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鬼の子と最後の魔女  作者: スパイシ〜しゃけ


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15/35

西の陽を落とす


 薄暗い部屋だった。


 壁に打ち付けられた古い板の隙間から、外の光がわずかに漏れている。だがそれもほとんど役には立たず、天井からぶら下がった電球ひとつが、頼りなく室内を照らしていた。


 机の上には、削り屑が散らばっている。


 細く削られた鉄片。黒く汚れた布。刃物。小さなヤスリ。


 その中心で、ヒエンは手を止めた。


 最後のひと削りを終えた鉄の塊を、指先で軽く叩く。乾いた音が、狭い部屋に短く響いた。


「……ま、こんなもんっしょ」


 独り言のように呟く。


 手の中にあるそれは、小さな金型だった。焼印の形を、正確になぞるように削り出されたもの。元になった皮膚の印と比べても、ほとんど差はない。


 ヒエンはそれをひっくり返し、角度を変えて眺める。光を当て、影を見て、歪みがないかを確かめる。


 満足したのか、小さく頷いた。


 布に包み、腰のポーチに滑り込ませる。


 ――あとは、あいつに渡すだけだ。


 そこでようやく、部屋のもう一つの気配に視線を向けた。


 片隅のベッド。


 そこに、女が寝転がっている。


 裸に近い格好のまま、だらりと腕を垂らし、煙を吐いていた。細い筒の先から立ち上る煙は、甘く重く、鼻に残る匂いをしている。


「……行くの?」


 ねっとりとした声だった。


 視線だけを向けて、指先で呼ぶように動かす。


 絡みつくような仕草。


 慣れている動きだった。


「わりっ」


 ヒエンは、振り返りもしない。


 靴を引っかけながら、軽く答える。


「オレ、“待たせたくない主義”なんだよ」


 軽口。


 いつも通りの調子。


 女は、小さく笑った。


「つれないねぇ……」


 煙をもう一度吐く。


 それ以上、引き止めはしなかった。


 ヒエンは扉に手をかける。


「戸締りだけ頼んだぜ?」


 それだけ言って、外に出る。


 廊下は暗く、空気が淀んでいた。


 狭い集合住宅の中を抜け、外へ出る。


 西区の匂いが、肺に入る。


 鉄と油と、少しだけ血の混ざった、いつもの空気だった。


 ヒエンは、軽く肩を回す。


 口元に、うっすらと笑みを浮かべる。


「……さーて」


 呟いて、歩き出した。


 向かう先は、決まっている。



 鋳鉄の雉亭の夜は、静かに賑わっていた。


 昼間の慌ただしさとは違う。声は少し低く、笑いは長く尾を引く。酒と鉄板の匂いが、空気の中にゆっくりと溶け込んでいる。


 カウンターの奥で、ミソノが鉄板を返していた。


 油が跳ね、肉が焼ける音が響く。


 その匂いに混じって、別の香りが広がる。


 溶けたチーズだった。


 長いロールパンに、たっぷりと挟まれている。


 表面にはセサミとポピーシードが散らされ、軽く焼かれた外側はさくりとした歯触りを残している。中には、炒めた牛肉と玉ねぎ。塩と胡椒だけのシンプルな味付け。


 そこに、これでもかというほどのチーズが流し込まれていた。


 鋳鉄の雉亭の隠れた人気メニュー――チーズステーキサンド。


 それに、ライゾーはかぶりついていた。


 噛みちぎる。


 熱と脂が、口の中に広がる。


 パンの歯切れの良さと、肉の重さが混ざる。


 それでも、止まらない。


 咀嚼の音が、やけに静かな席に響く。


 脇には、木製の大ジョッキ。


 ひとつは、すでに空だった。


 もう一つに手を伸ばし、ぐい、と傾ける。


 喉を鳴らして飲み干す。


 それから、またパンにかぶりつく。


 その様子を、ミソノは横目で見ていた。


「……あんたねぇ」


 鉄板を返しながら、声をかける。


「暫く振りに顔出したと思ったらこれかい」


 少しだけ目を細める。


「また何かしでかすつもりじゃないだろうね」


 問いかけは軽い。


 だが、完全に冗談でもない声音だった。


 ライゾーは、口を動かしたまま答える。


「……ほっといてくれよ」


 ぶっきらぼうに。


 それ以上は言わない。


 ミソノは小さく息を吐く。


「……ったく」


 それ以上追及はしなかった。


 分かっているからだ。


 この食い方。


 この量。


 このタイミング。


 ――勝負前だ。


 言わなくても、分かる。


「アニーちゃん、そっちお願い」


「うん、今行く」


 アネモネが返事をする。


 皿を持ったまま、足を運ぶ。


 その途中で、視線が止まる。


 ライゾーだった。


 久しぶりだった。


 同じ空間にいるのに、手が届かないところに行こうとしてる様に感じる。


 背中。


 肩。


 服。


 全部が、前に見たときより荒れている。


 綺麗だったはずの服は、もう汚れている。血か、油か、土かも分からない染みが、あちこちに残っていた。


 腕にも、生傷が増えている。


 浅いものから、深いものまで。


 隠す気もない。


「……」


 皿を持つ手が、ほんのわずかに止まる。


 声をかけようとする。


 でも、言葉が出てこない。


 代わりに、ただ見てしまう。


 ライゾーは気づかない。


 気づいても、見ないのかもしれない。


 ただ、食っている。


 何かを詰め込むみたいに。


「……」


 アネモネは、ゆっくりと視線を外す。


 仕事に戻る。


 でも。


 胸の奥に、小さなざわつきが残ったままだった。


 それが何なのかは、まだ分からない。


 ただ。


 少しだけ、落ち着かなかった。



 食堂の空気は、さっきまでと同じようで、どこか違っていた。


 鉄板の音も、酒の匂いも、客の笑い声も変わらない。


 それなのに、アネモネの中だけ、少しだけ静かじゃない。


 視線が、どうしても向いてしまう。


 あの席。


 ライゾーの背中。


 食べ終わる気配は、まだない。


 でも、長くここにいる感じでもなかった。


「……」


 胸の奥が、わずかにざわつく。


 理由は分からない。


 ただ、“どこかに行く”気配だけが、はっきりしている。


 そのときだった。


 ――バーンッ!!


 扉が、乱暴に開かれた。


 空気が一気に動く。


 数人の客が振り返る。


「おーいライゾー!!できたぞー!!」


 ヒエンだった。


 息を切らす様子もなく、やけに上機嫌で入ってくる。


 そのまま真っ直ぐ、ライゾーの席へ。


「見てみろよこれ!いやー今回マジで出来いいわ。原価もだいぶ抑えられてさ、これ普通に量産したら商売になるって――」


 ぺらぺらと喋りながら、懐から布包みを取り出す。


 机の上に広げようとした、その瞬間。


 ――ゴッ。


 鈍い音がした。


「いってぇ!?」


 ヒエンの頭が、前に落ちる。


 ライゾーの拳だった。


 容赦はない。


「……飯食ってんだよ」


 低く言う。


 視線すら向けない。


 ヒエンは頭を押さえながら顔を上げる。


「いやちょっとくらい聞けよ!?こっちは頑張って――」


 ――ゴン。


「……黙れ」


 今度は二発目。


 さっきより重い。


「……はい」


 ヒエンは素直に黙った。


 肩をすくめて、椅子を引き寄せる。


 それでも口元は、どこか楽しそうだった。


 ライゾーは何も言わない。


 残りのサンドを食べきる。


 ジョッキを手に取り、最後の一口を飲み干す。


 それから、ゆっくりと息を吐いた。


 ようやく、手が止まる。


「……」


 立ち上がる。


 カウンターに向かう。


 ポケットから金を出し、無造作に置く。


「ミソノさん」


 ぶっきらぼうな声。


 だが、少しだけ違った。


「チーズの量、すげえ多かった。……ごちそうさま」


 短く、それだけ言う。


 ミソノが一瞬だけ目を細める。


「……あいよ」


 それ以上は何も言わない。


 背中で分かるからだ。


 ――行く顔だ。


 ライゾーはそのまま振り返る。


 ヒエンの肩を、がしっと掴む。


「行くぞ」


「はいはい、わかってますって」


 軽く返す。


 二人で、扉へ向かう。


 そのとき。


「あ、あのっ」


 声が飛んだ。


 思っていたより、少しだけ大きかった。


 ライゾーの足が、止まる。


 振り返る。


 そこに、アネモネがいた。


 息を少しだけ切らしている。


 駆け寄ってきたのが分かる。


「……」


 一瞬、言葉が出てこない。


 それでも、目を逸らさない。


「ライゾー……」


 名前を呼ぶ。


 それだけで、少しだけ間が生まれる。


「き、気をつけてね」


 やっと出た言葉。


 不器用だった。


 でも、真っ直ぐだった。


「……」


 ライゾーの中で、何かが一瞬止まる。


 さっきまでの流れ。


 頭の中のスイッチ。


 全部が、ほんの一瞬だけ噛み合わなくなる。


「……!」


 気づいたみたいに、目がわずかに開く。


 それから――


「……お、おう」


 返してしまう。


「サンキュな」


 言ったあとで、ほんの一瞬だけ表情が固まる。


 自分で、自分の言葉に引っかかったみたいに。


「……」


 空気が、わずかに緩む。


 ヒエンが、それを見逃すはずがなかった。


「……あ〜」


 にやにやと笑う。


 二人を交互に見て。


「そういう感じ〜?」


 言い終わる前に。


 ――ゴン。


「いってぇ!?」


 三発目だった。


「……余計なこと言うな」


 ライゾーが吐き捨てる。


 だが、完全には戻っていない。


 調子が、少しだけ狂っている。


 そのまま扉を開ける。


 外へ出る。


 ヒエンも続く。


 ……が。


 扉が閉まる直前。


 ひょこっと顔だけ戻した。


「アニー」


 軽く手を振る。


「ちゃんとコイツ、連れて帰ってくるから」


 それだけ言って、消える。


 扉が閉まる。


 静けさが戻る。


「……」


 アネモネは、その場に立ったまま。


 一瞬、きょとんとする。


 それから――


「……うん!」


 ぱっと顔が明るくなる。


 さっきまでの不安が、少しだけほどける。


 胸の前で手を組む。


 小さく頷く。


「……」


 その様子を、周りの客たちが見ていた。


 一瞬、見惚れる。


 そのまま。


「……はぁ」


 誰かが、肩を落とす。


「よりにもよって、あいつかよ……」


 ぼそりと漏れる声。


 別の客が苦笑する。


「アニーちゃんも物好きだな……」


 誰も大きくは言わない。


 でも、空気には出ている。


 残念そうな、諦めたような気配。


「……?」


 アネモネは、それに気づかない。


 ただ、少しだけほっとした顔で。


 また仕事に戻る。


 けれど。


 胸の奥に残っていたざわつきは――


 完全には消えていなかった。



 扉の外に出た瞬間、空気が変わった。


 鋳鉄の雉亭の中にあった熱と匂いが、背中の向こうに置いていかれる。代わりに、夜の西区の空気が肌に触れた。


 少し湿っていて、鉄と油と、どこか甘い匂いが混ざっている。


 ライゾーは何も言わず、歩き出す。


 バールを肩に担ぎ、いつもの歩幅で。


 その隣を、ヒエンが並ぶ。


「……いやー、いいもん見せてもらったわ」


 軽く言う。


 まださっきの空気を引きずっている声だった。


「なにが」


「なにがって」


 肩をすくめる。


「“サンキュな”って言ってたじゃん」


 わざとらしく、声を真似る。


「……」


 間が落ちる。


「……ぶっ殺すぞ」


 低く返す。


 本気じゃない。


 でも、半分くらいは本気だった。


「はいはい」


 ヒエンは笑う。


 それ以上は踏み込まない。


 分かっているからだ。


 あれ以上いじると、本気で殴られる。


「……で?」


 少しだけ間を置いて、声のトーンを戻す。


「行くんだろ、例の“博打”」


「……ああ」


 短く答える。


 迷いはない。


 さっきまでの揺れは、もう消えている。


「入口、中央区寄りの酒場だな」


「合言葉もだいたい見当ついてる」


 ヒエンが続ける。


「あとこれ」


 ポーチから、小さな包みを取り出す。


 ライゾーに投げる。


 受け取る。


 中を開く。


 そこには、削り出された金型があった。


 焼印の形。


 正確に、再現されている。


「……悪くねぇな」


 短く言う。


「だろ?」


 ヒエンがにやりと笑う。


「オレ様にかかればこんなもんよ」


 軽口。


 でも、その精度は確かだった。


「本物と並べても分かんねぇレベルだ。これで“客”にはなれる」


「……あとは中だな」


 ライゾーが呟く。


 視線が、少しだけ先を見る。


 西区の奥。


 そこから先。


 見えない場所。


「……」


 歩きながら、ふと手が動く。


 頬の内側。


 何もない場所に触れる。


 傷はない。


 残っているのは、感触だけだ。


「……」


 すぐに手を離す。


 何もなかったみたいに。


「今日、潜るか?」


 少しだけ間が落ちる。


 ライゾーは歩みを止めない。


 視線は前のまま。


 夜の通りを、そのまま切り裂くように進んでいく。


「インクはこいつがほぼ同じ色だぜ」


 ヒエンが、さらりと言う。


 懐から小瓶を取り出す。


 黒に近い、くすんだ赤。


 乾けば焼印と見分けがつかない色だった。


「合言葉は――“西の陽を落とす”」


 軽く投げるように言う。


 ライゾーの足が、そこで止まった。


 振り返らない。


 ただ、その場で手を出す。


 小瓶を受け取る。


「……」


 迷いはなかった。


 そのまま、包みの中から金型を取り出す。


 指先で確かめるように持ち替え、インクをなぞる。


 そして。


 手首の内側へ。


 ぐっと、押し当てた。


 じわりと圧がかかる。


 金型の縁が、皮膚に食い込む。


 離す。


 そこには、焼印と見分けのつかない“印”が残っていた。


「……」


 一瞬だけ、それを見下ろす。


 それから、小さく息を吐く。


「……お前、やっぱすげぇな」


 ぽつりと落とす。


 感情の乗らない声だった。


 でも、嘘じゃない。


「だろ?」


 ヒエンがすぐに乗る。


 得意げに胸を張る。


「だから言ったろ、オレ様に任せとけって。これ応用すりゃ他にも――」


「……ヒエン」


 途中で、遮る。


 軽くじゃない。


 切るように。


「ここから先は、俺一人で行く」


 視線は前のまま。


 声だけが落ちる。


「お前は、宿の食堂で待っててくれ」


「……は?」


 ヒエンの動きが止まる。


「いやいやいや、普通そこ一緒に――」


「目立つ」


 即答だった。


「それに、お前は裏だろ」


「……」


 一拍。


 ヒエンは、口を閉じる。


 言い返そうとして、やめる。


 分かっているからだ。


 ここから先は、“別の領域”だと。


「……ま、いいけどさ」


 肩をすくめる。


 軽く戻す。


「ちゃんと帰ってこいよ?」


「……ああ」


 短く返す。


 それだけで十分だった。


 ライゾーはそのまま歩き出す。


 ヒエンとは、そこで別れた。



 中央区寄り、東側の通り。


 西区とは違う、整えられた石畳。


 それでも夜になれば、似たような匂いが漂う。


 ライゾーは歩きながら、布を取り出した。


 目出し帽。


 顔の上半分を隠す。


 息が、少しだけ籠もる。


 それでも構わない。


 視線だけが外に出る。


「……」


 目的の酒場は、すぐに見つかった。


 目立たない。


 だが、隠れてもいない。


 入り口の前に立つ。


 迷いはない。


 そのまま、扉を押し開けた。



 中は、煙たかった。


 煙を焚いているのか、酒と煙草と、何か別のものが混ざっているのか。


 視界が、わずかに霞む。


 低い音楽が、腹の奥に響いていた。


 どこか異質なリズム。


 この街のものじゃない。


「……」


 視線を巡らせる。


 半分は見慣れた顔。


 西区で見かける不良や、ならず者たち。


 だが、もう半分は違う。


 浅黒い肌。


 骨格の違う顔立ち。


 纏っている空気も、立ち方も、この街の人間とは噛み合っていない。


 視線の置き方が違う。


 距離の測り方が違う。


 ――“よそ者”。


 その言葉が、そのまま形になったような連中だった。


 腰には刃物。


 隠す気もない。


 酒をあおりながら、低く笑っている。


 この場所自体が、もう別のルールで動いていた。


「……」


 ライゾーは何も言わず、カウンターに腰を下ろす。


 木の天板は油で光り、指を置くとわずかに滑る。


 目の前に、バーテンダー。


 無駄のない動きでグラスを拭いている。


 視線だけが、こちらに向いた。


「……注文は?」


 短く問う。


 感情はない。


 ただの確認。


 ライゾーは、少しだけ間を置く。


 周りの空気を一度だけ飲み込む。


 それから、口を開いた。


「……西の陽を落とす」


 言葉は、小さく。


 だが、はっきりと。


「……」


 一瞬だけ、沈黙が落ちる。


 音楽が遠くなる。


 周囲のざわめきが、ほんの少しだけ引く。


 バーテンダーの手が止まった。


 グラスを持ったまま、動かない。


 視線だけが、ライゾーを測るように動く。


 手首。


 刻まれた印。


 顔。


 目。


 すべてを、一瞬で見る。


「……こちらへ」


 それだけ言った。


 声は変わらない。


 だが、もう“客”として扱っていない声音だった。


 バーテンダーはカウンターを離れる。


 ライゾーも立ち上がる。


 ついていく。


 店の奥。


 人の気配が少し薄くなる。


 行き止まりに見える壁。


 その手前に、大きな冷蔵庫があった。


「……」


 バーテンダーは何も言わない。


 ただ、その取っ手に手をかける。


 横に、ずらす。


 軋む音がした。


 冷蔵庫が、壁ごと滑る。


 その奥に、暗い空間が現れる。


 下へと続く階段。


 冷たい空気が、ゆっくりと流れ上がってくる。


 湿っている。


 鉄と、血の匂いが混ざっていた。


「……」


 ライゾーは、無言でそれを見る。


 目の奥が、わずかに細くなる。


「ルールはご存知だと思いますので」


 バーテンダーが言う。


 もう視線は合わせない。


「受付はこれで完了です」


 一歩だけ、脇に退く。


 道を開ける。


「……どうぞ、お楽しみください」


 最後の言葉だけが、ほんの少しだけ歪んでいた。


 楽しめ、と言いながら。


 その実、何を指しているのかは明らかだった。


「……」


 ライゾーは答えない。


 ただ、一歩踏み出す。


 階段へ。


 靴底が、石を鳴らす。


 コツ、と小さく音が響く。


 そのまま、降りていく。


 光が、背中から遠ざかる。


 上の世界の音が、少しずつ消えていく。


 代わりに、下から別の音が上がってくる。


 低い歓声。


 金属のぶつかる音。


 何かが叩きつけられる音。


 そして――


 人の、声。


「……」


 ライゾーは、止まらない。


 そのまま、暗闇の中へ降りていく。


 手首に刻まれた“印”が、わずかに引きつる。


 それでも、構わない。


 足は、前に出る。


 迷いはない。


 西区に入り込んだ“余計なもの”を、


 その根から、叩き潰すために。


 ――その奥へ。


 さらに、深く。


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