西区と北区の境目
小雨の中を歩く。
止みきらない雨だった。粒は細く、音も弱い。だが、服の上にじわじわと残る。歩いているだけで、体温を奪ってくる種類の雨だ。
ライゾーは構わず進む。
片手に包み。もう片手にバール。歩きながら、包みを開く。
まだ温かい。
焼いた肉とスパイスの匂いが、湿った空気の中に混ざる。
ひと口、齧る。
肉汁が広がる。ヨーグルトの酸味が後から来る。ポテトの油が舌に残る。
「……やっぱうめぇな」
足元は濡れている。石畳が滑る。だが、気にするほどでもない。
視線は前。北区へ向かう道は、まだ長い。
もうひと口、齧る。
そのときだった。
背中に、軽い感触。
ちょん、と触れる。
振り返る。
「……」
一瞬、視線が鋭くなる。
気配がなかった。
いや、正確には――気にしていなかった。
そこに立っていたのは、小柄な影。
買い物かごを両手で持っている、薄い緑の髪。
「……アネモネ」
名前が落ちる。
「ライゾー、こんにちは」
にこっと笑い、こちらを見ている。
「……こんなとこで何してんだ」
「雉亭の買い出し。食料と、備品。ミソノさんに頼まれて。ライゾーは?」
「依頼」
包みを持ち上げる。
「カッツさんの屋台の。北区まで行く」
「……屋台?」
少し考える顔。
記憶を探るみたいに、視線が泳ぐ。
「……あ!」
小さく声が出る。何か繋がった顔。
そのまま、慌てたようにかごを漁る。
「そうだ、これ」
紙を取り出す。少し湿っている。
「地図。ミソノさんがくれたの。北区、遠いから気をつけろって。あと、ゆっくり行っておいでって」
言いながら、少しだけ笑う。
その表情が、くるくる変わる。
さっきまで考えていた顔が、もうない。
「……ちょっと見せろ」
ライゾーが手を出す。
紙を受け取る。
ざっと目を走らせる。
通り。橋。区画。
位置関係を拾う。
「……あー、ここか」
指で軽く叩く。
視線を上げて、アネモネを見る。
少しだけ間が空く。
「……俺の目的地からも近いな」
「うん?」
「ついでだし……一緒に行くか」
ぶっきらぼうだった。
誘いというより、確認に近い。
「……え?」
一拍、止まる。
そのあと、すぐに顔がぱっと明るくなる。
「……うんっ!」
迷いはない。そのまま頷く。
かごを持ち直す。
「行く」
「……じゃあ、行くか」
ライゾーが歩き出す。
アネモネがその横に並ぶ。
足音が二つになる。
雨は、まだ降っていた。
はずだった。
アネモネが空を見る。
粒が、少しだけ細くなる。
落ちる間隔が、開く。
音が、遠くなる。
完全には止まらないが、確実に弱まっている。
気づくほどでも、気にするほどでもない。
「……」
ライゾーは何も言わず、ただ前を見る。
歩幅は変わらない。
そのまま進む。
隣で、アネモネが小さく息を吐いた。
空気が、足取りが、少しだけ軽くなっていた。
*
並んで歩く。足音は二つ。
雨は弱いまま続いている。だが、さっきよりも粒が細い。音も軽い。
ライゾーは前を見たまま、包みを畳む。
好物のジャイロサンドは食い終わっていた。
指先に残った油を、軽く拭う。
「……なあ」
ぽつりと落ちる。
視線は動かない。
横にいる気配だけを拾っている。
「……こないださ」
間を置く。
「あの時、俺の怪我、治しただろ」
言い方は曖昧だった。
だが、意味ははっきりしている。
「……あの時の“あれ”」
それだけ付け足す。
アネモネの足が、わずかに止まりかける。
すぐに歩幅を合わせる。
「……」
返事はない。
ただ、少しだけ呼吸が浅くなる。
気づかないふりをして、ライゾーは続ける。
「……あん時は助かった。改めて礼を言うよ」
「それでさ」
一拍。
「天気も、いじれんのか」
言葉を選んでいる。
確かめるための聞き方だった。
横を見る。
アネモネは、少しだけ目を伏せていた。
かごを持つ手に力が入っている。
迷っている顔だった。
「……」
数歩、進む。
雨音だけが残る。
そのあとで、アネモネが息を吸う。
「……わたし」
声が小さい。恐る恐る顔を上げる。
「……わたしは、魔法が使えて……」
ライゾーが止まる。
目が、わずかに開く。
そのまま、数秒。
そして。
「……ぷっ」
息が漏れる。肩が揺れる。
「はは……魔法?あれ、魔法っていうのか」
息を吐く。
「……そっか」
短く落とす。
そこで、笑いが止まる。
視線が、前に戻る。
少しだけ遠くを見る。
「……なあ」
声が変わる。さっきより低い。
「ああいうのは、あんまり目立つように使うな」
歩きながら言う。
「俺はそういうのよく分かんねぇけど。この街、色んなのがいるから」
足音が続く。
「間違いなく、狙われる」
断言だった。視線は動かない。
ただ前を見る。
「……俺はいい」
ぽつりと続ける。
「ヒエンも……多分大丈夫だ」
少しだけ考える。
「……いや、どうかな…」
小さく首を振る。
「まあいいや。近いやつは、なんとなく今俺が言ったこと、気づいてると思うけどな」
そこで一度、横を見る。
「……あんまり、色んな奴には話すなよ?」
アネモネは、少しだけ目を見開く。
想定していた反応じゃない顔だった。
怖がられるでもない。距離を取られるでもない。
ただ、そこに置かれた言葉。
「……」
不安は残っている。
だが、それだけじゃない。
口元が、わずかに緩む。
「……ありがとう」
小さく言う。
「わたし、気をつけるね」
素直な返事だった。
ライゾーは何も返さない。
そのとき。
アネモネの気持ちに呼応する様に、空が少しだけ開く。
雲の切れ目から、ほんの一筋の細い光が落ちる。光はやわらかく降り注ぎ、二人の間をやさしく差した。
「……」
ライゾーが、目を細める。
すぐに視線を外す。
「……"そういうやつ"を、な?」
ぼそりと呟く。
雨は、ほとんど止んでいた。
残っているのは、湿った空気だけ。
その中を、二人で進む。
やがて、視界が開ける。
大きい橋が見えてきた。
幅も、長さもある。
西区と北区を繋ぐ、境界。
"ビッグブリッジ"。
その手前で、足が揃う。
空気が、少しだけ変わる。
「……」
ライゾーは止まらない。
そのまま、橋へ向かう。
アネモネも、並ぶ。
言葉はない。
それでも、足並みは揃っていた。




