第四話 最期の三分間
――世界が、止まった。
その瞬間。
荒木健は、自分が死んだのだと思った。
胸を貫かれた痛みも。
呼吸ができない苦しさも。
目の前で倒れているセレネの姿も。
ルゥの鳴き声も。
すべてが唐突に消えた。
音がない。
痛みもない。
身体の感覚すらない。
ただ、暗闇の中に意識だけが残っていた。
「……?」
何が起きている。
そう思った直後だった。
――ドクン。
世界が揺れた。
◇
「――健」
「……え?」
意識が、唐突に戻った。
息を呑んだ瞬間、肺に冷たい空気が流れ込む。
心臓が激しく跳ねた。
身体がある。
指が動く。
土の感触がする。
健は反射的に目を開けた。
森だった。
木々。
湿った土。
朝の冷たい空気。
「健?」
聞き覚えのある声。
振り向く。
そこにはセレネがいた。
銀色の髪が風に揺れている。
その横にはルゥ。
「みゃ」
健は荒い息を繰り返しながら、二人を見た。
「……セレネ?」
「はい」
「ルゥ……?」
「みゃ」
何が起きている。
健は自分の胸に手を当てた。
傷がない。
服にも血がついていない。
左腕も――ある。
指を動かす。
ちゃんと動く。
「……え?」
息を吸う。
肺に空気が入る。
苦しくない。
「健?」
セレネが怪訝そうに近づいてくる。
「どうしました?」
「いや……」
健は周囲を見渡した。
森の中。
昨日とは違う場所。
セレネとルゥ。
そして――。
自分の手には、さっきまで握っていたはずの木の枝。
「……俺、生きてる?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
セレネが首を傾げる。
「何かありましたか?」
「……」
健は答えられなかった。
頭の中に、鮮明に残っている。
巨大な魔獣。
セレネが斬りかかる姿。
自分が吹き飛ばされた感覚。
左腕を裂かれた痛み。
胸を貫かれた瞬間。
血が逆流するような感覚。
そして――。
『死にたくない』
最後に自分が叫んだ言葉。
「……夢?」
そう呟いた。
だが、違う。
夢ではない。
覚えている。
全部。
最初から最後まで。
ただし――。
その記憶には、奇妙な境目があった。
健はゆっくりと顔を上げた。
「……今、何時くらい?」
「時間ですか?」
「うん」
「朝です」
セレネが答える。
「まだ出発してから、それほど経っていません」
「……」
健の背筋が冷たくなった。
出発してから、それほど経っていない。
つまり。
さっきの死から、時間が巻き戻っている。
「……三分?」
「?」
健は呟いた。
なぜ三分なのか。
理由は分からない。
だが、奇妙な確信があった。
自分の中に残っている「死ぬ直前の記憶」。
それは、ほんのわずかな時間しかなかった。
正確に言えば――。
死に戻ったこの瞬間から死ぬまでの記憶だけ。
「……最期の三分間」
健は呟いた。
その言葉を口にした瞬間。
頭の奥が、ズキッと痛んだ。
「っ……!」
「健?」
「大丈夫」
健は額を押さえる。
「ちょっと考え事」
「そうですか」
セレネはそれ以上追及しなかった。
健は息を整える。
そして、さっきの出来事を思い返した。
魔獣が現れる。
セレネが戦う。
自分が助けようとする。
セレネが負傷する。
自分が左腕を負傷。
そして胸を貫かれる。
――だったら。
「変えられる」
健は小さく呟いた。
「……何をですか?」
「え?」
「今、変えられると言いました」
「あー……」
健は一瞬迷った。
「今日の昼飯」
「?」
「昼飯、もっと豪華にできるかなって」
「まだ朝ですが」
「だよな」
苦笑する。
危なかった。
まだ、この力について何も分からない。
それでも一つだけ分かる。
自分は死んだ。
そして――戻ってきた。
なら。
あの結末を変えられる。
「セレネ」
「はい」
「この先、少し警戒した方がいい」
「……」
セレネの目が細くなった。
「何か感じましたか?」
「いや」
健は言葉を選ぶ。
「ただの勘」
「そうですか」
「……信じてくれる?」
「はい」
即答だった。
健は少し驚いた。
「理由は?」
「健が嘘をつく必要がないからです」
「……」
胸が少し痛んだ。
さっきは、そのセレネが倒れた。
自分を庇って。
そして――死んだ。
「……絶対に」
健は拳を握った。
「今度は死なせない」
「何をですか?」
「……いや」
健は首を振る。
「独り言」
◇
森の空気が変わった。
さっきと同じだ。
鳥の声が消える。
風が止まる。
虫の音もなくなる。
健の表情が強張った。
「セレネ」
「はい」
「来る」
「……!」
セレネも気付いた。
剣を抜く。
「下がってください」
「分かった」
直後。
森の奥から巨大な影が飛び出した。
――あの魔獣。
健は反射的に叫んだ。
「右!」
セレネが身体を捻る。
巨大な角が、彼女のいた場所を薙ぎ払った。
地面が砕ける。
「……!」
セレネの目が僅かに見開かれる。
健は走った。
「左から来る!」
魔獣が方向を変える。
セレネは剣を構えた。
そして――斬る。
ガキィン!
硬い音が森に響く。
魔獣の角が一本、宙を舞った。
「やっぱり……!」
健は確信した。
セレネは弱くない。
むしろ強い。
前の戦いでも、健を守りながら魔獣と渡り合っていた。
ただ。
あのときは情報がなかった。
今は違う。
健が先回りして動きを伝え、戦いに割って入ったことで、セレネは本来なら必要のなかった対応を強いられていた。彼女は魔獣だけでなく、出しゃばって前に出る健の動きまで気にしなければならず、その分だけ攻撃の機会を逃し、苦戦していたのだ。
「セレネ!」
「はい!」
「そいつ、三回目の突進のあとに一瞬止まる!」
セレネが魔獣を見据える。
「分かりました!」
魔獣が吠える。
地面を蹴る。
一度目。
セレネが避ける。
二度目。
剣で受け流す。
三度目。
――来る。
健は息を呑んだ。
「今!」
セレネが踏み込んだ。
魔獣の動きが止まる。
その一瞬。
セレネの剣が、魔獣の首元を深く斬り裂いた。
巨体が倒れる。
地面が震えた。
「……やった」
健は呆然と呟いた。
前とは違う。
セレネは倒れていない。
自分も死んでいない。
ルゥも無事だ。
「健」
「ん?」
セレネが振り返る。
「どうして分かったのですか?」
「……」
健は答えに詰まった。
当然だ。
前に一度見たから。
死ぬまで戦ったから。
けれど、それを言うことはできない。
「勘」
「またですか」
「そう。俺、実は勘が鋭いんだよ」
「初耳です」
「俺も今知った」
「……」
セレネがじっと健を見る。
健は笑って誤魔化した。
その瞬間。
胸の奥に、妙な感覚が走った。
――何かが変わった。
そんな気がした。
だが、まだ分からない。
この力が何なのか。
なぜ自分だけが戻ったのか。
なぜ三分なのか。
そして――。
もし、次に三分では足りない死が待っていたら。
誰かが死んでしまったら。
自分が死ぬだけでは済まない未来が来たら。
健はまだ知らない。
この力が。
ただ自分の命をやり直すための力ではないことを。
そしていつか。
自分の周りの誰かが死ぬ未来を変えるために。
何度でも、自分自身が死ぬことになることを.




