表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼の子と最後の魔女  作者: スパイシ〜しゃけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/35

天気を変える魔法



 窓を開けた瞬間、湿った空気が静かに流れ込んできた。


 雨の匂いだった。


 濡れた石と、土と、少しだけ鉄が混ざる、西区の匂い。重たいはずなのに、どこか落ち着くそれが、肺の奥にゆっくりと沈んでいく。


「……また、降ってる」


 小さく呟く。


 視線の先、通りは薄い灰色に包まれていた。屋根から落ちる水が細い線になり、石畳を濡らし続けている。ここ数日、ずっとこんな調子だった。


 鋳鉄の雉亭の二階。


 掃除の途中で、アネモネは窓辺に立っていた。


 桶の水はもうぬるくなっていて、絞った布からはかすかに湿気の匂いがする。洗濯物も、同じように乾ききらない日が続いていた。


「……うーん」


 腕を組む。


 困っている、というより――どうするか、決めようとしている顔だった。


 空を見上げる。灰色、動かない雲。雨は細いまま、途切れない。


「……よしっ」


 迷いはなかった。両手を胸の前で重ねる。


 祈りの形。けれど、それは願うためじゃない。“触れる”ための仕草だった。


 意識を、上に向ける。空そのものじゃなく、その間にある“流れ”に。


 重くなっている場所。滞っている空気。

 そこに、そっと手を入れるようにして――


「……」


 呼吸を整える。

 吸って、吐く。

 その中で、少しだけ力を込める。


 押し広げるんじゃない。

 無理に晴らすんじゃない。

 ただ、詰まっているものを“緩める”。


 ほんの少しだけ。


 通り道を作る。


 

「……お願いします」


 小さく、言葉が落ちる。


 その瞬間。

 空気が、ほんのわずかに動いた。


 重さが抜ける。

 湿気がほどける。


 目には見えない変化が、じわりと広がっていく。


「……」


 アネモネは目を開ける。

 空はまだ灰色だ。雲も消えていない。

 それでも、その奥にうっすらと光が滲んでいる。雨も、ほんの少しだけ弱くなっている。



「……よし」


 ぽつりと呟く。

 満足、というよりは――ちょうどいい、という感覚だった。


 これ以上は、無理だと分かっている。

 空全部を変えるほどの力はない。


 けれど、この辺りだけなら。

 雉亭の周り、この通りくらいなら。

 少しだけ、晴れ間を混ぜることはできる。


「……うん」


 小さく頷く。やりすぎない。それが今の自分にできる範囲だった。


 振り返る。

 階下から、鉄板の音が響いてきていた。

 昼前の仕込み。


 いつもの音。いつもの匂い。


 その中に――


「……あ」


 視線が止まる。

 階段の下、入口のあたり、ライゾーがいた。


 壁にもたれかかるように立って、腕を組んでいる。

 何をするでもなく、ただそこにいる。

 それだけなのに、前とは少し違って見えた。


「……」


 アネモネは少しだけ目を細める。


 生傷は、増えていない。

 前みたいに、新しいものが重なっていない。

 むしろ、落ち着いている。



「……」


 胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。


 あのときの姿が、よぎる。

 血の匂いをまとって帰ってきた日。

 何も言わずに座っていた、あの背中。


 それと比べれば――


「……よかった」


 小さく、漏れる。

 ほとんど音にならないくらいに。


「……何やってんだ、上で」


 下から声が飛んできた。


 ライゾーだった。

 少しだけ顔を上げて、こちらを見ている。


 ぶっきらぼうな声。

 でも、前よりも硬くない。


「え、あ、うん。掃除してて……空、見てた」


「……空って…今日は雨だろ」


「うん。でも、ちょっとだけお願いしてみたの。お洗濯もなかなかできないでしょ?」


 言葉が、自然に出る。



「……お願い?」


「少しだけ。ここらへんだけ、ちょっと晴れるように」


 説明というより、報告みたいな口調だった。


「……」


 ライゾーが、わずかに空を見る。


 何も言わない。

 けれど。


「……確かに、さっきよりマシだな」


 ぽつりと落ちる。


「あとで溜まってるお洗濯しようと思って」


「……乾くのか」


「全部は無理…かな。でも、さっきよりは乾くと思う」


「……そっか」


 短い会話。


 でも、前より途切れない。


「……」


 アネモネは、ほんの少しはにかんで微笑む。


 距離が、変わっている。言葉の数じゃない。

 でも、ちゃんと繋がっている感じがある。


「……よし」


 もう一度、空を見る。

 灰色のままの空に、うっすらと混じる光。


 全部じゃなくていい。


 この場所だけ。

 この時間だけ。


 少しだけ、優しくする。


 アネモネは桶を持ち上げ、階段へ向かう。

 下では、いつもの音が鳴っている。


 鉄板の音。

 人の声。

 西区の、生きている音。


 その中に、ほんの少しだけ。

 やわらかく晴れた空気が、混ざっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ