梅雨のお使い
雨は弱いまま降り続いていた。
屋根を叩く音は一定で、強くもならず、止みもしない。空気は湿っていて、服の内側にじわりと張りつく。梅雨らしい昼だった。
ギルドの中も、どこか緩んでいる。
人はいる。だが、張り詰めた気配がない。酒場ほど騒がしくもなく、戦闘前の空気でもない。半端な静けさが残っていた。
掲示板の前で、ライゾーは立っている。
紙を一枚ずつ目で追う。
護衛。荷運び。簡単な討伐。どれも、手慣れたものばかりだった。
危険度は低い。報酬も、それなり。
――悪くはない。
だが。
「……シケてるな」
ぽつりと落ちる。
隣でヒエンが肩をすくめた。
「まあなー。最近ずっとこんな感じだろ?」
指先で掲示板を軽く叩く。
「平和っちゃ平和だけどさ。張り合いねぇよな」
軽い口調だった。
だが、完全に冗談でもない。
ライゾーはもう一枚紙をめくる。
内容は同じだ。
違いは、ほとんどない。
「……地回りもやったしな」
視線は動かしたまま言う。
「掲示板もこの有様じゃ、暇潰しにもならねぇ」
「贅沢言うなよ」
ヒエンが笑う。
「ちょっと前まで、殴る相手には困ってなかったくせに」
「……あ?」
「いや別に」
すぐに視線を逸らす。
これ以上突くと面倒になるのを知っている顔だった。
少しだけ間が空く。
雨音だけが残る。
そのあとで、ヒエンが思い出したように口を開いた。
「あー、そういやさ」
「……」
「カッツさんの屋台、なんか依頼出すかもって言ってた気がする」
掲示板から視線を外さずに言う。
軽い話題のつもりだった。
「……ああ」
短く返す。
手が止まり、紙から離れる。
ヒエンが横目で見る。
「行く?」
「暇だしな」
掲示板から離れる。
足が外へと向かう。
*
闘技場の一件は、すでに片付いていた。
表向きは。
あの地下施設は、ギルドの手で解体された。主に動いたのはザンガだ。容赦はなかったらしい。
関わっていた連中も、散った。
捕まったやつ。逃げたやつ。いなくなったやつ。
レニーは、姿を消している。
東区は、今も落ち着いていないらしい。
ハンター連中の間でも、話にはなっていた。
――面倒は、まだ残っている。
「……」
ライゾーは何も言わない。
ただ歩く。
考えるほどのことでもない。
今は、関係ない。
ギルドの扉を押す。
外の湿気が、少しだけ軽くなる。
後ろから、声が飛んだ。
「ちょっとあんたたち!」
振り返らない。
声の主は分かっている。
「ちゃんと気をつけて行きなさいよー!」
エリナだった。
いつもの調子。でも、どこか少しだけ緩んでいる。
張っていたものが、少しだけ下りたような声音だった。
「……はいはい」
ヒエンが手を振り、軽く返す。
ライゾーは、片手だけ上げた。
扉が閉まる。
音がひとつ、区切りになる。
外は、まだ雨だった。
弱いまま、止まないそんな昼下がり。
*
西区の路地は、雨で色が落ちていた。
石畳は黒く沈み、壁の染みも濃く見える。人通りはあるが、足は早い。濡れたくないだけだ。
ヒエンが先を見て、軽く口を鳴らした。
「……あれ?ここもいねぇな」
覗き込む先に、屋台の影はない。
空いた壁際。水が溜まっているだけだった。
ライゾーは足を止めない。
「ここもいねぇなら、あの橋の下だろ」
迷いはない。
ヒエンが「あー」と頷く。
「雨の日の定位置か」
グリーンリバーにかかる橋は、やけに広い。
その下も同じだけ抜けている。雨を避けるにはちょうどいい。
その代わり、人も、音も、匂いも溜まる。
階段を降りると、空気が変わった。
湿気に、別の匂いが混じる。甘い煙と、香辛料と、油の焼ける匂い。
続いて、音も。
まだ本番じゃないが、低く響くビートが試されている。腹の奥に残る重さだった。
橋の柱には、大きい布が張られている。
円形の模様。色が渦を巻いている。見ていると、少しだけ焦点がずれる。
「……曼荼羅かっけー」
ヒエンが呟く。
その周りに、紐が渡されていた。
旗がぶら下がっている。
見たことのない色や紋様が混ざっている。どこのものか分からない。
風に揺れて、ぱたぱたと鳴る。
その下で、人が動いていた。
機材を運ぶやつ。火を起こすやつ。布を結ぶやつ。誰もが手を動かしている。
いわゆる祭典、"フェス"の準備だった。
雨でも関係ない。
むしろ、合っている。
「……いた」
ライゾーが言う。
視線の先。
橋の奥、柱の影に、屋台があった。
鉄板の煙が上がっている。
小さく、安定した火。
その前に、男が立っていた。
手を上げる。
「おう」
カッツだった。
軽く振るだけの合図。
その横で、チトがこちらを見る。
少しだけ目を細める。
歓迎でも拒絶でもない顔。
――なんだお前らか。
そんな顔だった。
「カッツさん、お疲れ様」
ライゾーが近づく。
声はいつも通りだ。
「ギルドに何か依頼出すって聞いたんだけど」
「おお、どこから漏れたか分かんねぇけど助かるわ」
カッツが笑う。
鉄板を擦りながら続ける。
「お前らなら楽勝だとは思うんだが……」
言いかけたところで、横から声が入る。
「……北区にある、キリーダのスパイス屋から、材料を運んできてほしいの」
チトだった。
視線はライゾーに向いたまま。
「ジャイロに使うやつ。スパイスと、ソース用の。あと野菜もどっさり」
一拍置く。
「……今夜、“フェス”あるでしょ」
周囲を軽く顎で示す。
準備が進んでいる。
音も、匂いも、すでにそれだった。
「仕込み、間に合わないの。あたしたち」
頼み方は雑だが、内容ははっきりしていた。
「フェスの日かー!どうりで……」
ヒエンが頭を掻く。
少しだけ困った顔。
「オレ、ターニャちゃんとデートなんだよな……」
ため息を混ぜる。
「ライゾー、オマエ、行ける?」
横を見る。
ライゾーは何も言わない。
一度だけ頷く。
「ありがてえ」
カッツが言う。
すぐに手を動かす。
パンを開く。肉とポテトを乗せる。野菜を挟み、ソースをかける。
迷いがなく、手際がいい。
「ほら、持ってけ」
差し出される。
「弁当代わりだ。北区、ちっと遠いからな」
温かい。
受け取った包みの中から、香りが抜ける。
スパイスの焼けた匂い。ヨーグルトの酸味。ハーブの青い香り。
それが混ざる。
「……じゃあサクッと行ってくる」
それだけを短く言い放ち、背を向ける。
ヒエンが手を振る。
「帰りに寄るわー!」
軽い声だった。
*
橋の外に出ると、雨はまだ続いていた。
だが、さっきよりほんの少しだけ弱くなっていた。
ライゾーは包みを片手に歩く。
バールをもう片手に。
「……雨、止まないな」
小さくひとりごちる。湿った道を、北区へそのまま進んでいく。




