西の陽を落とす
薄暗い部屋だった。
壁に打ち付けられた古い板の隙間から、外の光がわずかに漏れている。だがそれもほとんど役には立たず、天井からぶら下がった電球ひとつが、頼りなく室内を照らしていた。
机の上には、削り屑が散らばっている。
細く削られた鉄片。黒く汚れた布。刃物。小さなヤスリ。
その中心で、ヒエンは手を止めた。
最後のひと削りを終えた鉄の塊を、指先で軽く叩く。乾いた音が、狭い部屋に短く響いた。
「……ま、こんなもんっしょ」
独り言のように呟く。
手の中にあるそれは、小さな金型だった。焼印の形を、正確になぞるように削り出されたもの。元になった皮膚の印と比べても、ほとんど差はない。
ヒエンはそれをひっくり返し、角度を変えて眺める。光を当て、影を見て、歪みがないかを確かめる。
満足したのか、小さく頷いた。
布に包み、腰のポーチに滑り込ませる。
――あとは、あいつに渡すだけだ。
そこでようやく、部屋のもう一つの気配に視線を向けた。
片隅のベッド。
そこに、女が寝転がっている。
裸に近い格好のまま、だらりと腕を垂らし、煙を吐いていた。細い筒の先から立ち上る煙は、甘く重く、鼻に残る匂いをしている。
「……行くの?」
ねっとりとした声だった。
視線だけを向けて、指先で呼ぶように動かす。
絡みつくような仕草。
慣れている動きだった。
「わりっ」
ヒエンは、振り返りもしない。
靴を引っかけながら、軽く答える。
「オレ、“待たせたくない主義”なんだよ」
軽口。
いつも通りの調子。
女は、小さく笑った。
「つれないねぇ……」
煙をもう一度吐く。
それ以上、引き止めはしなかった。
ヒエンは扉に手をかける。
「戸締りだけ頼んだぜ?」
それだけ言って、外に出る。
廊下は暗く、空気が淀んでいた。
狭い集合住宅の中を抜け、外へ出る。
西区の匂いが、肺に入る。
鉄と油と、少しだけ血の混ざった、いつもの空気だった。
ヒエンは、軽く肩を回す。
口元に、うっすらと笑みを浮かべる。
「……さーて」
呟いて、歩き出した。
向かう先は、決まっている。
*
鋳鉄の雉亭の夜は、静かに賑わっていた。
昼間の慌ただしさとは違う。声は少し低く、笑いは長く尾を引く。酒と鉄板の匂いが、空気の中にゆっくりと溶け込んでいる。
カウンターの奥で、ミソノが鉄板を返していた。
油が跳ね、肉が焼ける音が響く。
その匂いに混じって、別の香りが広がる。
溶けたチーズだった。
長いロールパンに、たっぷりと挟まれている。
表面にはセサミとポピーシードが散らされ、軽く焼かれた外側はさくりとした歯触りを残している。中には、炒めた牛肉と玉ねぎ。塩と胡椒だけのシンプルな味付け。
そこに、これでもかというほどのチーズが流し込まれていた。
鋳鉄の雉亭の隠れた人気メニュー――チーズステーキサンド。
それに、ライゾーはかぶりついていた。
噛みちぎる。
熱と脂が、口の中に広がる。
パンの歯切れの良さと、肉の重さが混ざる。
それでも、止まらない。
咀嚼の音が、やけに静かな席に響く。
脇には、木製の大ジョッキ。
ひとつは、すでに空だった。
もう一つに手を伸ばし、ぐい、と傾ける。
喉を鳴らして飲み干す。
それから、またパンにかぶりつく。
その様子を、ミソノは横目で見ていた。
「……あんたねぇ」
鉄板を返しながら、声をかける。
「暫く振りに顔出したと思ったらこれかい」
少しだけ目を細める。
「また何かしでかすつもりじゃないだろうね」
問いかけは軽い。
だが、完全に冗談でもない声音だった。
ライゾーは、口を動かしたまま答える。
「……ほっといてくれよ」
ぶっきらぼうに。
それ以上は言わない。
ミソノは小さく息を吐く。
「……ったく」
それ以上追及はしなかった。
分かっているからだ。
この食い方。
この量。
このタイミング。
――勝負前だ。
言わなくても、分かる。
「アニーちゃん、そっちお願い」
「うん、今行く」
アネモネが返事をする。
皿を持ったまま、足を運ぶ。
その途中で、視線が止まる。
ライゾーだった。
久しぶりだった。
同じ空間にいるのに、手が届かないところに行こうとしてる様に感じる。
背中。
肩。
服。
全部が、前に見たときより荒れている。
綺麗だったはずの服は、もう汚れている。血か、油か、土かも分からない染みが、あちこちに残っていた。
腕にも、生傷が増えている。
浅いものから、深いものまで。
隠す気もない。
「……」
皿を持つ手が、ほんのわずかに止まる。
声をかけようとする。
でも、言葉が出てこない。
代わりに、ただ見てしまう。
ライゾーは気づかない。
気づいても、見ないのかもしれない。
ただ、食っている。
何かを詰め込むみたいに。
「……」
アネモネは、ゆっくりと視線を外す。
仕事に戻る。
でも。
胸の奥に、小さなざわつきが残ったままだった。
それが何なのかは、まだ分からない。
ただ。
少しだけ、落ち着かなかった。
*
食堂の空気は、さっきまでと同じようで、どこか違っていた。
鉄板の音も、酒の匂いも、客の笑い声も変わらない。
それなのに、アネモネの中だけ、少しだけ静かじゃない。
視線が、どうしても向いてしまう。
あの席。
ライゾーの背中。
食べ終わる気配は、まだない。
でも、長くここにいる感じでもなかった。
「……」
胸の奥が、わずかにざわつく。
理由は分からない。
ただ、“どこかに行く”気配だけが、はっきりしている。
そのときだった。
――バーンッ!!
扉が、乱暴に開かれた。
空気が一気に動く。
数人の客が振り返る。
「おーいライゾー!!できたぞー!!」
ヒエンだった。
息を切らす様子もなく、やけに上機嫌で入ってくる。
そのまま真っ直ぐ、ライゾーの席へ。
「見てみろよこれ!いやー今回マジで出来いいわ。原価もだいぶ抑えられてさ、これ普通に量産したら商売になるって――」
ぺらぺらと喋りながら、懐から布包みを取り出す。
机の上に広げようとした、その瞬間。
――ゴッ。
鈍い音がした。
「いってぇ!?」
ヒエンの頭が、前に落ちる。
ライゾーの拳だった。
容赦はない。
「……飯食ってんだよ」
低く言う。
視線すら向けない。
ヒエンは頭を押さえながら顔を上げる。
「いやちょっとくらい聞けよ!?こっちは頑張って――」
――ゴン。
「……黙れ」
今度は二発目。
さっきより重い。
「……はい」
ヒエンは素直に黙った。
肩をすくめて、椅子を引き寄せる。
それでも口元は、どこか楽しそうだった。
ライゾーは何も言わない。
残りのサンドを食べきる。
ジョッキを手に取り、最後の一口を飲み干す。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
ようやく、手が止まる。
「……」
立ち上がる。
カウンターに向かう。
ポケットから金を出し、無造作に置く。
「ミソノさん」
ぶっきらぼうな声。
だが、少しだけ違った。
「チーズの量、すげえ多かった。……ごちそうさま」
短く、それだけ言う。
ミソノが一瞬だけ目を細める。
「……あいよ」
それ以上は何も言わない。
背中で分かるからだ。
――行く顔だ。
ライゾーはそのまま振り返る。
ヒエンの肩を、がしっと掴む。
「行くぞ」
「はいはい、わかってますって」
軽く返す。
二人で、扉へ向かう。
そのとき。
「あ、あのっ」
声が飛んだ。
思っていたより、少しだけ大きかった。
ライゾーの足が、止まる。
振り返る。
そこに、アネモネがいた。
息を少しだけ切らしている。
駆け寄ってきたのが分かる。
「……」
一瞬、言葉が出てこない。
それでも、目を逸らさない。
「ライゾー……」
名前を呼ぶ。
それだけで、少しだけ間が生まれる。
「き、気をつけてね」
やっと出た言葉。
不器用だった。
でも、真っ直ぐだった。
「……」
ライゾーの中で、何かが一瞬止まる。
さっきまでの流れ。
頭の中のスイッチ。
全部が、ほんの一瞬だけ噛み合わなくなる。
「……!」
気づいたみたいに、目がわずかに開く。
それから――
「……お、おう」
返してしまう。
「サンキュな」
言ったあとで、ほんの一瞬だけ表情が固まる。
自分で、自分の言葉に引っかかったみたいに。
「……」
空気が、わずかに緩む。
ヒエンが、それを見逃すはずがなかった。
「……あ〜」
にやにやと笑う。
二人を交互に見て。
「そういう感じ〜?」
言い終わる前に。
――ゴン。
「いってぇ!?」
三発目だった。
「……余計なこと言うな」
ライゾーが吐き捨てる。
だが、完全には戻っていない。
調子が、少しだけ狂っている。
そのまま扉を開ける。
外へ出る。
ヒエンも続く。
……が。
扉が閉まる直前。
ひょこっと顔だけ戻した。
「アニー」
軽く手を振る。
「ちゃんとコイツ、連れて帰ってくるから」
それだけ言って、消える。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
「……」
アネモネは、その場に立ったまま。
一瞬、きょとんとする。
それから――
「……うん!」
ぱっと顔が明るくなる。
さっきまでの不安が、少しだけほどける。
胸の前で手を組む。
小さく頷く。
「……」
その様子を、周りの客たちが見ていた。
一瞬、見惚れる。
そのまま。
「……はぁ」
誰かが、肩を落とす。
「よりにもよって、あいつかよ……」
ぼそりと漏れる声。
別の客が苦笑する。
「アニーちゃんも物好きだな……」
誰も大きくは言わない。
でも、空気には出ている。
残念そうな、諦めたような気配。
「……?」
アネモネは、それに気づかない。
ただ、少しだけほっとした顔で。
また仕事に戻る。
けれど。
胸の奥に残っていたざわつきは――
完全には消えていなかった。
*
扉の外に出た瞬間、空気が変わった。
鋳鉄の雉亭の中にあった熱と匂いが、背中の向こうに置いていかれる。代わりに、夜の西区の空気が肌に触れた。
少し湿っていて、鉄と油と、どこか甘い匂いが混ざっている。
ライゾーは何も言わず、歩き出す。
バールを肩に担ぎ、いつもの歩幅で。
その隣を、ヒエンが並ぶ。
「……いやー、いいもん見せてもらったわ」
軽く言う。
まださっきの空気を引きずっている声だった。
「なにが」
「なにがって」
肩をすくめる。
「“サンキュな”って言ってたじゃん」
わざとらしく、声を真似る。
「……」
間が落ちる。
「……ぶっ殺すぞ」
低く返す。
本気じゃない。
でも、半分くらいは本気だった。
「はいはい」
ヒエンは笑う。
それ以上は踏み込まない。
分かっているからだ。
あれ以上いじると、本気で殴られる。
「……で?」
少しだけ間を置いて、声のトーンを戻す。
「行くんだろ、例の“博打”」
「……ああ」
短く答える。
迷いはない。
さっきまでの揺れは、もう消えている。
「入口、中央区寄りの酒場だな」
「合言葉もだいたい見当ついてる」
ヒエンが続ける。
「あとこれ」
ポーチから、小さな包みを取り出す。
ライゾーに投げる。
受け取る。
中を開く。
そこには、削り出された金型があった。
焼印の形。
正確に、再現されている。
「……悪くねぇな」
短く言う。
「だろ?」
ヒエンがにやりと笑う。
「オレ様にかかればこんなもんよ」
軽口。
でも、その精度は確かだった。
「本物と並べても分かんねぇレベルだ。これで“客”にはなれる」
「……あとは中だな」
ライゾーが呟く。
視線が、少しだけ先を見る。
西区の奥。
そこから先。
見えない場所。
「……」
歩きながら、ふと手が動く。
頬の内側。
何もない場所に触れる。
傷はない。
残っているのは、感触だけだ。
「……」
すぐに手を離す。
何もなかったみたいに。
「今日、潜るか?」
少しだけ間が落ちる。
ライゾーは歩みを止めない。
視線は前のまま。
夜の通りを、そのまま切り裂くように進んでいく。
「インクはこいつがほぼ同じ色だぜ」
ヒエンが、さらりと言う。
懐から小瓶を取り出す。
黒に近い、くすんだ赤。
乾けば焼印と見分けがつかない色だった。
「合言葉は――“西の陽を落とす”」
軽く投げるように言う。
ライゾーの足が、そこで止まった。
振り返らない。
ただ、その場で手を出す。
小瓶を受け取る。
「……」
迷いはなかった。
そのまま、包みの中から金型を取り出す。
指先で確かめるように持ち替え、インクをなぞる。
そして。
手首の内側へ。
ぐっと、押し当てた。
じわりと圧がかかる。
金型の縁が、皮膚に食い込む。
離す。
そこには、焼印と見分けのつかない“印”が残っていた。
「……」
一瞬だけ、それを見下ろす。
それから、小さく息を吐く。
「……お前、やっぱすげぇな」
ぽつりと落とす。
感情の乗らない声だった。
でも、嘘じゃない。
「だろ?」
ヒエンがすぐに乗る。
得意げに胸を張る。
「だから言ったろ、オレ様に任せとけって。これ応用すりゃ他にも――」
「……ヒエン」
途中で、遮る。
軽くじゃない。
切るように。
「ここから先は、俺一人で行く」
視線は前のまま。
声だけが落ちる。
「お前は、宿の食堂で待っててくれ」
「……は?」
ヒエンの動きが止まる。
「いやいやいや、普通そこ一緒に――」
「目立つ」
即答だった。
「それに、お前は裏だろ」
「……」
一拍。
ヒエンは、口を閉じる。
言い返そうとして、やめる。
分かっているからだ。
ここから先は、“別の領域”だと。
「……ま、いいけどさ」
肩をすくめる。
軽く戻す。
「ちゃんと帰ってこいよ?」
「……ああ」
短く返す。
それだけで十分だった。
ライゾーはそのまま歩き出す。
ヒエンとは、そこで別れた。
*
中央区寄り、東側の通り。
西区とは違う、整えられた石畳。
それでも夜になれば、似たような匂いが漂う。
ライゾーは歩きながら、布を取り出した。
目出し帽。
顔の上半分を隠す。
息が、少しだけ籠もる。
それでも構わない。
視線だけが外に出る。
「……」
目的の酒場は、すぐに見つかった。
目立たない。
だが、隠れてもいない。
入り口の前に立つ。
迷いはない。
そのまま、扉を押し開けた。
*
中は、煙たかった。
煙を焚いているのか、酒と煙草と、何か別のものが混ざっているのか。
視界が、わずかに霞む。
低い音楽が、腹の奥に響いていた。
どこか異質なリズム。
この街のものじゃない。
「……」
視線を巡らせる。
半分は見慣れた顔。
西区で見かける不良や、ならず者たち。
だが、もう半分は違う。
浅黒い肌。
骨格の違う顔立ち。
纏っている空気も、立ち方も、この街の人間とは噛み合っていない。
視線の置き方が違う。
距離の測り方が違う。
――“よそ者”。
その言葉が、そのまま形になったような連中だった。
腰には刃物。
隠す気もない。
酒をあおりながら、低く笑っている。
この場所自体が、もう別のルールで動いていた。
「……」
ライゾーは何も言わず、カウンターに腰を下ろす。
木の天板は油で光り、指を置くとわずかに滑る。
目の前に、バーテンダー。
無駄のない動きでグラスを拭いている。
視線だけが、こちらに向いた。
「……注文は?」
短く問う。
感情はない。
ただの確認。
ライゾーは、少しだけ間を置く。
周りの空気を一度だけ飲み込む。
それから、口を開いた。
「……西の陽を落とす」
言葉は、小さく。
だが、はっきりと。
「……」
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
音楽が遠くなる。
周囲のざわめきが、ほんの少しだけ引く。
バーテンダーの手が止まった。
グラスを持ったまま、動かない。
視線だけが、ライゾーを測るように動く。
手首。
刻まれた印。
顔。
目。
すべてを、一瞬で見る。
「……こちらへ」
それだけ言った。
声は変わらない。
だが、もう“客”として扱っていない声音だった。
バーテンダーはカウンターを離れる。
ライゾーも立ち上がる。
ついていく。
店の奥。
人の気配が少し薄くなる。
行き止まりに見える壁。
その手前に、大きな冷蔵庫があった。
「……」
バーテンダーは何も言わない。
ただ、その取っ手に手をかける。
横に、ずらす。
軋む音がした。
冷蔵庫が、壁ごと滑る。
その奥に、暗い空間が現れる。
下へと続く階段。
冷たい空気が、ゆっくりと流れ上がってくる。
湿っている。
鉄と、血の匂いが混ざっていた。
「……」
ライゾーは、無言でそれを見る。
目の奥が、わずかに細くなる。
「ルールはご存知だと思いますので」
バーテンダーが言う。
もう視線は合わせない。
「受付はこれで完了です」
一歩だけ、脇に退く。
道を開ける。
「……どうぞ、お楽しみください」
最後の言葉だけが、ほんの少しだけ歪んでいた。
楽しめ、と言いながら。
その実、何を指しているのかは明らかだった。
「……」
ライゾーは答えない。
ただ、一歩踏み出す。
階段へ。
靴底が、石を鳴らす。
コツ、と小さく音が響く。
そのまま、降りていく。
光が、背中から遠ざかる。
上の世界の音が、少しずつ消えていく。
代わりに、下から別の音が上がってくる。
低い歓声。
金属のぶつかる音。
何かが叩きつけられる音。
そして――
人の、声。
「……」
ライゾーは、止まらない。
そのまま、暗闇の中へ降りていく。
手首に刻まれた“印”が、わずかに引きつる。
それでも、構わない。
足は、前に出る。
迷いはない。
西区に入り込んだ“余計なもの”を、
その根から、叩き潰すために。
――その奥へ。
さらに、深く。




