烙印
影の中を、音が走った。
屋根と屋根の隙間。煙突の影。洗濯物の揺れる紐。その全部を繋ぐみたいに、ひとつの気配が滑っていく。
――ヒエンだった。
足音はない。
壁を蹴る音も、布をかすめる音も、ほとんど残らない。ただ、そこに“いたはずの場所”に、わずかな空気の乱れだけが残る。
視線は、下。
中央区寄り、東側の外れにある酒場。その裏口だった。
人の出入りは少ない。だが、完全に閉じているわけでもない。油断しているようで、妙に隙のない気配がある。
「……」
息を殺す。
軒下の影に溶け込むように、身体を沈める。
扉の隙間から、声が漏れていた。
「――だから言っただろ。数を増やせばいいってもんじゃねぇ」
低い声。
聞き覚えがある。
「……レニー」
ヒエンは、口の中だけで呟く。
東区の連中。間違いない。
もう一つ、別の声が重なる。
少し違う。抑揚が薄く、この街の連中とは話し方が違う。
「数は“見せるため”だ。目的は別にある」
言葉の端が、硬い。
訛りというほどではないが、どこかこの街の空気に馴染んでいない響きだった。
「……チッ。好きにしろ。ただし西区は荒れるぞ」
「構わない。いずれ均される」
短い会話。
内容は断片的だ。
だが、それで十分だった。
レニーが関わっている。
そして、その先に――
“別の連中”がいる。
「……」
ヒエンは、ゆっくりと身体を引く。
これ以上聞く必要はない。
聞けば聞くほど、深くなる。
今はまだ、そこまで潜る段階じゃない。
踵を返す。
次の瞬間には、もう屋根の上にいた。
影から影へ。
軽やかに、迷いなく。
数呼吸で、距離を離す。
「……っと」
最後に一度だけ振り返る。
あの酒場。
昼間の顔とは違う、裏の顔。
「――ビンゴ」
小さく笑う。
いつもの調子で。
「ヒエン様にかかれば、こんなもんよ」
軽口を叩きながら、屋根から飛び降りる。
着地の音は、ほとんどしなかった。
そのまま、通りへ出る。
西区の空気。
鉄と油と、少しだけ血の匂いが混ざった、いつもの街の匂い。
「……」
視線を巡らせる。
探すまでもない。
あの男は、目立つ。
というか――
「……おいおい」
呆れた声が漏れる。
通りの奥。
すでに“終わっていた”。
木箱が砕けている。
転がる鉄パイプ。
壁にめり込んだままの男。
地面に伏した影が、いくつもある。
その中心に、立っていた。
「……ちっ」
ライゾーだった。
肩で息をしている。
腕に、血がついている。
自分のものか、相手のものかも分からないくらい、混ざっている。
足元にいた男が、かすかに動く。
それに気づいた瞬間――
ライゾーの足が、迷いなく振り下ろされた。
鈍い音。
骨の感触が、空気を震わせる。
「……」
ヒエンの眉が、わずかに寄る。
いつもなら、そこで終わりだ。
動けなくなった時点で、もう手は出さない。
それが、ライゾーの“線”だったはずだ。
なのに。
「……まだ動くかよ」
低く、吐き捨てる。
もう一度、蹴る。
必要はない。
完全に。
やりすぎだった。
「……」
ヒエンは、少しだけ歩み寄る。
足音は、あえて消さない。
わざと聞こえるように。
ライゾーの肩が、ぴくりと動く。
振り返る。
その目。
一瞬だけ、鋭さが残っていた。
けれど、すぐに戻る。
いつもの顔に。
「……なんだよ」
ぶっきらぼうに言う。
「終わってんだろ」
「……ああ、終わってるな」
ヒエンは、周りを見渡す。
苦笑が漏れる。
「終わらせすぎだろ」
軽く言う。
でも、目は笑っていない。
「……」
ライゾーは、何も返さない。
足元に転がっていた男の腕を掴む。
ぐい、と引き上げる。
その手首に――
焼けた跡。
見慣れない印。
「……それか」
ヒエンが、ぼそりと呟く。
次の瞬間。
ライゾーの手に、力が入る。
――鈍い音がした。
言葉より先に。
骨が、嫌な方向に折れる。
男の声が、遅れて上がる。
「がっ――」
最後まで続かない。
腕をひねり上げたまま、焼印のある部分を無理やり引き剥がす。
皮膚ごと。
容赦なく。
「……」
ヒエンは、一瞬だけ目を細める。
何も言わない。
ただ、その一連の動きを見ていた。
ライゾーは、奪い取ったそれを一瞥する。
興味なさそうに。
それでも、確かめるように。
そして、服の裾を千切り、それを包み無造作にポケットへ突っ込む。
「……」
血が、ぽた、と落ちる。
地面に、黒く滲む。
「……らしくねーな……」
ヒエンが、ぽつりと落とす。
軽くもなく、重くもない声で。
ただ事実を置くみたいに。
「……あ?」
ライゾーが、眉をひそめる。
「なんでもねーよ」
ヒエンは肩をすくめる。
それ以上は言わない。
止めもしない。
「……で」
少しだけ間を置いて。
「いいもん拾ったな」
ポケットのあたりを指す。
「入口、近いぞ」
ライゾーは、短く息を吐く。
血の匂いが、まだ濃く残っている。
それでも。
足は止まらない。
「……行くぞ」
低く言う。
そのまま、歩き出す。
バールを引きずりながら。
がり、がり、と。
鈍い音を鳴らしながら。
西区の奥へ。
*
西区の奥にある飲み屋は、夜になると空気の質が変わる。
昼の埃っぽさが沈み、代わりに酒と煙の匂いがゆっくりと満ちていく。声も少し低くなり、笑いは長く尾を引くようになる。同じ場所のはずなのに、時間だけが別の流れに切り替わるようだった。
軒先の机に、二人は向かい合う形で腰を下ろしていた。
ライゾーは何も言わないまま、肘を膝に乗せ、視線を落としている。その手元には、さっき布に包んだまま持ち帰ってきたものがあった。
ゆっくりと、布が解かれる。
現れたのは、剥ぎ取られた皮膚だった。焼印の跡が残るそれは、まだ完全には乾いておらず、黒ずんだ血の匂いがかすかに立ち上っている。
ヒエンは一瞬だけそれに目をやり、それ以上は何も言わなかった。止めもしない。ただ、ライゾーが次に何をするかを見ている。
「……これだろ」
低い声で、ライゾーが言う。
「こいつで入れる」
「まぁな……」
ヒエンが肩をすくめる。
「地下に潜るための通行証ってところだ。合言葉と一緒に使うやつだろうな」
ライゾーは頷きもせず、そのまま皮膚に刻まれた印を見つめていた。視線は静かだが、どこか内側に沈み込んでいる。考えているというより、決めようとしている目だった。
やがて、その手が動く。
机の端に転がっていた鉄の棒を引き寄せる。短く、先が平らに潰れたそれを机に置き、その上に皮膚を乗せた。
続けて、刃物を取る。
動きは迷いがなかった。焼印の線に沿って、ゆっくりと刃を走らせていく。なぞるように、確かめるように、皮膚の上に刻まれた輪郭を拾っていく。
雑ではない。
むしろ、正確だった。
写すための手つきだった。
鉄の表面に、印の形が刻まれていく。
ヒエンはその様子を黙って見ていた。止める気配はない。ただ、その手の動きと、その先にあるものを見ている。
やがて、ライゾーは刃を置いた。
一度だけ、鉄の表面を指でなぞる。刻まれた線を確かめるように。
それから、火にかざした。
卓上のランプの炎が、鉄をじわじわと熱していく。黒かった表面が、ゆっくりと色を変え、やがて赤を帯びていく。
そのまま、ライゾーは自分の腕を出した。
躊躇はなかった。
熱された鉄を、そのまま近づける。
あと少しで触れる距離まで。
「……おい」
ヒエンの声が、そこで初めて変わった。
軽さが抜ける。
「……おいライゾー!やめろ」
短く言う。
だがライゾーは止まらない。視線は鉄と自分の腕の間に落ちたまま、動きもそのまま続いている。
ヒエンは一歩だけ踏み込んだ。
距離を詰める。
「……あーあー……」
低く落とす。
それから、間を置かずに続けた。
「……よそ者の印なんて付けてお前はいいのかよ?」
真っ直ぐな声だった。
問いというより、突きつける言い方だった。
ライゾーの手が、わずかに止まる。
ほんの一瞬。
だが確かに、動きが止まった。
赤くなった鉄は、そのまま熱を持ち続けている。押し当てれば刻まれる。それは分かっているはずだった。
短い沈黙が落ちる。
ライゾーの視線が、わずかに揺れる。
それでも、すぐには答えない。
代わりに、小さく舌打ちをした。
苛立ちとも、行き場のない感情ともつかない音だった。
そのまま、鉄を机の上に叩きつける。
じゅ、と煙が上がった。
ヒエンは何も言わない。
ただ、その様子を見て、わずかに息を吐く。
ぎりぎりで踏みとどまったのが分かったからだった。
「……おしっ」
空気を変えるように、ヒエンが言う。
いつもの調子に戻す。
「それ、貸せよ」
顎で、皮膚と鉄を指す。
「複製できるぜ」
軽く言う。
「形も印も、これだけ写せてりゃ十分だ。オレならもっとまともに仕上げる」
ライゾーは無言でヒエンを見る。
疑っているわけではない。ただ、確かめるような目だった。
「……できんのかよ」
「できるって言ってんだろ」
即答だった。
ヒエンは少しだけ笑う。
「ヒエン様なめんなよー?」
軽く肩をすくめる。
「お前はさ、すぐに自分に焼き入れるとか、そんな面倒なことしなくていいから」
ライゾーはしばらく何も言わなかった。
視線を落とし、小さく息を吐く。
それから、低い声で言う。
「……頼んでいいか」
「はいはい」
ヒエンが軽く答える。
「ちょろいちょろい」
手際よく皮膚を布に包み直す。
「任せとけって」
ライゾーは、それ以上は何も言わなかった。
背もたれに身体を預け、視線をどこにも向けないまま、ただ座っている。
さっきまであった熱は、少しだけ引いていた。
*
夜は、静かに深まっていく。
鋳鉄の雉亭の裏手、小さな部屋。
窓から、月の光が差し込んでいた。
アネモネは鏡の前に座り、櫛を手にして髪をとかしていた。
さらり、と音がする。
同じ動作の繰り返し。
静かな時間だった。
その中で、ふと手が止まる。
理由は分からない。
けれど、胸の奥に小さなざわつきが残った。
窓の方を見る。
白い月の光が、部屋の中をやわらかく照らしている。
いつもと変わらないはずの景色。
それなのに、どこか落ち着かない。
無意識に、自分の腕に触れる。
何もない場所。
けれど、そこに何かが起きているような感覚だけが残る。
言葉にはならない。
ただ、消えない。
静かな胸騒ぎだけが、月の光の中に残り続けていた。




