数の足音が混ざって近づいてくる。
「ライゾーじゃねぇか!」
「なんだお前、女連れてんのかよ!」
下品な笑い声。
アネモネが少し肩を揺らす。
ライゾーは面倒そうに顔を向けた。
橋の反対側から、数人の男たちが歩いてくる。
どいつも柄が悪い。
外套の下に武器を隠し、肩で風を切るように歩いている。北区の裏通りによくいる類の連中だった。
だが、その中央を歩く影だけは違う。
小柄。
赤い短外套。
濡れた黒髪を後ろで雑に束ね、ブーツで水溜まりを踏みながら真っ直ぐこちらへ来る。
歳は同じくらいだった。
いや、アネモネと変わらない。
だが、周囲の男たちが自然に道を開けている。
誰が上か、一目で分かった。
「……シェリル」
ライゾーが呟く。
少女――シェリルは、そこで足を止めた。
視線がライゾーを通り越し、その隣へ向く。
アネモネを見る。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
「へぇ」
口元が少し歪む。
「珍しいじゃん。ライゾーが女の子連れて歩いてるとか」
軽い声音。
だが、少しだけ棘がある。
「どうしたんだよシェリル?」
ライゾーは気づかない。
本当に気づいていない顔で聞き返す。
それが余計に気に障る。
シェリルの眉がぴくりと動いた。
「……別に?」
ぶっきらぼうに返す。
「ただ、橋の真ん中で青春してんなーと思って」
わざとらしい声音だった。
視線はライゾーに向いている。
その横のアネモネにも。
ライゾーの眉がぴくりと動く。
「あ?」
露骨に嫌そうな顔だった。
「バカなこと言ってんなよ」
「はいはい」
シェリルはひらひらと手を振る。
だが口元は少しだけ尖っていた。
舎弟たちの視線は相変わらず鋭い。
特にアネモネを見る目が露骨だった。
値踏みというか、警戒というか。
ガルルル、とでも言いそうな空気である。
「で?何やってんだよ、お前」
シェリルが聞く。
ライゾーは肩越しに北区の方を見る。
「カッツさんとこのお使い」
「あー!」
ぱっと顔が変わる。
「そっかそっか。キリーダのムンドんとこのスパイス屋か?」
「……知ってんのか」
「そりゃ知ってるわ。あそこのジャイロうめーし」
即答だった。
さっきまでの不機嫌さが少しだけ薄れる。
「この前のラムのやつ良かったなぁ……」
「姐さん、この前二個食ってたじゃないすか」
「うるせぇ」
舎弟の頭を軽く蹴る。
ごつん、と鈍い音がした。
「……」
ライゾーは少しだけ呆れた顔をする。
「そういうこった。急いでるから、じゃあな」
そのまま歩き出そうとする。
だが。
「――ちょっと待て」
シェリルが動いた。
ひょい、とアネモネの横へ回り込む。
「?」
アネモネが目を丸くする。
シェリルはその耳元へ顔を寄せ、小さい声で囁いた。
「……ライゾーにちょっかい出したら、どうなるか分かるよな?」
低い声だった。
脅し、のつもりだった。
だが。
「……?」
アネモネは本気で意味が分かっていなかった。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
それから、ほんのり困ったように首を傾げる。
「えっと……?」
「……」
シェリルが固まる。
数秒。
沈黙。
やがて片手で顔を覆った。
「……ダメだこりゃ」
呆れたように笑う。
その顔が、ほんの少しだけ赤い。
「姐さん?」
「うるせぇ、行くぞ」
乱暴に言い捨てる。
ちょうど後ろで、水音がした。
重い何かが落ちる音。
舎弟の一人が川縁から戻ってくる。
「終わりました」
「おー」
シェリルは軽く手を上げた。
まるで荷物でも片付けたみたいな調子だった。
近くに停めてあった大型の荷車へ乗り込む。
舎弟たちも続いた。
去り際、シェリルが窓から顔を出す。
「ライゾー!」
「……あ?」
「今度ジャイロ奢れよ!」
「なんでだよ」
「青春税〜」
「意味分かんねぇよ」
鼻で笑う。
シェリルも笑った。
荷車が動き出す。
雨に濡れた橋を、そのまま北区側へ消えていった。
「……」
静けさが戻る。
川の音だけが残る。
ライゾーは濡れた欄干へ目を向けた。
ほんの少し前まで人がいた場所。
「……赤天狗一家、またやってんのか」
小さく漏れる。
北区は相変わらずだった。
「ひ、人、落ちなかった……?」
横でアネモネが震えた声を出す。
目が完全に泳いでいる。
「え、あれ……だ、大丈夫なの……?」
「さあな」
ライゾーは歩き出す。
「ほっとけ。俺らには関係ねぇよ」
「関係なくはない気がするよぉ……」
アネモネが小走りで追いかけてくる。
橋の上には、まだ弱い雨が残っていた。
けれど、さっきより少しだけ空が明るい。
雲の切れ間から、細い光が川へ落ちていた。




