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鬼の子と最後の魔女  作者: スパイシ〜しゃけ


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14/35

烙印


 影の中を、音が走った。


 屋根と屋根の隙間。煙突の影。洗濯物の揺れる紐。その全部を繋ぐみたいに、ひとつの気配が滑っていく。


 ――ヒエンだった。


 足音はない。


 壁を蹴る音も、布をかすめる音も、ほとんど残らない。ただ、そこに“いたはずの場所”に、わずかな空気の乱れだけが残る。


 視線は、下。


 中央区寄り、東側の外れにある酒場。その裏口だった。


 人の出入りは少ない。だが、完全に閉じているわけでもない。油断しているようで、妙に隙のない気配がある。


「……」


 息を殺す。


 軒下の影に溶け込むように、身体を沈める。


 扉の隙間から、声が漏れていた。


「――だから言っただろ。数を増やせばいいってもんじゃねぇ」


 低い声。


 聞き覚えがある。


「……レニー」


 ヒエンは、口の中だけで呟く。


 東区の連中。間違いない。


 もう一つ、別の声が重なる。


 少し違う。抑揚が薄く、この街の連中とは話し方が違う。


「数は“見せるため”だ。目的は別にある」


 言葉の端が、硬い。


 訛りというほどではないが、どこかこの街の空気に馴染んでいない響きだった。


「……チッ。好きにしろ。ただし西区は荒れるぞ」


「構わない。いずれ均される」


 短い会話。


 内容は断片的だ。


 だが、それで十分だった。


 レニーが関わっている。


 そして、その先に――


 “別の連中”がいる。


「……」


 ヒエンは、ゆっくりと身体を引く。


 これ以上聞く必要はない。


 聞けば聞くほど、深くなる。


 今はまだ、そこまで潜る段階じゃない。


 踵を返す。


 次の瞬間には、もう屋根の上にいた。


 影から影へ。


 軽やかに、迷いなく。


 数呼吸で、距離を離す。


「……っと」


 最後に一度だけ振り返る。


 あの酒場。


 昼間の顔とは違う、裏の顔。


「――ビンゴ」


 小さく笑う。


 いつもの調子で。


「ヒエン様にかかれば、こんなもんよ」


 軽口を叩きながら、屋根から飛び降りる。


 着地の音は、ほとんどしなかった。


 そのまま、通りへ出る。


 西区の空気。


 鉄と油と、少しだけ血の匂いが混ざった、いつもの街の匂い。


「……」


 視線を巡らせる。


 探すまでもない。


 あの男は、目立つ。


 というか――


「……おいおい」


 呆れた声が漏れる。


 通りの奥。


 すでに“終わっていた”。


 木箱が砕けている。


 転がる鉄パイプ。


 壁にめり込んだままの男。


 地面に伏した影が、いくつもある。


 その中心に、立っていた。


「……ちっ」


 ライゾーだった。


 肩で息をしている。


 腕に、血がついている。


 自分のものか、相手のものかも分からないくらい、混ざっている。


 足元にいた男が、かすかに動く。


 それに気づいた瞬間――


 ライゾーの足が、迷いなく振り下ろされた。


 鈍い音。


 骨の感触が、空気を震わせる。


「……」


 ヒエンの眉が、わずかに寄る。


 いつもなら、そこで終わりだ。


 動けなくなった時点で、もう手は出さない。


 それが、ライゾーの“線”だったはずだ。


 なのに。


「……まだ動くかよ」


 低く、吐き捨てる。


 もう一度、蹴る。


 必要はない。


 完全に。


 やりすぎだった。


「……」


 ヒエンは、少しだけ歩み寄る。


 足音は、あえて消さない。


 わざと聞こえるように。


 ライゾーの肩が、ぴくりと動く。


 振り返る。


 その目。


 一瞬だけ、鋭さが残っていた。


 けれど、すぐに戻る。


 いつもの顔に。


「……なんだよ」


 ぶっきらぼうに言う。


「終わってんだろ」


「……ああ、終わってるな」


 ヒエンは、周りを見渡す。


 苦笑が漏れる。


「終わらせすぎだろ」


 軽く言う。


 でも、目は笑っていない。


「……」


 ライゾーは、何も返さない。


 足元に転がっていた男の腕を掴む。


 ぐい、と引き上げる。


 その手首に――


 焼けた跡。


 見慣れない印。


「……それか」


 ヒエンが、ぼそりと呟く。


 次の瞬間。


 ライゾーの手に、力が入る。


 ――鈍い音がした。


 言葉より先に。


 骨が、嫌な方向に折れる。


 男の声が、遅れて上がる。


「がっ――」


 最後まで続かない。


 腕をひねり上げたまま、焼印のある部分を無理やり引き剥がす。


 皮膚ごと。


 容赦なく。


「……」


 ヒエンは、一瞬だけ目を細める。


 何も言わない。


 ただ、その一連の動きを見ていた。


 ライゾーは、奪い取ったそれを一瞥する。


 興味なさそうに。


 それでも、確かめるように。


 そして、服の裾を千切り、それを包み無造作にポケットへ突っ込む。


「……」


 血が、ぽた、と落ちる。


 地面に、黒く滲む。


「……らしくねーな……」


 ヒエンが、ぽつりと落とす。


 軽くもなく、重くもない声で。


 ただ事実を置くみたいに。


「……あ?」


 ライゾーが、眉をひそめる。


「なんでもねーよ」


 ヒエンは肩をすくめる。


 それ以上は言わない。


 止めもしない。


「……で」


 少しだけ間を置いて。


「いいもん拾ったな」


 ポケットのあたりを指す。


「入口、近いぞ」


 ライゾーは、短く息を吐く。


 血の匂いが、まだ濃く残っている。


 それでも。


 足は止まらない。


「……行くぞ」


 低く言う。


 そのまま、歩き出す。


 バールを引きずりながら。


 がり、がり、と。


 鈍い音を鳴らしながら。


 西区の奥へ。



 西区の奥にある飲み屋は、夜になると空気の質が変わる。


 昼の埃っぽさが沈み、代わりに酒と煙の匂いがゆっくりと満ちていく。声も少し低くなり、笑いは長く尾を引くようになる。同じ場所のはずなのに、時間だけが別の流れに切り替わるようだった。


 軒先の机に、二人は向かい合う形で腰を下ろしていた。


 ライゾーは何も言わないまま、肘を膝に乗せ、視線を落としている。その手元には、さっき布に包んだまま持ち帰ってきたものがあった。


 ゆっくりと、布が解かれる。


 現れたのは、剥ぎ取られた皮膚だった。焼印の跡が残るそれは、まだ完全には乾いておらず、黒ずんだ血の匂いがかすかに立ち上っている。


 ヒエンは一瞬だけそれに目をやり、それ以上は何も言わなかった。止めもしない。ただ、ライゾーが次に何をするかを見ている。


「……これだろ」


 低い声で、ライゾーが言う。


「こいつで入れる」


「まぁな……」


 ヒエンが肩をすくめる。


「地下に潜るための通行証ってところだ。合言葉と一緒に使うやつだろうな」


 ライゾーは頷きもせず、そのまま皮膚に刻まれた印を見つめていた。視線は静かだが、どこか内側に沈み込んでいる。考えているというより、決めようとしている目だった。


 やがて、その手が動く。


 机の端に転がっていた鉄の棒を引き寄せる。短く、先が平らに潰れたそれを机に置き、その上に皮膚を乗せた。


 続けて、刃物を取る。


 動きは迷いがなかった。焼印の線に沿って、ゆっくりと刃を走らせていく。なぞるように、確かめるように、皮膚の上に刻まれた輪郭を拾っていく。


 雑ではない。


 むしろ、正確だった。


 写すための手つきだった。


 鉄の表面に、印の形が刻まれていく。


 ヒエンはその様子を黙って見ていた。止める気配はない。ただ、その手の動きと、その先にあるものを見ている。


 やがて、ライゾーは刃を置いた。


 一度だけ、鉄の表面を指でなぞる。刻まれた線を確かめるように。


 それから、火にかざした。


 卓上のランプの炎が、鉄をじわじわと熱していく。黒かった表面が、ゆっくりと色を変え、やがて赤を帯びていく。


 そのまま、ライゾーは自分の腕を出した。


 躊躇はなかった。


 熱された鉄を、そのまま近づける。


 あと少しで触れる距離まで。


「……おい」


 ヒエンの声が、そこで初めて変わった。


 軽さが抜ける。


「……おいライゾー!やめろ」


 短く言う。


 だがライゾーは止まらない。視線は鉄と自分の腕の間に落ちたまま、動きもそのまま続いている。


 ヒエンは一歩だけ踏み込んだ。


 距離を詰める。


「……あーあー……」


 低く落とす。


 それから、間を置かずに続けた。


「……よそ者の印なんて付けてお前はいいのかよ?」


 真っ直ぐな声だった。


 問いというより、突きつける言い方だった。


 ライゾーの手が、わずかに止まる。


 ほんの一瞬。


 だが確かに、動きが止まった。


 赤くなった鉄は、そのまま熱を持ち続けている。押し当てれば刻まれる。それは分かっているはずだった。


 短い沈黙が落ちる。


 ライゾーの視線が、わずかに揺れる。


 それでも、すぐには答えない。


 代わりに、小さく舌打ちをした。


 苛立ちとも、行き場のない感情ともつかない音だった。


 そのまま、鉄を机の上に叩きつける。


 じゅ、と煙が上がった。


 ヒエンは何も言わない。


 ただ、その様子を見て、わずかに息を吐く。


 ぎりぎりで踏みとどまったのが分かったからだった。


「……おしっ」


 空気を変えるように、ヒエンが言う。


 いつもの調子に戻す。


「それ、貸せよ」


 顎で、皮膚と鉄を指す。


「複製できるぜ」


 軽く言う。


「形も印も、これだけ写せてりゃ十分だ。オレならもっとまともに仕上げる」


 ライゾーは無言でヒエンを見る。


 疑っているわけではない。ただ、確かめるような目だった。


「……できんのかよ」


「できるって言ってんだろ」


 即答だった。


 ヒエンは少しだけ笑う。


「ヒエン様なめんなよー?」


 軽く肩をすくめる。


「お前はさ、すぐに自分に焼き入れるとか、そんな面倒なことしなくていいから」


 ライゾーはしばらく何も言わなかった。


 視線を落とし、小さく息を吐く。


 それから、低い声で言う。


「……頼んでいいか」


「はいはい」


 ヒエンが軽く答える。


「ちょろいちょろい」


 手際よく皮膚を布に包み直す。


「任せとけって」


 ライゾーは、それ以上は何も言わなかった。


 背もたれに身体を預け、視線をどこにも向けないまま、ただ座っている。


 さっきまであった熱は、少しだけ引いていた。



 夜は、静かに深まっていく。


 鋳鉄の雉亭の裏手、小さな部屋。


 窓から、月の光が差し込んでいた。


 アネモネは鏡の前に座り、櫛を手にして髪をとかしていた。


 さらり、と音がする。


 同じ動作の繰り返し。


 静かな時間だった。


 その中で、ふと手が止まる。


 理由は分からない。


 けれど、胸の奥に小さなざわつきが残った。


 窓の方を見る。


 白い月の光が、部屋の中をやわらかく照らしている。


 いつもと変わらないはずの景色。


 それなのに、どこか落ち着かない。


 無意識に、自分の腕に触れる。


 何もない場所。


 けれど、そこに何かが起きているような感覚だけが残る。


 言葉にはならない。


 ただ、消えない。


 静かな胸騒ぎだけが、月の光の中に残り続けていた。


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